第8話 彼女の名は、天野楓華
「あ、上がりました」
「疲れは取れたか?」
「……はい。おかげさまで」
皿を洗い終えた後、風呂を溜めていたことを思い出したので、転校生に体を温めてもらうために入ってもらうことにした。
濡れていた制服を乾かしている間、転校生は他に着替えがないとのことだったので、とりあえず、和樹の部屋着である少しダボっとしたパーカーと短パンを貸しておいた。
下着は流石に男物では良くないだろうと思ったので、コンビニに買いに行くかと尋ねたのだが「そこまでしてしていただくわけには」と却下されてしまった。
(ていうか……着る人が変わると、こうも変わって見えるんだな)
彼女に貸したのは、和樹が日頃着ている服の内の1着だ。
和樹自身はお洒落に興味が薄いので、服屋に行ったとしてもその場で適当に選んだものを何となくで買っていた。
外出用の服ならば、最低限周りから浮かないように意識するが、部屋着なら誰かに見られることも無いので気にする必要もないだろう、という考えのもとで購入したものだ。
そのため、動きやすさ重視の非常に質素な服装なのだが、彼女がそれを着ると、顔の形や腕の細さなどの体全体のバランスが整っているからか、それだけで充分と言える程に
「服のサイズは問題ないか?」
「少し大きいですが、動きにくいほどではないので、大丈夫です」
「ならよかった」
「その……ありがとうございます」
「いえいえ」
(……変な匂いとかしてないといいけど)
洗濯をしっかりしているとはいえ、彼女のような女性からすると慣れない匂いのはずなので、気になるかもしれない。
かと言ってそれを彼女に訊いてもかえって気を遣わせてしまうだろうな、と和樹はそっと内心で肩を
すると、転校生が何やら物言いたげな視線をこちらに向けていることに気づいた。
「……どうした?」
自分の中のネガティブな思考を見透かされてしまったか、と慌てつつも出来る限り平然を装って返事をした。
「あの……さっきのは」
さっき、と言われ一瞬首を傾げたが、すぐに思い出した。
『どうしようもないぐらい……嬉しくて』
彼女の物言いたげな視線は、どこが寂しげなものへと変わっていた。
見なかったことにしてほしい。
言葉には出さずとも、彼女の僅かに
「何も見てない。だから気にしなくていい」
「……ありがとうございます」
「おう」
きっとあれは、和樹のような他人がやすやすと触れていいものではないのだろう。
深追いすれば、ほぼ確実に彼女を傷つけてしまうことになる。
そう判断した和樹は、転校生から目線を逸らすようにベッドに置いてあるデジタル時計を確認すると、時刻は3時30分を指していた。
「もうこんな時間か……あっ、やべ」
教科書に蛍光ペンで付けておいた目印を指先で
「まぁこれぐらいなら30分あれば……」
「ど、どうされました?」
「あ、えっと……」
和樹の慌てぶりに転校生も動揺していたようで、おずおずとこちらを見上げていた。
「明日……ってか今日か。数学の課題があったのを思い出したんだ。実はこれを授業中に解説しなきゃいけなくてな」
和樹は机の上に解説書を広げ、筆箱からシャーペンを取り出す。
「うわ……この問題苦手なやつ」
真治との勉強会の際に分からなかったもので家でじっくり考えて解こうとした問題が、少し形式を変えて出題されていた。
参考書を使えば解けないこともないが、和樹の頭脳では時間がかなり必要になる。
「あの、九条さん」
「……あ、悪い。眠いなら寝てもいいぞ」
「もう十分休ませていただいてるので、それは大丈夫です」
「そうか。ならいいんだが」
「あ、あの、1つ提案が」
彼女はリビングから鞄を持ってくると、その中から1冊のノートを取り出した。
その表紙には丁寧な丸文字で「数学メモ」と書かれてある。
それを和樹の参考書の横に置き、和樹の顔を覗き込むように見つめた。ルビー色の
「えっと、その」
「ん?」
「私でよければ、教えさせてください」
「え」
和樹は思わず素で答えてしまった。
あまりよく思われない表情だったのか、転校生は、やってしまった、と言わんばかりにこちらから視線を逸らす。
「いいのか?」
「……数学は得意分野なので」
「まじか。めっちゃ助かる」
「転入試験のために結構勉強してたので、ある程度先の範囲までは理解しています」
「すげぇな」
「……えへへっ」
彼女は、指先で頬をなぞりながら柔和な笑みを浮かべた。それはとても穏やかで、どこかあどけなさを感じさせる。
その純粋無垢な微笑みに、和樹は思わず心臓を高鳴らせた。
「……じ、じゃあこの問題を教えてくれるか」
「分かりました。その問題はまず───」
──────
「あの、本当にお世話になりました」
「俺のほうこそ世話になった。ごめんな、結局朝まで付き合ってもらって」
「いえいえ。あまり
「いや、少しどころかめちゃくちゃ助かった。多分、あの量は1人じゃ終わってなかったと思うし」
「大袈裟ですよ。そもそも、私がご迷惑をお掛けしなければもっと時間はあったわけですし」
彼女はそう言っているが、実際、彼女の教え方は的確でとてもわかりやすかった。
和樹が詰まっている箇所に対して、どの公式を使うのか、どうして間違っているのかを丁寧に教えてくれた。
なので、学校の教師なんかより教え方が上手いのかもしれない、と思うことが多々あった。
そのおかげで悩んでいた部分の問題はすぐに解き終えることが出来たのだが、ついついあれやこれやと話し込んでしまい、気がつけば日が昇ってしまっていたのだ。
「九条さん。改めて、本当にありがとうございました」
「いえいえ。それじゃ、またな」
「はい。九条さんも気をつけて」
「おう。……お、お前もな」
「九条さん」と名前を呼ばれたので名前で返そうと思ったのだが、彼女の名前が出てこなかった、というよりは教えてもらっていなかったので、ぎこちない返事になってしまった。
「……どうかされました?」
「あ、いや……そういえば名前知らないなと思って」
自分でも何を言っているんだと思いながら誤魔化すように頭をかいた。
「すまん。忘れ──」
「
忘れてくれ、と言おうとした時には、既に彼女はその甘美な声で名前を言っていた。
「なんかごめんな。今更で」
「こちらこそ……中々名乗る余裕がなくて」
楓華は耳にかかっている髪をくるくると指先で触りながら、和樹から視線を逸らす。
「まぁ、これからも隣人として関わる機会があればよろしくな」
「そうですね」
「それじゃあ天野さん。気をつけて」
「はい。九条さんも」
楓華は深々と頭を下げ、ゆっくりと扉を開けた。和樹はそれを静かに見届ける。
扉が締まり、彼女が出ていったことを確認してから、学校に登校する準備をするために自分の部屋へと向かった。
「……天野楓華、か」
凛とした雰囲気と時折見せる柔和な笑み。
それはどこか華やかで、愛おしげなもの。
そんな彼女の安穏な雰囲気を表しているような素敵な名前だな、とふと思った。
〘あとがき〙
どうも、室園ともえです。
今回も読んでくださった方々、本当にありがとうございます。
転校生、天野楓華との出会いはこれにて一段落です。次回以降は日常編になります。
物語のテンポは遅いかもしれませんが、その分、読み終えて満足できる話を書いていけたらいいなと思っているので、ぜひ次回も読んでくださると嬉しいです。
もしよろしければ、気軽にフォローや感想、★評価や♡など、お願いします。
明日も投稿予定です。
それでは、また。
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