第25話 Stand by me(2)

「……ご迷惑をお掛けしました」


 スーパーを逃げるように後にして、近くの公園のベンチに腰掛けると、楓華は細々とした声で小さく呟いた。


「……その、今回のことは」

「安心しろ。全部見なかったことにしてやるから」

「……あ、ありがとうございます」


 片手で楓華を引っ張りながら買い出しの荷物を持って走ったせいで、和樹の体は明らかに疲弊していた。そのためか、口調がいつもより荒かった。


「楓華にも色々事情があったんだろ。今日のことは一旦全部忘れるから、気にするな」


 そう言って、和樹も楓華の横に腰掛ける。


 楓華を少しでも不安にさせないようにと平然を装っていはいるが、そんな振る舞いとは裏腹に内心かなり動揺していた。


 買い出しを終えて、猫について熱弁されて……そして、涙を流した。


 和樹の脳内で何度考えても、楓華を泣かせてしまった理由が解き明かされることはなく、ただただ頭を悩ませることしかできない。


「……私、迷惑掛けてばかりですね」

「そんなことない。その分ちゃんと返してもらってる。この前だって、わざわざ看病してくれただろ?」

「そんなのじゃ……全然足りません」

「恩に大きいも小さいも無いだろ」

「だめです。そんなの、だめなんです」


 その生気を感じさせない弱々しい呟きは、肩と肩が触れ合いそうな距離にいる和樹にすら、はっきりとは聞こえない。


 公園の薄暗い街路灯が、楓華の白銀の髪を照らし、俯いた顔に暗い影を纏わせる。


「別に、誰もとがめてるわけじゃ」

「……そもそも、誰も見てくれません」

「そんなわけ……ない、だろう」


 和樹は楓華の呟きを否定しようとしたが、一瞬躊躇ためらってしまった。


 事情を知らない和樹が薄っぺらい励ましの言葉をかけたとしても、彼女の押し隠している感情の鱗片にすら届かないだろうと思えてしまうほどに、楓華の纏う空気は歪み、よどんでいたからだ。


 弱々しい声、乱れた髪、そして視点の定まらないよどんだ瞳が楓華の心身の疲労をありありと感じさせる。


 日頃の柔らかい表情は見る影も無くなっており、明らかに以前よりも雰囲気が硬く、それでいてか細い。軽く小突けばそのまま崩れ落ちてしまいそうな程に。


 気持ちが少しでも和らげば、と楓華の頭に手を伸ばそうとしたが、ふと見えたその表情の冷たさに、無意識に腕は引っ込んでしまった。


 再度動かそうとしても、自分の体とは思えない程に重くなっていた腕はびくりとも動かない。動いているのは、何もしてやれない無力さと焦燥を抱える心臓だけ。


 目の前で、黒く溶け落ちたような穴が少しずつ広がっていくのを、和樹は肌で感じた。


(……何か、俺にできることはないのか)


 停止しつつある思考を懸命に巡らせた末にでた答えは、とてもシンプルなものだった。


 今の和樹にできる、精一杯の行動。


 文字通り鉛のように重くなっていた腕を無理やり動かして、楓華に向けて伸ばす。


「……嫌だったら言ってくれ」


 真っ直ぐに楓華を見つめると、楓華は弱りきった瞳を閉じて、それから僅かに首を縦に揺らした。


 それは許可を意味していたのか、それとも楓華が震えていただけだったのかは、判断できなかった。


 それでも、それを承諾だと強引に受け取った和樹は、楓華の手を引いて自分の手のひらで包み込むように重ねた。


 その冷たい手を温めるようにゆっくりと力を込めると、強ばっていた楓華の肩から力が抜けていくのを感じた。


 寂しい時、辛い時、苦しい時、人は誰か信頼できる人が1人でも居てくれたのなら、それだけで救われる、という話を父から教わったことがある。実際に、和樹の父は和樹や母が包み込むようにように手を握ると、くしゃりと顔を歪めて嬉しそうに笑っていた。


 和樹が楓華にとって信頼できる人なのかと聞かれれば、自信を持って「そうだ」と言えるわけではない。しかし、以前にも何度か「信頼している」という旨の発言をしていたので恐らくは問題ないだろう。


 どうやら少なからず効果はあったようで、時間が経つにつれ、次第に楓華の瞳に生気が宿っていった。


 恐らく、楓華の問題を解決する模範解答はこれでは無い。楓華と出会ってまだ日が浅い和樹には、最善策を出すためのピースが不足している。


 しかし、今の和樹がするべきなのは模範解答を導き出すことではなく、少しでも正解へと近づくために思考を止めずに彼女に寄り添うことだ。


「……少しだけで構いません。私の話を聞いてくれますか」


 気持ちが和らいだのかは分からなかったが、楓華が、手を握ってからしばらく経つと、少しだけ体を起こした。


 その後、楓華は自分から話を切り出した。


「おう。いくらでも聞いてやる」


 和樹の返答に、楓華は弱々しい笑顔を浮かべて、和樹の手を優しく握り返した。


「私には……2人の姉が居ます。とても可愛くて、優しい、自慢の姉さん達です。長女がプロのフォトグラファーで、次女が総合格闘技の選手なんです」


 ぽつぽつと落とされる楓華の言葉を、和樹は聞き逃さないように気を詰める。


「両親がどちらとも医療関連の仕事で帰りが遅かったので、私にとって2人の姉が親代わりのようなものでした。2人とも私をすごく甘やかしてくれて……毎日が幸せでした」

「……でした?」

「……私の両親は、ある日を境に滅多に帰ってこなくなりました。でも、たまに顔を見せたと思えば……2人の姉に比べて成績や部活動の実績が劣っていた私にきつく当たってきたんです」

「……当たるってのは」

「殴られたり、罵声を浴びせられたりしました。姉とは違って、私を玩具おもちゃみたいに扱うんです」

「玩具って……」


 楓華の口からそのような言葉が出るとは思ってもいなかった和樹は、驚きのあまり呟かれた言葉を反芻することしかできなかった。


「最初は私が悪いんだと思ってました。確かに、当時の私の成績が悪かったのは事実ですし、両親は、そんな私に変わってほしくて説教してくれているんだって、そう考えていました。だから、勉強も、部活も、習い事も、家事も、姉さんたちに引けを取らないぐらいに上達するまで頑張ったんです」


 温厚な両親から育てられている和樹にとって、父や母から玩具のように扱われる日常というのは想像もつかなかった。


 暇つぶしに観ることのあるドラマでも、そういった表現は内容を面白くするための過剰な演出の1つであって、現実には存在し得ないと心のどこかで思っていた。


 それがもし現実で起きたのならば、和樹は耐えられるのだろうか。恐らく、無理だろう。


 真治との軽口の言い合いですら稀に傷つくことがある和樹のメンタルでは、その苦痛に耐えることなど不可能に等しい。


 心身ともに簡単に壊れてしまうのが容易に想像できる。


「でも、その説教は次第に暴力に変わっていってしまいました。私が何もしていなくても気に食わないからと罵声を浴びせられたり、酷い時には何度も蹴られたり。私はそれが嫌で、もっと勉強やスポーツを必死に頑張りました。でも結局、どんなに成績がよくなっても、部活動で結果を残しても……だから何だ、くだらない、と吐き捨てられて、何も変わることなんてなかったんです。……いつか可愛がってもらえるんだって努力を重ねていた私は、きっとどうしようもないくらいに愚かで、馬鹿な人に違いないんです」


 一度でいいから愛してほしかったな、と。


 途方に暮れたように呟かれた言葉に、和樹は心臓を鷲掴みされたような気分になった。


「きっと、両親の仕事が上手くいかなくて、私にそのストレスをぶつけていたのでしょう。でも、不幸中の幸いと言うべきでしょうか。姉さん達だけは、どんな時でも私の味方をしてくれました。『私たちのせいで酷い目にあわせてごめんね』って毎日泣きながら私を抱きしめてくれたんです」


 そう言って、楓華は顔をしかめた。


 どこか、耐えがたいものを見てしまった人のように。


 恐らく、その楓華の2人の姉も、両親に理想を押し付けられ、必死に努力していたのだろう。しかし、自分がひいでれば楓華が虐待を受けてしまう。自らの保身と愛する妹の安穏あんのん。その2つを毎日板挟みにしなければならない苦労は相当なものだろう。


 その苦痛を考えれば考えるほど、目の前が真っ暗になってしまう。


「でもある日、両親の転勤が決まったんです。父と母はそれぞれ別々の場所で働くことになって、しばらく家には帰ってこないと言われました。その時に、姉さんに提案されたんです。『私たちが生活費を工面するから、1人暮らしをしないか』って」


 その言葉に、楓華が何故1人暮らしをしていたのか、理解した。


 それは、両親の理不尽な虐待から逃れるために、楓華の姉たちが楓華に与えた助け舟だったのだ。


 虐待を受け続けた家に居たとしても、楓華の心は傷ついたままだ。社会人となった自分たちでは、楓華の心の傷を癒すこと、ましてや毎日面倒を見ることもできない。それならば、両親が帰ってこないうちに、少しの間だけでも両親のことを忘れて、1人でのんびりと生活させてあげよう、と考えたのだろう。


「私も『姉さんたちに迷惑をかけるのもこれで最後にしよう』という気持ちでその提案を受けました。でも、突然1人暮らしをするといっても、中々慣れないことばかりで疲れてしまって。家の扉を開ける度に『あぁ、私はいつまでも1人なのかな』と考えてしまって、家の前で泣き崩れてしまうこともありました」


 あの日、どうして楓華が家の前で座り込んでいたのかが、今になってようやく分かった。


「その時に、俺が偶然通りかかったのか」


 和樹の問いかけに、楓華は何も答えず、こくりと首を縦に振った。


 あの日、どうして楓華が家の前で座り込んでいたのかが、今になってようやく分かった。


 あれは、鍵を無くしたわけでも、親と喧嘩したわけでもない。


 誰にも認めてもらえないにもかかわらず、たった1人で途方もない努力を続けた結果、心身ともに限界がきてしまっていたのだ。それ故の、脆くて壊れそうな表情。


 そこまで考えているうちに、和樹は知らず知らず怒りを溜め込んでしまっていることに気づく。


 いつの間にか和樹は無意識に唇を噛み切っていた。口の中に広がるのは、後悔と侮蔑に溢れた金属の味。


『……大丈夫、ですから』

『あの……』

『私は人として当然のことをしただけで』

『私と違って、可愛がってもらえますから』


 今まで、明らかに楓華の様子に異変を感じたことは何度かあった。しかし、相手の事情に下手に踏み込んではいけない、と自分に言い訳をして、聞かなかったことにしていた。


 思い返してみれば、1度ならまだしも2度、3度とそれを聞く機会があったのだ。それなのに、自分にあれこれと理由をつけて自分に対して言い逃れしてきたことに、和樹はこれ以上ないほどのいきどおりを感じていた。


 もちろん、他人の家庭環境に怒りを向けても、何も変わらないことは分かりきっている。それでも、居ても立ってもいられないほどに胸の内から怒りが止めどなく噴き出してくるのだ。


 もし楓華の両親が目の前に居たのならば「お前らはどうしてこんなことができるんだ」と飛びかかってやりたかったが、それではなんの解決にもならない。それはただの自己満足だ。


「……あの家から離れたら……全部変わるんだって思っていたのに、結局私は……1人じゃ何もできなくて。迷惑をかけてしまうぐらいなら……私……わ、たしなんか────」


 その先に紡がれる言葉を、和樹は知っている。


 もう二度と聞きたくない、聞く筈のないと思っていた言葉が、その小さな口からこぼれ落ちた。




「……生まれてこなければよかったんです」



 その言葉に、愕然としてしまう。


 反射的に何かを言おうとして、スッと息を吸い込んだが、脳内の感情を整理できなかった。


 和樹は、唐突にズキンと痛んだ胸に気付かない振りをして、肩をすくめる。




『私なんてさ、最初から……生まれてこなきゃよかったんだよ。そしたらみんな、笑顔でいられたのに』



 和樹の脳裏に過ぎったのは、幼き頃の、暗く悲しい記憶に潜んでいた1人の少女の寂しそうな表情。


 それはとてもぎこちなくて、放っておいたら空気に溶けるように消えてしまいそうなほどに儚い姿。


 その姿に、楓華の小さな背中が重なる。


「……そんなこと、言うな」


 その時の情景と今の楓華の表情が重なり、居ても立ってもいられなくなった和樹は──楓華の手を包んでいた片方の手を放し、一瞬戸惑う楓華をそっと腕の中に収めた。

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