第27話 Stand by me(4)
「……もう、大丈夫です」
そう告げると、楓華は顔を上げて、ゆっくりと体を起こした。
結局のところ、彼女が泣いた時間は軽く30分を超えていたのだが、わざわざ指摘する必要もないだろう。
それだけ楓華の抱え込んでいた感情が大きかったということだ。
「……九条さん、その」
「どうした? ご所望ならまだ顔を埋めててもいいんだぞ」
「それは……これ以上情けない姿をみせたくはありませんので、大丈夫です」
あんなに泣き崩れておいて今更だろう、と呟けば、楓華はむぅ、と頬を膨らませて和樹の肩に額を押し付けてきた。
「やっぱり、あとちょっとだけ甘えさせてください」
「……お、おう」
甘えさせて、と
『でも、それじゃ私……また1人に』
誰も楓華の側に居ないのならば、和樹が寄り添ってやればいいのだ。
大丈夫だ、俺の前でぐらい肩の力を抜いていいんだぞ、という気持ちを込めて優しく接してくれる相手が居れば、たとえその相手が最近知り合ったばかりの隣人だったとしても、少なからずその心は救われる筈だ。
「……あの、九条さん」
しばらくすれば、多少落ち着きを取り戻したのか、楓華はその顔に小さな笑みを浮かべて和樹を見上げる。
「なんだ」
「えっと、その……和樹くん、と呼ばせてもらってもいいですか」
その唐突過ぎる提案に、和樹は動揺を隠せずに体を震わせてしまった。
「……どうして急に、そんなこと」
「……私の内情を誰かに話したのは、あなたが初めてです。それは、私が九条さんのことを信用しているからで……その、なんて言えばいいのか分からないのですが……よ、呼ばせてもらいたいです」
甘美な声で縋るように言われれば、ただでさえ疲弊していた和樹の精神は殆ど瀕死状態にされてしまう。
「いや……その、別にいい、けど」
そんな状態でまともな返事などできるわけもなく、途切れ途切れのぎこちない返事をすることしかできなかった。
しかし、楓華はそれを聞き取ると、僅かに口角を上げ、頬を赤く染める。
「……和樹、くん」
自分の名前を呼ばれ、和樹はその声の主へと顔を向ける。
そこには、恥じらいを浮かべながらも、まっすぐと揺らがぬ視線を向けている楓華の姿があった。
「……楓華」
辛うじて残っていた理性を振り絞って呟けば、楓華は瞳に透明な膜を張って、恥ずかしそうに俯いた。
その姿は、その可愛らしさを上手く表すことのできない自分の語彙力を恨むほどに、ただひたすらに、可愛かった。
「……お前が名前で呼ぶなら、俺だって名前で呼んでも構わないだろ」
「……和樹くんがいいなら、それで」
「じゃあ、そうさせてもらう」
「なんだか照れくさいですね」
「嫌ならやめればいい」
「……嫌じゃありません」
恐らく恥じらいを浮かべているであろう顔を見られたくがないためにそっぽを向いて素っ気なく返事をすれば、語気を強めた否定の意思が返ってきた。
「……まだ、慣れてないだけです」
小さく呟いた楓華は、和樹の瞳をまじまじと見ながら慈しむように微笑んだ。
その発言に、和樹が
「……私は、自分が嫌いです。我儘で、見栄っ張りで、意気地無しで、嘘つきで……どうしようもないくらいに駄目な人間なんです」
「俺はそうは思わないけどな」
予想していた反応と違ったのか、楓華は驚いたようにルビー色の瞳を見開いていた。
そんな楓華を横目に見ながら、和樹は偽りのない本音をぶつける。
「そりゃ、確かに楓華は駄目な人間かもしれない。多分俺がいなかったら、これからも全部1人で抱え込んでいくつもりだったんだろうし。でもそれは、お前が優しいからなんだと思う。誰にも迷惑をかけたくないって思ってたからこそ、今日まで1人で耐えてこられたんだろ。それなら、自分を責めたり
俺なんてしょっちゅう他の人に迷惑かけてるけどな、と苦笑しながら呟くと、楓華は理解が追いついていないのか、その瞳は和樹の胸の辺りを
それからしばらくして、楓華はゆるりと肩を脱力させ、気の抜けた笑みを浮かべる。
楓華は我儘だと言ったが、それ自体は別に何も悪いことでもない。それを短所だと言い張って自分を戒めなければならないのなら、人は自分の欲望を全て抑え込まなければいけなくなってしまう。
この世の中に自分の全ての欲求に打ち勝っている人など、そうはいないだろう。
和樹なら食欲にすら秒で負ける。
嘘つきだって同じだ。生まれてからたった1回も嘘をつかずに堅実に生きてきた人なんて、和樹は見たことも聞いたこともない。
話を円滑に進める時、課題の提出を忘れた時、自分に都合の悪い事が起こった時など、どんな形であれ人生には嘘をつかなければならない瞬間が必ず訪れてしまうはずだ。
「人」の「
「その……うまく言えないけど、俺は好きだぞ、楓華のこと」
この数週間、楓華と接する中で、和樹は何度も楓華を人として好ましく感じていた。
時折見せる柔和な笑みも、褒めた際に「えへへっ」と幸せそうにこぼす甘美な声も、本当はお腹が空いているのに余裕ぶったせいで顔を赤らめてしまう、どこか子供じみた性格も、そのどれもが楓華を彩る魅力なのだ。
ついこの前まで、異性に対して全くと言っていいほどに興味は無いと考えていた和樹の瞳にさえ、楓華という少女の存在は可愛らしく映り込む。
「えぁ……うぅ……」
はっきりと楓華のほうを見ながらそう言ったのだが、楓華は頬を赤らめると、和樹から露骨に視線を逸らし始めた。
その視線を追いかけるように体を動かせば、今はこっちを見ちゃだめです、と両手で視界の殆どを遮られてしまう。
しかし、指と指の隙間から見えた楓華の表情は、これまでに見たことがないほどに赤く色付き、耳の先まで羞恥に染まっていた。
和樹としては人として好ましいという気持ちを伝えたのだが、その表情を見て、自分の発言を振り返ってみれば、勘違いされてもおかしくないことを言っていたことに気づく。
「い、今のはあれだ! 言葉の綾ってやつだ! 好きってのは人として好ましいって意味! ……一緒に居て楽しいし、そんなに卑下することないぞって言いたかったんだよ」
急いで自分の発言を撤回していると、楓華が塞いでいた指の隙間から、ルビー色の瞳が和樹を捉える。
その瞳の輝きに映るのは、淡い期待と溢れんばかりの羞恥。
どうやら、相当恥ずかしい思いをさせてしまったらしい。和樹もかなり恥ずかしいのだが、楓華は恐らくそれ以上だろう。
「俺たちは、まだ知り合ってから付き合いが長いわけじゃないけど……相談に乗るぐらいならできる。
「……はい」
「それに、楓華ほどじゃないけど多少なら料理は作れるし、1人が寂しいって思ってるなら連絡くれればいつでも夕食とか食べに来てくれていいから。まぁ、味は期待しないでほしいが」
「……でも、私は何も返せませんよ?」
「何も返さなくていい。……えっと、強いて言うなら勉強を、特に数学を教えてほしいかな。この前みたいにさ」
「そんなことで……いいんですか?」
「いいに決まってるだろ」
無意識に、和樹は楓華へと手を伸ばす。
「こんな俺でよかったら、頼ってくれ」
そう言って、楓華の冷えきった頭に手のひらを置き、そっと撫でる。彼女の苦しみが、少しでも和らいでくれることを願いながら。
「……和樹くんだって、自分を卑下してるじゃないですか」
「あ……いや、これは」
自分の発言の盲点をつかれ、やはり慣れないことは言うものではないな、と楓華に見えないようにため息をこぼした。
「それでも……ありがとうございます」
「……おう」
「これからは、遠慮なく頼りにさせていただきますね」
そう呟いた楓華が、ようやくいつもの鮮やかな顔色を取り戻したことに安堵していると、細い指先を何度も折り曲げていた。
こっちに顔をよこせ、という事なら直接言えばいいのでは、と思いつつも、和樹は黙って背中を丸め、楓華に顔を近づけた。
すると、楓華は
「でも、勘違いしないでください」
「……何を?」
「私は、妥協して仕方なく和樹くんを選んだのではなく、私の中で最も信頼できると思ったから、和樹くんを頼るのですからね」
「……そ、そうか」
そうして落とされた甘い囁きに、和樹の頬は一気に
その後、楓華は再びどこか満足げに笑みをこぼす。しかし、今度はその笑顔がどこかに消えてしまうことはなく、彼女の表情に残り続けた。
そのあどけない可愛らしさに、和樹は何とも言えないむず
「和樹くんの顔、真っ赤になってますよ」
「楓華だって、赤いだろうが」
「気のせいです。これは外が寒いから赤くなってるだけです」
「……俺も寒いから赤くなってるんだよ」
「……今日のところは、そういう事にしておいてあげます」
「……そうかよ」
何故か不服そうな楓華から視線を
「……その、和樹くん。最後に1つだけ、お願いしていいですか」
「なんだ」
何でもするとは言ってないからな、と先立てて言っておくと、楓華はこくりと頷いて「和樹くんにしか頼めません」と瞳を潤ませて囁くので、和樹はそっと息を呑んだ。
「もう少しだけ、傍に居てくれますか」
「言っただろ、頼ってくれって。それぐらいなら、頼まれなくたっていつでもしてやる」
「……ありがとう、ございます」
小さく弾んだその返事は、微かに震えていた。しかしその声音に、不安や戸惑いは感じ取れなかった。
その代わりに、彼女の透き通るような朱色の輝きを放つ
その瞳が和樹を捉えると、楓華は何かを堪えるように身を縮こまらせ、それからゆっくりとその顔に熱を宿した。
「私、和樹くんに出会えて……本当によかったです」
そう言って和樹の肩に力なく倒れ込んできた楓華に、和樹は一瞬どきりとしたものの、自分なりに彼女の役に立てたことに胸を撫で下ろして、その小さな背中を優しく撫でた。
〘あとがき〙
どうも、室園ともえです。
ここまで読んでくださった方々、本当にありがとうございます。
ここ数話の内容は、物語を構成する大切な部分ですので、あとがきを控えていました。
あとから読み返すと、「あとがきが没入感減らしてるなぁ」と感じることも多々ありましたので……。
これで、楓華の過去編は一旦ひと段落です(シリアスな展開が今後一切ないとは言ってない)
次回はこの話を経て、2人の心情の変化を描いていきます。ぜひお楽しみに。
もしよろしければ、フォローや応援、レビューや感想など、お願いします。
次回は来週末投稿予定です。
それでは、また。
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