第16話 葉月の勇気、一瞬の躊躇

 だけど。体の芯に力を込めて声を発しようとした刹那、気づいてしまった。自分の手を引き前を歩く葉月の、真っ赤になった耳に、叫んだときの語尾の震えに。


 あのときは気づけなかったけど、葉月は、周りの子たちの意地の悪い視線や言葉から自分を助けるため、こんなにも勇気を振り絞って、嘲笑の中を飛び込んできてくれたんだ。ありあから離された手を再びつないで、自分が好きでこうしていると告げることは、葉月の勇気を『よけいなお世話』と公言するに等しい。並々ならぬ勇気を振り絞ったであろう葉月の行動をそんな風に全否定したら、きっと、深く傷つけてしまう。それは、正しいことなのだろうか。


 束の間そんな思考に陥り、それから、我に返ってはっとした。しまった! 葉月に付いて歩き出して、もうすでにありあとはかなり離れてしまっている。せっかくのやり直しの機会を、ふいにしてしまった!? 一瞬、ショックで頭の中が真っ白になったけれど、すぐに思考を切り替えた。この時のことは、あれから何度も何度も、シミュレーションしてきたんだ。サッカーの試合と同じ、この場にいる限り、諦めなければ、きっと、うまくリカバーする方法がある。

 そう、まだ間に合う。もう葉月の手を振りほどいてありあの元に戻るのは難しいけれど、でもこの後すぐに謝りに行くことはできる。あの時みたく、合宿の後で、新学期になったらと先延ばしにしないで、この後すぐに行けば、引っ越す前に話ができるはずだ。

 終業式の校長先生のお話も、教室に戻って聞いた先生の注意事項も、まるで頭に入ってこなかった。心の中にあるのはただ一つ。あいつが引っ越してしまう前に、なんとか家に行って、謝るんだ。


 ありあのいなくなった新学期、どんぐりの教室に行って、ありあは、どこ? と、担当の仁和にわ先生に聞いたら、一瞬の躊躇いの後、白石くんは、終業式の日に引っ越したの、と言った。だったら、今日、終業式の日、今すぐに行けば、間に合うかもしれない。


 終業式の後はすぐに長期旅行に出かける家族が多いから、いつもみたいに集団で下校するのは難しい。親が迎えに来るなどして、皆がばらばらに帰ることになっている。実際のあの時は、迎えに来た母さんが従弟が来ているから早く帰ろうと言い、あいつと顔を合わせたくない自分は喜んでこの言葉に従ったんだ。だけど、今度は、従うわけにいかない。友だちの家に行くと告げると、母さんは、せっかく颯ちゃんが来てるのに、今度じゃダメなの? と言った。ああもう、時間がないのに!


「大事なものを借りっぱなしなんだ。今日返せなかったら、もう返せない!」

 地団太を踏んで叫ぶと、母さんはきょとんとした顔をした。母さんは、ありあのことは知っていたけど、自分が言う友だちがありあであることも、この後引っ越すことも知らない(当然だ、自分も知らなかった)。なぜ今度じゃダメ? と言うのは当然なんだけど、こうしている間にもあいつは遠くへ行ってしまう、そんな焦りに駆られて満足に説明もできず、鞄を押し付けるように渡して、走り出した。母さんが何か叫んでいたけれど、一度も振り返らなかった。


『やってしまったことは、戻せない。だから、この先どうするかを考えなさい』


 いつかの、柚木先生の声が蘇る。そうだ、ずっと考えてきたんだ。そして、チャンスが与えられた。あとは実行するしかない。

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