ある晴れた日に
増田朋美
ある晴れた日に
今日もよく晴れてのんびりした日であった。昨日まで降っていた雨も今日はやんで、のんびりと晴れている。
でも、この世にいるのは、けっしてのんびりと晴れの日を味わっている人ばかりではない。中には、外は晴れていようとも、心の中は真っ黒な雲がいつも垂れこめているという人は、案外多いものだ。そしてそういう人は、いつまでたっても雲が晴れないで、居ることも多い。中にはそれがあまりにもひどすぎて、バランスを崩してしまう人もいる。特に、何かしてもらうのをよしとしない、日本では、いつの間にかおかしくなってしまう人も少なくない。そうすると、どこかの施設に行って、ちょっと休むという制度が、諸外国にはあるのだが日本では頼れるものがまだまだ少なく、病院というものいたよらざるを得ないこともある。昔は精神科というと、頭がおかしくなった人が行くところという定義がついていたが、現在は悩んでいて疲れた人が休むところと、定義が変わりつつある。
その日、影浦千代吉は、この病院を訪れていた。ここで非常勤医師として来てくれとお願いされたためである。慢性的な医師不足に悩んでいる大病院は、こうして近隣の開業医を、非常勤医師として雇う、つまり頼ることも、珍しくないのだった。
その影浦千代吉が、村松病院の正面玄関から中に入ると、ちょっと髪の毛を染めた、女性院長の村松美保院長が、影浦を出迎えた。
「どうも来てくれてありがとうございます。影浦先生。遠いところから見えてくださり、ありがとうございます。お忙しいはずなのに、うちの病院に来てくださり、ありがとうございました。」
村松美保院長は、50代くらいの女性で、なんとなく影浦よりも、一つか二つぐらい年上の年齢であった。そんな年で院長なんかしているなんて、ちょっと頼りないのではないかと思われる年齢である。
「ぜひ、よろしくお願いしますね。先生、それでは、こちらが先生の担当する患者です。」
と、村松院長は、彼にカルテを渡した。今時珍しく、電子カルテではなく、紙に書き込む種類のカルテになっている。
「じゃあ、先生。もう診察の時刻ですから、よろしくお願いしますね。」
と、村松院長は、影浦を第一診察室の前に案内して、自分はそそくさと出て行ってしまった。まるで、すべてをお任せするというような感じで。
とりあえず、影浦は、診察室のドアを開けて、中に入った。中は、前任の医者が置いていったのか、それとも、もともとそうなのか、部屋は汚くて、隅に綿埃りがたまっていた。影浦は、ちょっとため息をついて、診察室の中を、箒ではいて、ごみをゴミ袋に捨てた。
そして、医者の制服ともいわれていた、十徳を着物の上から着る。これだけは影浦がどこに行っても忘れないで着用してきた羽織だ。どんな時でも、患者さんを見捨てないために、これを捨てないでとってある。
ちょうど、十徳の紐を縛ったとき、診察開始のチャイムが鳴った。確か、この病院は、予約制だと言われていたが、その割に一時間にやってくる患者の数が多すぎるような気がする。患者たちは、話したいことたくさんあるはずだろうにな、と、影浦は思った。
最初の患者が、影浦の前にやってきた。
最初にやってきたのは、20歳くらいの女性で、まだ仕事はしていないという。仕事を始めようと思ったが、自分にはうまくできそうにないと、涙ながらに訴えた。影浦は、彼女に、無理をせず、ゆっくり自分にできることをやってくださいと言って、とりあえず鬱気分を抜けださせる薬を出させて、彼女を返してやった。
その次にやってきたのは、40代くらいの女性である。彼女は、結婚するのが人よりも遅かったので、子供がおばあさんの子供だと言われて泣いてしまうのだといった。それを泣き泣き話す彼女に、影浦は、スケジュール通りに生きていけるということが、どんなに幸せか、ありありと思うのだ。そのスケジュール通りにいかないと、日本では、大きな過失になってしまうらしい。人と違うコースをたどって生きているということは、そんなにたたかれることだろうかと思うのだが。他人のことをそうやっていじめて生きていけるなんて、日本人は幸せな民族だなと思うのだ。影浦は、彼女に、不安を抑制する薬を与えて、診察室から返してやった。
その次にやってきたのは、若い女性だった。母親に伴われてきた。なんだか、魂の抜け殻のようになってしまっている彼女。何をしたのかと思ったら、薬と酒を大量に飲んだという。多分、自殺の目的か、それとも快楽の目的か、いずれかなのかもしれない。たまにこういう人が現れてくるのだ。こういう、全部の希望を忘れてしまって、生きるのをもうあきらめてしまった人が。
「すみません、この子、もうしないって言ったのに、またやってしまって。」
と、母親が言った。それでは、何度かこの行為の常習犯なのだろうか。
「そうですか、すでに何回やっているのか、勘定したことはありますか?」
と、影浦は彼女の手首に目をやった。彼女の両手は、傷だらけだった。
「それなら、ちょっと、ここで入院してみますか?気持ちが落ち着くまで。あなた、何回もそういうこと繰り返しているんでしょう。それを繰り返して、親御さんを困らせているだけじゃ、らちがあきませんもの。それか、あなたが信頼できる場所へ避難させてもらうことができれば、それが一番だけど、それはないでしょう。それでは、ほんのちょっと、こっちへいてくれれば、少し落ち着くかなと思うんだけどな。」
影浦は、そういうことをいった。
「はい、ぜひそうしてください。私たちはもう、この子が暴れるたびに、自分の日力を押し付けられているようで、怖いのです。」
となく母親。その太ったからだから、止めるのも相当難しいんだなということがわかる。影浦は、そばにいた看護師に、一人、入院される方がいるから、ちょっと手続き手伝ってやってくれる?と、促すと、看護師は変な顔をした。
「どうしたんですか?あの伊藤さんの入院手続き、手伝ってあげてくださいよ。本人もわかっていることですし、任意入院の手続きです。」
と、影浦が言うと、
「そういうわけには、、、。」
と、看護師は言った。
「そういうわけにはって、病棟にはまだ、空きがありますよね?」
と、影浦はそう聞いたが、
「でも先生、新規の方を入れてあげられるような余裕はありません。」
と、看護師が言った。
「だったら、誰か、退院できそうな人はいないのですか。一人か二人、居るんじゃありませんか?」
と、影浦が聞くと、看護師は、何も知らないといった。自分は、入院担当の看護師じゃないと、わけのわからないことを言っている。
「でも、あなたには、病気というものがあります。自身のお体をそうして傷つけてしまうことや、自分を愛せないことは、心が不自由ということなんですよ。それから回復するために、少し、ここで休んで行ってみませんか。別に頭がおかしくなったとか、そういうことは言いません。あなたはお母さんもいてくれることだし、おかしくなる可能性は低いと思います。ただ、ほんの少し疲れただけ。だから少し、休むことが必要なんですよ。そのために、病院というのはあるのではないかと思うんですね。」
影浦は、看護師にも、彼女、伊藤さんにもわかるように、そう説明した。影浦にとって、入院ということはそのくらいのことだと思っている。本当におかしくなってしまったのかと思ってしまう保護者もいるけど、それは気にしないで、ゆっくり休んでほしいと思っている。
「そういうやり方で言ってしまうのは困ります。影浦先生。私たちは、まだまだ治療が必要な患者さんだってたくさんいるんですよ。まるで、病院に入ることを、ホテルに泊まるかのような、楽しそうな行事にしてしまっていますけど、、、。」
と、看護師はつべこべ言うが、影浦は、それを無視して、
「伊藤さんにはちょっと、休む場が必要なんです。どこか開いている部屋を確保してくれませんか。」
というが、看護師は、申し訳なさそうに言った。
「先生、うちはもう新規の患者さんを入れるところはありません。もし、ほかに入院させられそうなところがあったら、そこを紹介してあげるとか、そういうことをしてあげてください。」
「おかしいですねえ。」
と、影浦は言った。
「だって、どこか必ず空きがあるようにさせておくのが、僕たち病院の務めじゃありませんか?少なくとも彼女は、どこかに居場所があるように促すのが、精神科の役目でしょうが。」
「先生。お話は分かりました。もう結構ですから。ほかの病院を探しますから。それでもういいです。」
と、母親はそういうが、誰かが、引き留めてやらないと、官女の精神状態は悪化するということは、影浦も、知っている。だから、病院をたらいまわしにされてかわいそうな思いをさせる前に、何とか食い止めてやりたいと思っている。
「先生、お話は分かりましたから、もうそういうことは言わなくて結構です。あたしたちは、あたしたちで、何とかしますから。」
と、そういうことをいっている母親に、影浦は何だか申し訳ないなという気がしてしまうのだった。
「大丈夫です。あたしたちは、あたしたちでやります。あの、薬はもらえませんでしょうか?」
と、母親が言った。影浦は、ああ、すみません。と、彼女たちに言って、申し訳ないと思いながら、処方箋を書く。
「この薬は、気分を落ち着かせることはできますが、頸部が傾いたまま、動けなくなる人がたまにいるんです。そうなったら、すぐに連絡ください。決して、悪いようにはしませんから。」
と、影浦は言った。伊藤さんは、結構な美貌のある女性ではあったが、それも、この薬を出すことにより、彼女は、それがなくなっていくだろう。でも、そうなっても、彼女には生きていてほしいと、影浦は願った。
「もし、また、自分の体を傷つけるような苦しみがあったら、この薬を飲んでください。強い鎮静は得られます。」
と、影浦が言うと、彼女ははいといった。彼女が根本的に治るには、まだまだ時間のかかることであったが、それも仕方ないと思った。
「鎮静を得て、静かになったら、どうぞ、ご自身の過去を見つめなおしていただけますよう。」
「はい。」
と、伊藤さんは静かに言った。
「では、それでは、また、二週間後に来てください。」
影浦は、そういって、伊藤さんに外へ出るように促す。二人は、椅子から立ち上がり、ありがとうございましたと言って、へやを出ていく。
次の患者さん、その次の患者さん、影浦は、いつも通り診察をこなした。大体外来で済む人は、問題は比較的かるいことが多い。自身の意識を変えれば解決する、そんな人が多いのだ。
午前中の診療がとりあえず終わって、影浦は、職員食堂に行った。ほかの医者や看護師もそこに来ていた。
「あ、新しくここに来てくれた影浦先生ですね。私、三原と申しますが。」
と、彼のもとに、女性の医師がやってきた。院長よりも年上の女医さんだ。なんだかおばあちゃんと言われて慕われそうな、ちょっと太って、かわいい感じの女性だった。
「なんだか、ナースたちの間で、明日、ものすごくイケメンな先生がこの病院に来てくれますと、噂をしていましたけれど、本当ですね。なんだか、和服の似合う、お侍さんという感じ。」
「そんなことは言わなくて結構です。それよりちょっと聞きたいことがあるんですけどね。教えていただけないでしょうか。」
三原先生にそういわれて、影浦は、そう聞いてみる。
「この病院には、本島に空きというものはないんですかね。先ほど、ひどい自傷を敷いていた女性を、入院させてあげようかと思ったんですが、もう空きはないときつくいわれてしまいましてね。」
「まあねえ、うちの病院は、ちょっと、大変なところがあるからねえ。多少のことは、勘弁してあげてよ。影浦先生。」
三原先生は、わざと笑ってそういうことをいった。
「しかしですね、そういわれても困るでしょう。本当に誰か退院できそうな人は誰もいないんですか。」
影浦が、三原先生に詰め寄ると、
「まあ、先生は、和服の似合うイケメンだから、教えてあげようかな。」
と、三原先生は、小さい声で言う。
「あのねえ、うちの病院、一人患者がなくなってるのよ。本来なら、生かしていかなきゃいけない精神科なのにさ。」
「はあ、自殺でもしたんですか。」
と、影浦は三原先生に言った。
「まあそれはよくあることですが、そういうことじゃありません。私がお話すべきことはここまでです。影浦先生。うちの病院に勤めている以上、新規入院ということは、あまりさせないでくださいませよ。」
「そうですか。」
と、影浦は、なんだとためいきをついた。
「影浦先生。先生ももうちょっと図太い神経を持ってくださいね。あんまり誠意をもって、患者さんに接しちゃだめです。それよりも、できるだけ、患者を減らして、もう親切丁寧に扱うことはやめてください。」
と、三原先生は言った。とりあえず影浦は、そうですかとだけ言っておく。まったく大病院となると、どこかマヒしてしまうのだろうか。患者さんの人権とか、そういうものが一切なくなってしまうらしい。まあ確かに、精神を病んでいる人は、子供に逆戻りしたような態度をとることもあるけれど、そういうことを、否定はしてはいけないと、影浦は思っていた。
とりあえず、例のなくまずい昼食を食べて、影浦は午後の診察をした。午後の診察は、ほんの少人数で済んだ。影浦は病棟の担当ではないので、午後の診察が終了すると、まっすぐに帰っていいはずだったが、ちょっと、病院の中を見学させてもらおうか、と、病院の中を歩いてみた。
廊下で、二人の入院患者に出会った。多分、売店に向かって、出かけていくのだろう。それだけが、患者さんにとって、唯一の楽しみであることを、影浦は知っている。
「こんにちは、あの、新しいお医者さん?」
彼女たちは、なれなれしく影浦に聞いた。その顔は確かに子供っぽい顔であったが、さほど重症という感じでもない。多分、外来で十分ではないかと、影浦は彼女たちを見てそう思うのだ。そうなると、社会的入院ということになってしまうのだろうが、彼女たちは、もう、人生をあきらめきったような、そんな顔をしている。
「はい、今日から非常勤医師としてお世話になります、影浦千代吉です。」
と、彼は言った。千代吉なんて、顔に会わない変な名前ですね、なんて、彼女たちは笑っていた。
「でも、イケメンな先生だから、許しちゃう。」
と、影浦の顔を見て、彼女たちは言った。
「あの、ちょっと教えてくれますかね。」
と、影浦は、にこやかに笑いながら、そういうことを言った。
「この病院で、誰かがなくなったそうだけど、それ、本当のことかな?」
「ええ、本当よ。でも、佐藤さんは、殺してくれと何回も泣き叫んでいましたし、看護師さんたちは、それでいいんじゃないかと言ってたけど。」
一人の女性が、影浦に言った。その顔をして、影浦は、彼女たちの言っていることに嘘はないなと思った。こういう患者さんたちは、嘘をつくのが苦手だ。一生懸命隠そうとしているけど、それはできないのが、よくわかる。
「つまり、看護師さんたちが、そういうことをしたということなの?」
「ええ、佐藤さんは、言動がおかしくなっちゃってね。それで、何かあると、殺してくれとって、暴れてたわ。それを、看護師さんが、殴って止めたら、打ち所が悪かったのよ。」
と、もう一人の女性が、そういうことを言った。ということはつまり、佐藤さんは、病棟の中で大暴れして、止めようとした看護師が、殴りどころがわるくて殺してしまったということだろう。でも、そういうことは、精神障害者には、ちゃんと介護をしているということになってしまうのだろうか。きっと、そうなってしまうのだろう。精神関係には、そういうこともないから。
「影浦先生、そんな顔しないで。あたしたちは、それでもここで面倒見てもらえるだけでも、幸せだと思わなきゃ。もう外の世界では、時間が進みすぎて、私たちには到底追いつけやしないわ。」
「そうよ、それに、うちの家族だってもう、私のこといらないと思ってるわよ。どうせ、結婚もできないし、子供だって作れなくなった私のことなんか、もう粗大ごみと一緒なの。だからここでご飯食べさせてもらえることに感謝しなくちゃ。」
二人の女性は、そういうことを言う。もう、人生なんてものはもうないんだという顔つきで。
「じゃあ、あたしたち、一時間以内に、病棟に戻らなきゃならないので、失礼します。」
「ほんと、今日は、イケメンな先生と話ができてよかったね。あたしたち、それでも幸せよね。」
そういうことを言いながら、彼女たちは、いそいそと立ち去って行った。
「それだけでも幸せか。」
影浦は、彼女たちの後ろ姿を眺めながら、そんなことをつぶやいた。自分の開業医としてやってくる患者たちはまだ、社会的に認められているような気がした。さっきの彼女たちと言い、もう、見捨てられてしまって、家からも社会からも捨てられてしまっている患者たちを、外の世界へ戻すのは、至難の業のような気がする。
「それでも、やらなきゃいけないんだ。」
と、影浦は思った。
「彼女たちを、急がなくてもいいから、外で暮らすことが幸せだと思わせてあげないとね。」
と、一言つぶやいて、病院の階段を上がっていく。患者さんたちも、この階段を上がって行ってくれたら、いいのになあと思う。でも、患者さんたちは、自力でそうすることは、、、まず不可能だろう。
「影浦先生、院長が、ちょっと来てくれって言ってますが。」
と、看護師がどこからやってきたのか、彼にそう声をかけた。
「なんですか。」
「だから、院長がちょっと来てくれということで、呼んでいるんですよ。」
ああ、どうせ、今日は変なことをしたなとか、そういうことだろう。だって、新規の入院患者は受け付けていないと言わなかったんだから。まあ、それはそれでよいとして。
「僕は患者さんになるべく外で生活できるように促さなければなりませんね。」
影浦は、院長室に向かって、歩き始めた。
ある晴れた日に 増田朋美 @masubuchi4996
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