第26話 Stand by me(3)
「え、あの……九条さん……?」
もう、異性とは関わらない。手を差し伸べて、助けようだなんて思わない。
和樹が自ら誓った、人生のルール。
体に巻きついていた鎖のようなそれを破り捨て、和樹は楓華を抱き寄せた。
初めて抱き締めた小さな背中は、少し力を込めれば容易く崩れてしまうのではないかと思えるぐらいに柔らかく、そして頼りない。
言葉では言い表せないであろう苦痛に耐えてきた楓華の心身をしっかりと支え、和樹は楓華に語りかける。
「……生まれないほうがよかったなんて、そんなわけないだろ」
「……でも、私のせいで姉さんたちにも、九条さんにも……迷惑が」
誰かを頼れば、きっとその人は迷惑だと感じてしまう。そうやって感情を閉じ込めるしかなかった。
何もかも全部自分が悪い。天野楓華としてこの世に生を
積み重ねられた努力の成果は細い木の幹のように虚空へ向かって伸び続け、その行き着く先を見失っても伸びることを止めない。
途中で朽ちて折れてしまえば、そこで終わってしまうから。
「迷惑なもんか。俺はそんなこと1回たりとも思ってねぇよ」
和樹が楓華と交流した期間は、そう長くはない。多めに見積ったとしても、3週間あるかないかだ。
しかし、初めて手を差し伸べた時も、放課後に一緒に買い出しに行った時も、看病された時も、そのお礼として和菓子を渡した時も、彼女のことを
それでも楓華は、自分は迷惑を掛けるばかりだと考えてしまうのは、劣悪な家庭環境が原因であって、楓華に一切の非はないのだ。
『どうしようもないくらい……嬉しくて』
今になって考えれば、あの時の涙の理由も理解できる。
楓華は、優しさに飢えていたのだ。本人が無意識に涙を流してしまうほどに。
「お世辞はやめ──」
「お世辞なんかじゃねぇっての」
楓華ならここで、そんなのお世辞です、と言うだろうなと考えてみれば、案の定似たような言葉が返ってきた。
「私にこんなに優しくして……何が目的なんですか。私には何もないのに」
「目的なんかねぇよ」
「じゃあ、なんでっ……!?」
和樹と楓華との関わりに、明確な理由など存在しない。ただそこに居たから、手を差し伸べただけ。単純な答えだ。
しかし意外と、言葉にするには難しい。
「なんでって……上手く言えねぇけど、心地いいっていうか、懐かしいというか。頼りになるし、その割に意外と抜けてる所もあるし……一緒に居て楽しいから。深い理由なんてない」
「楽しいって……それだけのために?」
「おう。それだけのためにやってる」
「……九条さんは優し過ぎます」
「その言葉、そっくりそのまま返す。俺を特別視してるのか知らないけど、本当に俺のやってることは普通のことだからな」
「……その普通の基準がおかしいんです」
「そうだとしても、天野さんは自分に厳しすぎるんだっての。俺に向けてくれた優しさを、少しは自分にも分けてやったらどうだ」
「……私が、優しい?」
「おう。めちゃくちゃ優しい」
「……」
和樹の返答に、楓華は
彼女の境遇は、和樹には到底分からない。でも、抱え込んでいる感情の
他人から優しくされることを知らなかった故に、和樹の僅かな良心にすら心を揺さぶられてしまった。和樹にとっての当たり前が、彼女にとっての非日常だったのだ。
「……今は、そんな言葉が欲しいわけじゃありません」
「じゃあ何が欲しいんだよ。俺は交友関係そこまで広くないから分かんねぇぞ」
「……何も、要りません」
俯いて、拒絶の意志を呟く楓華。
しかし、和樹はそれが嘘だとすぐに分かった。
「なら、この手はなんだ」
「……え?」
楓華は震えた声音で和樹の言葉を否定したが、彼女の腕は和樹の背中に回っていた。そのまま和樹の胸に顔を埋め、離れないでと言わんばかりに力強く和樹を抱きしめている。
相変わらず本人には自覚がないらしく、潤んだ瞳には困惑と恥じらいが混在していた。
楓華はきっと、自分の奥底に眠っている感情に目を背け続けて生きてきたのだろう。
そのせいで、自分の本音を告げることなく、その場しのぎの作り笑顔で誤魔化すことしか溢れる感情を抑える
「……これは……その……」
「これ以上自分に嘘ついても、余計に苦しくなるだけだぞ」
「でも、それじゃ私……また1人に」
「俺が隣にいてやる」
我ながら俺様のような発言だと思ったが、発言を引っ込めるつもりは更々なかった。
「……平気です。別に九条さんが心配する必要は」
「そういう強がりはこの手を離してから言ってくれ」
「……体が言うことを聞いてくれないだけです。別に強がってなんか……つよがって……なんかぁ……」
楓華は
いつもは整っている
和樹は楓華の乱れてしまった白銀の髪を
「……夜も遅いし誰も居ないぞ。泣きたいなら気が済むまで泣けばいい。叫びたかったら近所迷惑にならない程度なら叫んでいい。だから……今は誤魔化すな。自分に正直になれよ」
「……きっと、後悔しますよ」
「しない」
「……めんどくさい女だなって思うに決まってます」
「思わない。……思うわけがないだろう」
楓華の壮絶な過去を聞いた後に、そんな風に考えることなどできるはずもない。
「……本当ですか?」
「あぁ」
「……じゃあ、あと5分だけ、このまま離さないでください」
「5分だけでいいのか?」
「……やっぱり、10分にします。……途中で離したら怒りますからね」
そこまで言うのなら満足するまでしてくれても構わなかったのだが、それも楓華の律儀なところなのだろう。
和樹は返事をする代わりに、そっと楓華を抱き寄せた。
しばらくすれば、静寂に満たされていた夜の公園に、小さな声が聞こえ始める。
呟くように両親の愚痴を吐き、1人暮らしでの不安を漏らし、自分の不甲斐なさを嘆く。
1つ1つの声は決して大きくはない。しかし耳に残るように響く彼女の嘘偽りのない本音の正体は、楓華の心の奥底で殻を被っていた激しい感情。
『この恩は、必ずお返しさせてください』
『いつかこの恩は、まとめてお返しします』
『……なら代金はお返しします』
その小さな背中は、耐え続けた孤独と恐怖を訴えかけてくるかのように、小刻みに震えていた。
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