第20話 DD
「うーん、このへん、かな?」
誰もいないのに、つい呟いてしまうのはなぜだろう。そんなことを思いながら、煉瓦倉庫と壁(の廃墟)が連なる埠頭を歩く。地面の舗装はあちこちひび割れて、午後の光の中、そのひび割れから顔を出した雑草を不思議な色に染めていた。広い敷地には、似たような建物と壁がひしめいている。位置情報は持っていても、今ではもうほぼ消えてしまっているはずのあの絵を見つけるのは、かなり骨が折れそうな気がしてきた。
ここらへんの壁は、ほとんどが落書きされていた。DDの作品のようなうっとりするほど美しいものじゃない、ただのスプレーの殴り書きのだっさださの(描いた本人は、かっこいいと思っているんだろうか?)ロゴやら意味不明の模様だらけ。こんな中に、本当にあの美しい絵があったのか?
と、そのとき、目的地が近いことを知らせる振動が、スマホから伝わってきた。この壁の、そのまた向こうの壁。何だか緊張してきた。息を殺して、ゆっくり歩みを進める。そうして壁を越えて先を見ると―。
「うわ!」
目に飛び込んできたのは、一面に広がった、鮮やかな絵! キャンバスになっている壁は画像で見たのと同じ上下で素材が分かれたもので、描かれている絵も同じような水中と森の生き物たちをテーマにしたものだったけれど、画像で見たのとは印象がまるで違った。多くの人が実物を見たがるという気持ちがよくわかる。けど、変だな。この絵は3ヵ月ほど前に描かれて、最近はすっかり薄れていたはずなのに。この絵は、まるでたった今描かれたかのようにくっきりと鮮やかだ。まさか、自分はまた過去に飛んでしまったのか?
…違う、そうじゃない。この絵は、画像で見せてもらったものと同じじゃない。だって、すべての生き物たちの背中から、美しい曲線が伸びている。
「天使? ああ、天使だ…」
誰かが元の絵をなぞって、描き足したんじゃない。間違いなく、同じ人物の手によるものと思われた。DDとやらが、描き直した? 近づいて絵に顔を近づけると、まだチョークの粉が新しいように思われた。まるで―。
「今、描かれたばかりみたい」
また独り言が漏れた。
***
そのとき、すぐ近くから、
「そうだよぉ、今、描いたからぁ」
不意にそんな声が聞こえてきて、飛び上がるほど驚いた。
慌てて辺りを見回すけれど、誰もいない? でも、確かに気配がする。試合中、いつの間にか近くに来ている敵の気配を察知して対応することには慣れているからわかる。壁の向こう側? 今さらだけれど息を殺し、意を決して気配がしたほうへと忍び足で歩いていくと、角から突然、人影が現れた。ぶつかりそうになるのを、すんでのところで避ける。相手は長身長髪の若い男で、人懐こい笑みを浮かべて、やあ、と言った。
その笑顔に見覚えがある気がして、鼓動が一層速くなった。脳内で、1つの考えが渦巻き出す。もしかして、ありあ? いや、そんなはずは…。そう思ったとき、男が言った。
「まひろ!」
「え、どうして? もしかして、あり…」
名前を呼ばれてはっとしながら言いかけて、気づく。この男が誰であれ、自分を見知っていても不思議はない。サッカーが盛んなこの国では、どんな試合であれ、国際試合ならなおのこと、大々的に放映・報道される。そんなメディアを見て選手を見知る人も多いだろう。相手が誰なのかわからないのに思い込みで迂闊なことを言って、つけ込まれる隙を与えるのは危険だ。慎重になるべきだ。頭の中でそんな警告が響く。
そうだ、似ている気はするけれど、違う、ありあじゃない。ありあは、身長100センチちょっとのチビだし、髪だって、もっと短い。ああ、でもそれは10年も前のこと。今は、もしかして、だけど、でも…。
混乱していると、体全体でこちらに向き直った男は、歌うように言った。
「久しぶり、久しぶりだねぇ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます