第17話 走る!

 ありあの家には、小学校に上がる前に一度行ったことがある。アパートの2階の一室で、子ども心にも古くて狭いと思ったけれど、生活用品と壁中に貼ってあるあいつの絵で、生活感が溢れる空間だった。狭いけど温かい、そんな印象。学校からかなりの距離があるけど、自転車を取りに行く時間はない。走るしかない。体力のない子どもの体では容易に息が上がったけど、それでも必死に走った。


 確か、このへん―。

 見覚えのある場所に出て、辺りを見回す。あった! あのアパート! 非常階段のような外階段を、力を振り絞って駆け上る。だけど、2階の一番奥のありあの家は扉が開いていて、中はがらんどうだった。


『間に合わなかった?』


 体中から力が抜けて立っていられず、へにゃへにゃと座り込む。

 どうしよう、どうしたらいい? やっぱり、最初に考えたとおり手をつなぎ直さなかったのは失敗だったか。葉月には後で謝れるけど、あいつにはもう謝れないんだし。そんな思いがぐるぐると渦巻く。せっかくチャンスをくれた2人にも申し訳ない。そう思ったとき、遠くから女の人の声がした。


「元気でね。寂しくなるわぁ。これ、お腹が空いたら食べて」

「お気遣い、ありがとうございます。お世話になりました」


 ありあのお母さんの声だ!

 すぐにわかった。遊びに行ったときにすごく喜んでくれた優しいおばさん。来てくれてありがとう、これからもありあと仲良くしてね、そう言いながら、たくさんおやつを出してくれた。その後すぐ、おばさんはお仕事に行ってしまったけれど、そのときの印象は深く残っている。


「ほら、バスが来たよ。じゃあね、ありあちゃん、元気でね」

「ありあ、あいさつして!」

「いいから、いいから。ほら急ぎなさい。時間無いんでしょ?」

「すみません、ありがとうございます。さ、ありあ、早く! 飛行機に遅れる!」


 またおばさんの声がして、はっと我に返る。あいつの声は聞こえないけど、まだいる! でも、バスに乗って出発しようとしている!? 慌てて立ち上がり、階段を 2段飛ばしで駆け下りる。よくそんなことができたもんだ、と後から思ったけど、そのときはただ必死だった。

 裏に回ると、あいつとおばさんが乗ったらしいバスが、まさに走り出したところで。必死で追いかけたけど、それより速くバスの速度が増していく。走って走ってもがくように走って、上がる息の間に間に、あいつの名を呼んだ。

 聞こえるはずがない、なのに、そのとき、後方左の窓が開いて、あいつが半分顔を出した。聞こえたのか? そう思ったけど、その間にも、距離はどんどん開いていく。


 もうだめだ。そう思ったときに、バスがすうぅと速度を弱め、停止した。ああ、信号が赤なんだ。力を振り絞って駆け寄ると、クラクションが響き、誰かが怒鳴り声をあげたのがわかった。『あぶない!』とか『離れろ!』とか言われた気がしたけど、でも!

 開いた窓の下に立ってあいつを見上げて、口を開く。


「あの、さ、ごめん。あの…」


 ただそう言うのがやっとだった。そんなんじゃ足りないと思うのに、それ以上の言葉が出てこない。ああもう、自分の中身はこの時のこの年齢の自分じゃなくて、10歳も年長なはずなのに、それでも満足な言葉を伝えられない。じれったさで泣き出したい気持ちで絶句していると、ありあはいつもの顔でニッと笑い、何かを差し出した。何? 筒? そう思った瞬間、バスが再び動き出す。慌ててまた走り出し、リレーのバトンを受け取るようにその筒を受け取った。

 それを見て、ありあはさらに大きく笑い、そこで自分もようやく笑いを返すことができた。バスはさらにスピードを上げて走り去って行く。立ち止まってぼんやりと見送っていたら、さらに盛大にクラクションを鳴らされて。慌てて歩道に戻ったときには、バスは、もう、小さく小さくなっていた。


 間に合った、思っていたかたちとはだいぶ違うけれど、間に合った。ありあから受け取った筒を抱きしめながら、胸の内で繰り返し呟いた。

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