第31話 言葉は月のように

「その、今日はありがとな。ノート貸してくれたお陰で、テスト対策が捗った」

「……いえいえ。お役に立てたのなら何よりです」

「……何故にご機嫌斜めなんだ」

「どこかの誰かさんが鈍感なのが悪いのです。誰とはいいませんけど」


 ノートを返してから図書館を後にしたのだが、楓華は見るからにしょげている。


 勉強中はどこが分からないかを教科書や参考書に印を付けて渡すと丁寧な解説付きのプリントをくれたが、その動作の中に会話はなかった。


 その理由は単純で、和樹が楓華の発言の一部を聞き損ねてしまったからなのだが、和樹が繰り返し謝罪しても「知りません」の一点張りのため、和樹は数学の難問以上に頭を悩ませていた。


「……なんか、ごめんな」

「別に謝られるほどの事ではないです」

「なら機嫌を直してくれると助かるんだが」

「それは無理です」

「……理不尽極まりない」


 何度謝ろうと、こんな感じで、ろくに弁明の機会すら与えられないのだ。


「どうやったら機嫌を直してくれるんだ」

「……一緒に帰ると約束してくれるのなら」

「そんなことでいいのか? ……というか最初からそのつもりだったんだけど」

「え?」


 和樹としては、楓華の機嫌が元に戻り次第「一緒に帰らないか」と誘うつもりだったので、そんなことでいいのかと思ってしまう。


 動揺に揺らいでいた楓華の顔を覗き込めば、彩度を増したルビー色の双眸が、微かに見開かれていた。


「家まで道は同じなんだし、わざわざ別々に帰る必要ないだろ」

「ま、まぁ……それもそうですが」

「……嫌なら断ってくれていいが」

「いや、そんな。……断るわけないです」


 断られることが怖かったのであらかじめ保険をかけておいたが、返ってきたのは恥じらいと期待が込められた言葉。


 おずおずと差し出された小さな手を掴めば、楓華は頬を紅潮させ、視線を床に落とす。


「和樹くんの手、意外と温かいですね」

「意外とってなんだ。楓華の手が冷たすぎるだけだと思うが」

「……なんだかすごく、安心します」

「……そりゃどうも」


 楓華は和樹に握られている手をまじまじと見つめると、くしゃりと頬を緩ませあどけない笑顔を浮かべる。


 その笑みはどこか幼く、儚かった。


(楓華って、親と手を繋いだことあるのかな)


 それを見て和樹の中に浮かんだのは、1つの些細な疑問。


 和樹は楓華の前では親の話題はタブーだと認識しているので楓華に直接訊くことはしないと心懸こころがけているものの、楓華の過去を聞いて以来、たまにそういったことを考えてしまう。


 心にかかったもやを退けるように、和樹は握られた手に力を込めた。


「……和樹くん?」

「どうかしたか」

「怒ってますか……?」

「別に、少し考え事をしてただけだ」


 和樹としては自分に嘘をつくのが嫌なので、あまり事実とは異ならないように気をつけながら誤魔化した。


 楓華は首を傾げたが、和樹が何もない、ということを伝えると「ならいいのですけど」と納得してくれた。


「……それじゃ、一緒に帰るか」

「あの、和樹くん」


 その楓華の声は、静かに震えていた。


「ん?」

「和樹くんは……私のことを、どう思っていますか」


 唐突なその問いかけに和樹は一瞬だけ息を詰まらせて、それから頬をかく。


 楓華のことをどう思っているのか。すぐには回答を出せなかった。


(……どう答えるのが正解なんだ?)


 無論、和樹にとって楓華はマンションの隣人である。


 しかし、ただの隣人と呼ぶには距離感が近すぎるし、何なら下の名前で呼びあっているぐらいなので、知り合いというのも少し違う気がする。


 ならば、今の和樹と楓華の関係を表す最適な表現は1つしかない。


「……俺は、友達だと思ってる」


 俺が勝手に思ってるだけだからな、と付け加えると、楓華は喜んでいるような、残念がっているような、不思議な表情を浮かべた。


「……私も、いいですか」

「いいって何が」

「和樹くんのことを、友達と……思っても」


 甘美な声で一言ずつ、楓華は時間をかけて言葉を紡いだ。


 外の気温は冷たいはずなのに、そこに訪れた沈黙はどこか温かい。


 和樹がどんな言葉を返せばいいか迷っていると、やっぱり言わなければよかった、と言わんばかりに楓華は瞳をゆっくりと閉じた。


「……俺は」


 なるべく平常心で話しかけようとしたが、少しだけ声が裏返ってしまった。


 羞恥に悶えそうになったが、乱雑に頭を掻いて気持ちを無理やり整理する。


 失うのが、怖い。そこにあって当たり前だったものがなくなってしまうのが、嫌で嫌でしょうがない。


 だけど、それでも────


「楓華と……友達になりたい」


 溢れる羞恥を抑え、和樹は楓華をまっすぐ見つめた。


 そして、ぴったりと目が合う。


 楓華の澄んだ瞳が膜を張ったように湿って、しかししずくはこぼれ落ちることなく、ただ和樹を映していた。


「……私も、なりたいです。と、友達に」


 その声は囁くように小さなものだったが、確かな熱を持って、和樹の耳へと届いた。


 和樹の手を包む柔らかな指先は、力強く和樹を留めて離さない。それはまるで、逃がすものかと言われているかのようだった。


 それを和樹が了承の意を込めて握り返せば、濡れた瞳を隠すように閉じて、楓華は和樹に微笑んだ。


 可愛い、としか言い表せないその笑顔に、和樹の心臓はとんでもない速度で加速していく。


 全身の熱が顔に集まっているのではないかと錯覚してしまうほどに、頬がこれまでに感じたことのない量の熱を帯びる。


「……そろそろ帰ろうか」

「……一緒に、ですか」


 これ以上は体がもたない、と話題を逸らすと、楓華はきゅ、と袖を掴んで見上げてくる。


 いい意味で居心地が悪かった。


 この場から一刻も早く逃げ出したい、と羞恥にもだえる自分と、もう少しだけここに居たいと願っている自分が、脳内で論争を繰り広げている。


「もちろんだ。……友達、だからな」

「……えへへっ」


 鈴を転がしたような声で、楓華は子供のような笑みを浮かべた。


 その表情はいつになく穏やかで、それでいてとても愛らしかった。


 それに見惚みとれると同時に、体の内側がほんのりとした熱をともした。


 この胸の中に渦巻くくすぐったい感情の正体は何なのだろうか。


 その問いの答えは見つかることはなく、和樹の脳内をしばらく混乱させるのだった。




〘あとがき〙

 どうも、室園ともえです。

 今回も引き続き読んでくださった方、本当にありがとうございます。


 今回は互いの感情をほんの少しだけ素直にさらけ出せるようになった日常の一幕を描きましたが、どうだったでしょうか。


 心理描写は相変わらず苦手で……自分は書けているつもりでも客観的に見ると意外と抜けが多いんですよね。表現の不足だったり、テンポの緩急の有無だったり。


 矛盾点や訂正箇所などかありましたら(自分でもちゃんと見直しはしていますが)一言指摘してくださると助かります。


 もしよろしければ、フォローや感想、応援や星レビューなど、お願いします。


 次回は、10月3日投稿予定です。


 それでは、また。

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