4

「だめ、死なないで」


 呼吸のできな苦しみに喘ぐ。

 海面を突き破り、腕を伸ばす。

 一呼吸だけ、一呼吸分の酸素まりょくがあった。

 これがあれば、もしかしたら……

 わたしは、唇から、息を送り込んだ。


 ◆


『GYAAAAA!!』


 絶叫する異形の声で目が覚めた。

 唇を濡らす温かい感触。

 胸に生じている違和感と、全身を巡る力の充実。

 半覚醒状態の意識で仰ぐと、


『クラス:勇者』『0』と、運命が見えた。


「成功……したか」


 どうせ死ぬなら、と自暴自棄の作戦だったけど。

 オレの体を持って実証された。数字の意味は『クラス:○○』の運命に辿りつくまでの猶予である。

 そうなると、オレはいま、勇者になったってことだけど……

 胸の剣を引き抜いていく。

 刀身が魔力を受けて、発光をする。

 満月が剥がれ堕ちたかのような、美しい白銀だった。

 すらりと、何の抵抗もなく抜刀できた。 

 不思議と痛みはないし、出血もない。自分が鞘になった気分だ。

 胸のあたりを検めるが、傷口もなにもなさそうだった。


「勇者、さま……?」

「すごいね、橘さんの剣……魔法みたいだ」


 魂魄こんぱくとやらを直接手術する常識外の剣だったっけ。

 体は傷つけずに、魂だけを摘出することができるのだろう。


『GYAAAAA!??』


 自分の常識が根底から崩された、とでも言いたげなパニックっぷりだ。

 オレもびっくりしてる。

 死から蘇った高揚感からか、口調が軽くなる。


「茉梨も……意識はあるか?」


 しゅぴっ、と腕を交差させてみる。

 すると、蠢くばかりだった影の動きが停止する。

 魔法みたいに、秘密の合図は胸に届いていた。


「上々だね」


 オレが上手くいったなら、茉梨だって元に戻るはずだ。

 柄を握る力が、自然と強まった。


「仕切り直しだ」


 剣を正眼に構えて、重心をやや前傾にする。

 今度は誤魔化しの無い、勇者と魔王が向かい合う。

 どちらともなく、戦いが始まった。

 右手らしき部位を上げ、魔王が一条の光線を放つ。

 光の柱の側面に剣を叩きつけ、砕き割る。硝子に罅が入るのと同じく、魔力同士の結合を解いて無力化する。

 体が理解している。

 どう戦えばいいのか、次に動く一手、二手、三手の戦術分析……

 幾多にも光線が放たれるが、すべて見切れる。

 波濤のうねりで黒炎が迫る。火花の飛沫を上げ、世界を呪いながら向かってくる。

 横薙ぎに剣を振るう。

 一振りで、炎は霧散した。

 力の差は歴然。あとは、二度とこちらに手が出せないよう、魔王を完膚なきまでに叩きつけるだけ――!

 脚が沈み、上空に飛び上がった。

 昇る流星のように、黒い光の柱が殺到する。

 光を砕き、躱し、払い――

 魔王の上部に到達する。


「取った」と、確信と共に唱えた。


 兜割り――! 縦に一閃、剣を振るい下ろした。

 剣は闇だけを切り裂き、中で眠っていた茉梨を吐き出させる。


『GYAAAAAAAAAAAAAAA!!!』


 断末魔を響かせ、影がほどけていく。

 苦悶の声が木霊を残し、虚空に溶けて消える。


「う……」力無く倒れてくる体を受け止め、胸を撫で下ろす。

「茉梨、意識はある?」

「えぇ……」


 よかった。これで戻らなければ、なにもかもが台無しだ。

 微細な闇の欠片が光の粒子と混ざり合いながら、柱が虚空に消えていく。

 光の向こう側に、自然の茂る公園が透けて見える。


「門が……」


 もう二度と届かない太陽に手を伸ばすように、茉梨は震える手を上げた。

 理想の終わり。ほんの少しだけ、ピントがズレていた時間。

 夢から醒めた顔つきで、茉梨は諦めたように手を落とした。


「どうして、邪魔をしたの」

「最初は成り行き。後半は、オマエが気に食わなかった」

「もっと、ちゃんとした理屈で話してよ」

「オレが勇者で、茉梨が魔王だから」

「……魔法なんてないって言うくせに、魔法基準で語るのね」

「あやかっただけだ」と、頬を掻いた。「魔法は正直きな臭い気持ちが大半だし」

「なにそれ、散々頼ったくせに」


 寂寞に濡れた瞳が、オレを映す。

 涙の予感。目元が朱っぽい。

 怒ればいいのか、笑えばいいのか、悲しめばいいのか、茉梨は混沌とした表情で見上げてくる。


「寂しかっただけなの」


 ぽつりと、独白が暗闇に吸い込まれる。

 海面が破れて、底から立ち上がってくる声みたいに、切れ切れだった。


「魔法使いのおばあさまを自慢したかった。誇らしかった。でも誰も振り向かないから、やっけになって……」

 

 喘ぐように、酸素を求める。

 それから、何もしゃべれなくなってしまう。


「オレはこれっぽっちも魔法を理解するつもりはない」

「え、体験したくせに……」

「悪い夢だって忘れる。死にかけたなんて思ったら、夜も眠れなくなるから」

「えぇー……」

「だけど、茉梨の敵であり続けるよ。どんな話だって真っ向から付き合ってやる。敵が居る限り、茉梨はひとりじゃない。勇者があって魔王、魔王があっての勇者だ」

「な、なんて暴論……!」

「だから、とにかく、あまり周りに迷惑をかけないよーに! 趣味の範囲で楽しみましょうね!」


 強引に話をまとめて、笑う。

 腕の中で、気まずそうに茉梨が身をよじる。


「わかったから……もう離してほしいのだけれど」

「あ、ああ、あああごめんなさい」


 慌てて支えながら茉梨を立たせた。

 ガクブルである。

 女性に拒絶されたら生きていけない、思春期男子なのだ。

 この世で一番怖いのは痴漢冤罪。


「変なひと」と、拗ねたように唇を尖らせて、彼女は呟いた。


 一番言われたくないひとに言われた……!

 愕然とする。

 と、和やかな雰囲気で緊張が解けて、ふと気づく。

 あの細身の女性の影が見えない。

 

「……あれ、橘さんは?」

「……どさくさに紛れて帰ったのかしら?」


 また悪巧みをしないとも限らない、可能なら動向を掴んでおきたいところだけど。


「一旦保留だね」


 声もなく、茉梨が同意する。

 既に日は暮れている。けれど、周囲は不自然に明るかった。雲間から覗く月光が薄闇に白銀の滴を溶かし込んでいる……雪のように、光の破片があちこちから降り注いでいた。

 戦いの終わりを祝福されているようだ。

 総身を震わす達成感と、いますぐにでも眠りにつきたい泥のような倦怠感で満ちている。

 疲れた。溜息をついて、どこか生ぬるい事後の空気に酔う。


「帰ろう、茉梨」「ええ、帰りましょう」


 勇者は、聖剣を握る手に、魔王の手を握って帰った。

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