一章 新たな日常と魔女
1
私立
早朝の白い光が、緑色の輪郭を持つ山々の
何処にも刺激を感じない優しい故郷の姿。
退屈だ。朝の冷たい潔白な空気で追い出したはずの眠気が、ぶり返してきた。
「眠い……」
ひとりごちると、誰もいない車内で虚ろに響いた。
始発電車、急行の名古屋行き。始発駅での乗客はオレひとり。
同級生は、ほとんどが地元の高校に進学した。
都心に進学したのはオレだけ。優越感と寂しい気持ちとが混合している。
「べつに、良いけどさ……」
微睡みのせいか、やけに舌が滑る。
「〝
昨日、ハリボテの魔女にかけられた魔法の名前を呟く。
わずかな振動、停車駅に着いた電車が速度を緩めていた。
乗車してくる人を眺める。
頭上に、運命が見えるはずだった。
……でも、見えない。
魔女と話した一瞬だけしか、オレは魔法を使えなかった。
日野茉梨──彼女は何も告げずに去った。
謎は謎のままで、オレの胸の底で
どうして、オレに魔法が使えたのか。
本人に真相を尋ねたいところだが……
「あの様子じゃ、マトモな解答はないのだろうな」
訊いたところで「なにそれこわい」と返されるのが目に浮かぶ。
どうせなら、某忍者漫画の赤い目がよかった。
なんて、下らないな。
嘆息をこぼして、目を閉じた。
無いのなら、それで構わない。
魔法がなくとも生きていけるのが、現代社会なのだから。
◆
ほんのりと、ワックスの臭いがあった。
朝の教室。規則正しく整列した机と椅子。窓の向こうからランニングの掛け声や、ボールを打ち付ける金属バットの甲高い音が聞こえてくる。
自分の席に座り、突っ伏す。
……時刻は七時。ホームルームまで一時間半はある。
「登校大変すぎだろ」
中学なら徒歩一〇分で登校できたものだけど。
ぼやきつつ、自分の中に残る気力を集めた。
せっかくだから、暇な時間で校舎の散策でもしてみよう。
真新しい廊下は、上履きを反射するくらいに清潔で、涼やかな湖底を歩んでいるような気持ちにさせる。普段は喧噪で溢れているだろう校舎も、早朝だと寂しげだ。
開け放たれた窓から風が吹き込んだ。
春の爽やかな空気。そこに淡い甘い香りが混じっていた。
「朝早いね、ケイくん」
掛けられた声に振り返る。
曲がり角の陰から、知った顔が出てきた。
癖のない黒髪は肩口で切り揃えられていて、鼻筋の通った綺麗な顔を飾っている。
鮮やかな碧い瞳が優しげに垂れていた。
「えっと、おはよう」
返事に
戸惑うオレとの距離をつめ、顔をのぞき込んでくる。
「元気ないな~寝不足?」
「……通学時間を間違えて見積もっちゃってただけ、それと、ちょっと離れてほしい」
「な~ん~で~!」
抗議する幼馴染みの肩をぐいぐいと押し、息を整える。
……不意打ちが過ぎるぞ。彼女とは十年来くらいの付き合いだけど、最後に話したのは小学生だったんだ。幼い頃と今の姿とでは、
くそ、心臓の音がうるさい。
「碧木さんこそ朝早いんだね、いつもこれくらいなの?」
「まさか。今朝は特例、片付けなきゃいけない書類があるだけ」
「へー、生徒会長ともなると、かなり多忙なんだ」
「凪ちゃん」
「え?」いきなり何を言い出すんだ。眉を寄せた。
落ち着いた声で、再び「凪ちゃん」と発音する幼馴染み。
彼女は
それが、少なからず糾弾の光を覗かせていて、オレは肩身が狭くなる。
「どうして他人行儀な呼び方なの」
「いや……だって、久しぶりだし、距離を掴めないから」
「だったら凪ちゃんでいい」
「……でも、そんな気軽に呼べる立場じゃないというか」
昔なら気兼ねなく呼べた。いまは違う。成長した以上は、お互いの立場を配慮すべきだろう。
「私とふたりっきりだよ? 誰に気を遣う必要があるの」
オレと、アンタにだよ!
艶やかな声は、抗いがたい力を宿している。
……羞恥が一周回って怒りに変わってきた。
綺麗になった幼馴染みに、なんだってオレばかりが緊張しなきゃならないんだ。
「わかったから、降参! 凪ちゃん! ただしふたりでいるとき限定だ!」
「もっちろん、期待以上の成果!」
花びらのように薄い唇が、満面の笑みを象った。
声が弾んでいる。楽しんでいた。昔からそうだ。この人は、人々を説き伏せることに喜びを見出す快楽主義者なのだ……!
「じゃ、行こっか」
「へ? 行くって……?」
「生徒会室! ちょうど人手が欲しかったんだ」
待って、それはいくら何でも――!
「いらっしゃい、ケイくん」
「……失礼します」
「こちらにどうぞ~」
「はい、謹んで座ります……」
『庶務』の席に座り、溢れ出そうなため息をこらえた。
敗訴。惨敗。無様。沈んでいく意識は、ネガティブな単語ばかりを連打する。
口論で勝てると思い上がったのも一瞬のこと、膨大な言葉でねじ伏せられた。
「ごめんね、ほかの子達は部活動も兼任してるから手が空かないの」
「いいよ、抵抗するだけ無駄だし。いやな感じに成長したよな、ほんと」
せめてもの皮肉だった。
柔らかな微笑で受け止められた。0ダメージである。
「ええ、ケイくんなら受けてくれるでしょ?」
「よぅ言う、打ち負かしておいて」
「ふふふふ」
仄暗い笑みだった。背筋に冷たいの流れたんだけど。
「で、どうすればいい? 書類仕事は実家の手伝いしか経験ないよ」
「簡単だよ。部活動予算編成の審査」
「それって外部の人間がやっていいの?」
「ガイブ?」
オレ新入生なんだけど……
「こういうのって生徒会の仕事だろ」
「ケイくんは身内だよ、だから実質生徒会役員だね」
呆れた。シラを切るつもりらしい。
観念して、机で山積みになった書類に目を通す。
「それに、庶務になるでしょ?」
「えぇ~~~~初耳~~~~~~!」
大袈裟に驚いてみせた。
庶務ってそれ、生徒会における雑務担当だろ?
凪ちゃんは唇を尖らせて、小さく声を上げる。
彼女の中では既に決定事項らしい。
「……バカにして」
「生徒会に入れるような器量ないし、ミスチョイスにも程が有るよ」
「へーきだよ、ケイくんなら」
全幅の信頼を投げかけられて、胸が詰まった。
六年も会ってなかったのに、どうしてそんなにも信頼できるのか。
ふと、彼女の手を引いていた日々が脳裏を掠める。
何処までも走って行けると思っていた。
握った手の温もりは遠い。あのときの気持ちばかりが先行して、自分が置いてけぼりを食らっているような孤独感が去来する。
暗く落ち込んでいく心を振り払い、顔色を
「あんまり適当なこと言わないでくれ」
「夏の選挙、いっしょに頑張ろうね」
「いやだ、オレは入らない」
えぇ~! と不満の声が上がる。主に凪ちゃんから。
駄目なモノは駄目。ここでハッキリと断っておかないと、いつの間にか既成事実で囲まれて丸め込まれるのだ。追い込みにかけては、彼女の右に出るものはいない。
「ケイくんは変わらないね」
「何処が、結構成長したよ」
「……頑固者」
「む」聞き捨てならない言葉であった。
睨み付けると、あからさまに顔を逸らされた。
「そんなこと言ってると手伝わないぞ」
「ごめんね、つい舞い上がっちゃってた」
……べつに良いけどさ。久しぶりの再会でうれしい気持ちは、オレにだってあるんだから。
「にしても、こういう部活の予算って生徒会が決めるんだ」
「正確にはちょっと違うけどね。生徒会の顧問から教頭先生にまで、一通りの承認は必要だよ」
へー。曖昧に頷き、書類を整理する。
「もっとも、データは見やすくすれば承認なんてないようなものだけど」
「……詳細な情報は?」
「別途で添付しておけば問題ないよ。そっちの資料作成は終わらせてあるから、ケイくんはデータの視覚化だけ努めてもらえればいいかな」
了解、と短く答えた。
実際のところ、オレがするのは資料の整理だけだった。ほとんどオレに出来る仕事なんて無いようなものだけど……
書類に落としていた視線を僅かに持ち上げて、凪ちゃんを盗み見る。
碧の瞳と視線がぶつかった。
「……なんでこっち見てるんだよ」
「ひとりで出来るかな~って」
「出来るよ、バカにすんな」
調子狂う。意識を資料に戻すと、思いがけない名前を見つけた。
「日野茉梨……」
開いた口が塞がらない。どういうことだ?
「凪ちゃん、これなんだけど」
「なになに……? 『部活動設立』の申請書か……ってむむむむ」
文面を視線でなぞる。
『魔術研究会』……申請者、日野茉梨。活動理念は、
「幻想を解明し、現実に蘇らせる」
……ちょっと言っている意味がわからない。
綺麗な筆跡で書かれた部活動の理念。魔女然とした彼女らしい部活動だけど……
「これ、どうすればいい?」
「却下デース」
「えぇっ!?」
1ミリも迷わなかったな!?
「当然でしょ。活動理由が曖昧、設立に必要な人数を満たしてない。議論する余地もありません、却下デース」
言って、凪ちゃんは数瞬沈思するように目を閉じた。そして、やおら問いかけてくる。
「日野さんと面識あるの?」
「え、面識っていうか、入学式に遭遇した」
「……ふーん」
この話題にどれだけの魔力があったのか。ぼんやりと頷いたっきり、凪ちゃんは一言も発しない。思いがけず拾えた話題だ、せっかくだし日野について訊いてみるか。
「凪ちゃんこそ日野のこと知ってたのか?」
「……うん、ちょっとだけ。あの子、あまり良い噂聞かないから」
目を伏せて、歯切れが悪い回答をこぼす。
まあ、あの風貌だと噂のひとつやふたつは有るかな……? どんな類いの噂かは想像が及ばないけれど。
「あ、でも勘違いしないで! 後ろ暗いことはないんだよ! ほんとだよ!」
ぐっと顔を寄せられて、たまらずオレは椅子を引いた。勢いあまり危うく転びそうになる。
「だったら教えてくれてもよくないか? 彼女に訊きたいことがあるんだよ」
「……直接、あの子から話を聞きたいの?」
「まあ、うん……」直接じゃないと、悩みは晴れそうにないかも。
そこまで考えて、オレの意識は昨日の入学式にまで引き戻った。
あの、異次元の世界。
視界に異常なフィルターを差し込まれた感覚。
桜の花弁と情報群で溢れた魔法の空間。
どうしてあんなものが見えたのか、まったくもって不明だけれど、ただひとつだけ確信があった。魔法は魔女が起こすモノ。アレは、日野茉梨という偽りの魔女が関係しているのだ。
言いがかりそのものだが、言語外の感覚で理解したことだ。根拠も理由も不明である。
それと、予感がある。
彼女と会えば、もう一度、魔法が使えるかもしれない――
「ケイくん、どうしたの? 急にぼーってして」
「……いや、なんでもないです」
あたふたと首を振った。また顔を寄せられてはたまらない。
こちとら田舎暮らしの少年だ、これっぽっちも女慣れしてないんだ。
ふと、彼女の頭上を眺める。魔法があれば、何らかの『情報』が見えたはず。
イメージで言えば、たぶん『女王』なんて似合うんじゃないかな。王冠をかぶった嫋やかな女性。考えてみたら、驚くほど腑に落ちた。支配者階級が似合いすぎる。
もっとも、そんな奇怪なものが見えたところでどうするんだって話だが。
「どこ見てるの……まさか、髪くずれちゃってたかな……?」
ボソボソと、凪ちゃんの声はオレの耳に届く前に霧散した。
聞き返そうにも、彼女は櫛で髪を整え始めてしまう。
「……聞き返すのも野暮か」
視線が次の引っかかりを求めて、壁掛け時計を捉える。
話し込んでいるうちに、いつの間にか八時を迎えようとしていた。
「そろそろ切り上げよう。こっちは粗方済んだけど、凪ちゃんは?」
「へ? あ~うん! もちろん終わってるよ!」
「なんだ、案外早く終わったね」
「ケイくんがいるから捗った~!」
嘘だか本当だか分からないことを口にしながら、凪ちゃんは息を吐いた。
調子のいいひとだな。嘆息と共に苦笑した。
「じゃあオレは先に向かうよ」
「待って。連絡先交換しよ」
「連絡先……家の電話じゃだめ?」
というかそれしかない。オレは携帯電話を持ってないのだ。
そう告げると、凪ちゃんは目を丸くして、頭を抱える始末。
「ずっと向こう暮らしだったもんね、仕方ないかぁ……」
「これまで通り文通でよくないか、これからは毎日会えるんだし」
「……足りないわけじゃないけどさ~!」
凪ちゃんは呻いた。なんだってんだ。
「わかった、今週中にスマホ契約しとくから」
「ほんと? なら連絡先渡しておくね!」
ズギャッ! と目にもとまらぬ速度でボールペンを走らせ、電話番号の記したメモを手渡してきた。すごいな、腕の残像が見えたぞ。
「帰ったら連絡するよ。つっても、挨拶くらいしか出来ないけど」
「とんでもない! ケイくんからの挨拶なら大歓迎だよ!」
なんだそれ、大袈裟すぎでしょ。
苦笑と共にそう言うと、凪ちゃんは微笑んだまま動かなくなった。
……え、ガチでございますか。
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