五章 勇者と魔王

 六箇所に、魔法陣の基点を配置していた。

 魔力の観測された六つの座標に、楔は打ち込まれていた。


 乱れが生じたのは、明け方。

 異変を察知し、異世界の女騎士は眠りから目覚める。

 此処は異世界。頼りとなる魔力は、魔力線ラインから得られる僅かな量だけ。

 過酷な環境を生き述べる術は、彼女の五体に染み付いている。

 体力や魔力の消費は最小限に抑えるべきだった。


 女騎士――橘クラリーサは、転移後、すぐさま現地通貨の確保に当たった。

 拙い魔力とはいえ、精神に左右させる魔法を行使するのは簡単である。

 いわゆる催眠を用いて、安全かつ的確に、橘は寝床を確保していた。これほど催眠を使いこなせるのは、催眠おじさんか橘クラリーサくらいだ。

 むくりと起き上がる。ネカフェである。シャワー付き、一泊2000円。

 お値段リーズナブルな宿を手に入れ、橘は新米冒険者として奔放していた日々を想わずにはいられない。安い宿泊代を稼ぎ、その日暮らしの生活を続けていた頃。それがいまでは、勇者を迎え入れる使者にまで成り上がった。


「妖精はなにをしているのですか……」


 ぼやきながら、魔力繊維で編まれた黒衣を羽織る。

 軽く櫛を長髪に通し、橘は手荷物をまとめてネカフェを出た。

 白み始めた街。

 夜の間に凍てついた空気の底を、忙しなく人々が行き交っている。


「ここが、勇者様の生きる世界……」


 魔法がなく、代わりに自然のエネルギーを利用した文明基板。

 魔物や魔王のような天敵が存在せず、人類が文明の力で食物連鎖の頂点に君臨した世界……あまりにも隔絶した文化や価値観に、目眩のような感覚が絶え間なく襲ってくる。

 まだ二日しか故郷を離れていないのに、元の世界の空気がたまらなく恋しい。

 ここは、あまりにも息苦しい。

 

 異変を感知した最初の座標に到着した。

 この国の形式に則った、自然と調和した家屋の空間。

 橘は、魔法陣を再配置して、妖精に思念を飛ばす。


「本当に、誰の姿も見ていないのですか?」

『シツコイなー! ヒトバンジュウみはったアタシをネギラウとかデキナイのー!』

「使い魔が何を言いますか」


 嘆息と共に通信を打ち切る。

 魔法使いと使い魔は、どの場所であれ自由に意思疎通が交わせるのだ。


「しかし……」と、悩ましげに視線を伏せる。右目の魔眼を起動させ、周囲を観察する。


 昨日までは落ち着いた流れを保っていた魔力の波形が、ひどく乱れている。


「魔法陣の影響、ではありませんね」


 ぽつりと呟き、次の地点に向かう。

 紫水晶の瞳を鈍く輝かせる。

 ひとつ、可能性として浮上してきた疑惑を検証する必要があった。


「まさか、人為的な妨害が発生している――?」


 魔法体系のひとつも樹立していないこの世界で、こちら側の世界における魔法式を書き換えるだけの編算力を持つ人間がいるとでも――? そんなデタラメな。

 バカな、と一笑に付すことはしない。

 どんな可能性も考慮して然るべきだ。橘は賢いので考えることにした。


「あの少女……魔王がやったのでしょうか?」


 接触した現地の者。

 しかし、彼女から魔力の反応は感じなかった。

 それに、魔王の潜在能力はあっても、魔法知識がないのに魔法を自在に操れるワケがない。


「……奇妙なのは、魔法式そのものに変化がないことだ。違和感なく成立しているからか?」


 紙に印字された魔法陣は、インク上に魔力を巡らせている。

 ちょうど、この世界の明かりが電気を受けて発光するのと似ている。

 少しでも乱れがあれば、エラーが発生して魔法は成立しない。精密性を要する代物なのだ。


「ほかの座標はどうでしょうか?」と、妖精に思惟を送る。


 ……応答無し。

 魔力が安定していないのだろう。効率よく作業を分断したいが、確実性を重視すべきか。自分の足で巡ろう、と結論づけて、彼女は雑踏に身を潜ませた。

 魔法陣を確認し終えて、問題ないと判断した。

 あとは、門を開くそのときを待つばかりだ。

 逸る気持ちを抑えながら、橘は門の発生地点に訪れた。


「此処で始まり、此処で使命が終わる……因果を感じますね」


 湿った土を踏みしめ、この街では珍しい木々の香りに浸った。

 木立の視界が開けて、抉れた大地が現れる。

 異世界から転移する際に生じた破壊痕。

 その中央に、ぽつりと黒衣の少女はいた。

 漆黒の髪に紅蓮の双眸。

 冷たい容貌に憤怒を滲ませて、橘を睨み付けている。


「……やはり、あなたでしたか」


 橘の声に、返事はない。

 得心がいく。魔法が存在しない世界で、彼女だけは愚直に幻想と向き合っていた。


「勉強になりましたか? この世界では珍しいでしょう、魔法陣は」

「いいえ、あまりにも単純な仕組みで退屈だったわ」

「その威勢は認めましょう。しかし、魔法は魔力があって初めて成り立つもの――知らぬ貴方ではないでしょうに」


 子どもの課題を採点する気分だった。

 魔法もろくに扱えない人間。

 届かない星に向けて、背伸びを続ける哀れな少女。

 対してこちらは、人類の築き上げた魔法知識を随まで修得した、魔法使いのエキスパートだ。積み上げてきた努力も、持って生まれた才能も違う。


「そう、あなたも侮辱するの」


 肩から力を落とし、少女は溜息と共に呟いた。


「なら結構よ。いくら許しを請うても、ぜったいに赦さない」


 静かに、放つ。

 穏やかだが、ただならぬ決意を感じさせる声音。


「貴様に温情をかけてもらう義理は無い、魔王」

「そ――どうせ誰にも期待してない」


 肩をすくめて、少女は冷笑を浮かべた。


「ただ――あの子は、別だから」


 玲瓏と済んだ声が響く。

 瞬間、自身の展開していた魔法陣が砕け散るのを、橘は感じ取った。

 驚愕のままに魔法陣の方角に振り向いた。

 神社のある、方角。

 その隙を見逃さず、少女は背後から奇襲をしかけていた。


「ま、ずい――!」と、目前に迫っていた物体を振り払う。



 それは、几帳面に折り畳まれた紙飛行機。


「わたしに魔法は使えないけど、あなたは魔力があるでしょ?」


 紙に触れた指先が発光し、爆発した。

 グロテスクに膨れ上がり、火炎が橘の意識を剥奪する。


「反転術式、魔力を感知すると逆流して暴発する失敗作ね」


 目を覚ますと、何もかもが手遅れになっていた。

 魔法陣はすべてハッキングされ、魔王の手中に収まっていた。

 魔法の存在しない世界で、少女はありもしない魔法を祖母の文献から学び続け、異世界の騎士によって悲願を結実させようとしていた。

 魔法陣が意図しない用途で展開し、ひどく歪な状態で門が開く。

 光が溢れる。まばゆいばかりの閃光の海。

 光の柱。天に繋がる塔。


「ああ――綺麗――」


 中心で、くるくると少女は踊る。

 異世界との道を強引に繋げたのか――!

 ありえない、と橘は折れそうな心で必死に否定した。

 それを認めてしまえば、人類が積み上げてきた学問が、すべて瓦解する。


「こんな、の――」

「ありえない? 残念ね、わたしは魔王よ? 失われた魔法学だって修得しているの」

「バカな、そんなの」

「わたしのおばあさまは、魔法使いだった。あなたの世界のね」


 そうか、と橘の中で繋がるものがあった。

 異世界から転移してきた過去の人間が、家族を作って、この世界では無意味なはずの魔法を……目前の少女は直向きに信じ続けたのだ。


「……せめて」


 せめて、勇者様に伝えなくては。

 間違って民間人が巻き込まれないように、光の外を覆うように結界を張った。

 思念を飛ばし、妖精に結界に入るための呪文(パスワード)を伝える。

 身の丈はあろう大剣を異次元から取り出し、正眼に構えた。


「ずっと、ずっとこのときを待ちわびてたの」

「青二才が、なにができる」

「んー、買収?」と、少女は愛らしい顔で微笑んだ。


 怪訝に眉をひそめ、橘は剣の握りを確かめる。


「あなたの使い魔は、とっくにわたしのものになってるってことよ」

「は――?」


 思考が止まる。

 同時並列で考えていた状況を脱する策がすべて瓦解する。


「結界を敷いたのね? おあつらえ向きよ、わたしも弟子を巻き込みたくなかったもの」

「ざ、戯れ言を!」

「そう思う? 世界の半分をあげるって言ったら、簡単に頷いたわ」


 あいつーー! と叫び出したくなった。

 絶望的だ。結界を敷いた以上、外部からの助力は求められない。

 呪文を知らなければ、結界に入り込めない。

 膝から頽れそうになった、そのときだ。

 痛いのを我慢して入室する、なんて力業で火堂ケイが現れたのは。

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