序章 捧火

 空は暗雲が立ち込めていた。


 途中にある自室を抜け、かつて師父に教えて貰いながら自分で削った杖を手に取ったが感慨に浸る時間など無かった。


 冬に近付きつつある秋の昼下がり、ひた走る。向かった先は、炊事場であった。


 炊事場に居たのは齢十を数える師父の娘である王鳳華である。母とは彼女が生まれた瞬間に死別している。何かと勝手のわからない師父や自分の代わりに元々、炊事場を手伝ってくれていた師父の親戚の婆が母親さながらに可愛がってくれていた。


「どうしたの、しん兄様?」


 鳳香ほうかの顔を見て、安堵した。その一方で自分が扉を勢いよく開けたためか鳳香ほうかは可愛らしい顔に驚きの表情を浮かべていた。


「鳳小姐、婆は居ないのか?」


「婆は調味料を切らしたことに気づいて、半刻程前に街へ買いに行ったよ。秦兄様はそんなに焦ってどうしたの?」


「いや、うん。そうか」


 秦兄様。十五離れた自分を兄と慕ってくれる鳳香ほうかを可愛い妹のように思っていた。婆は住み込みで料理を作ってくれている熟手※1なのだ。


 そうか、婆は街か。


 運が良かったのだ。足腰もそこまで強くない。婆がもし残っていたらと考えてしまう。


 もしかしたら、戻ってくる際に最悪鉢合わせてしまうやもしれぬが、今居ないということに安堵する。


 鳳香ほうかも逃がさねばならぬ…。


 しゃがみこんで目線を鳳華に合わせる。肩を持ち、強く言う。


鳳香ほうかよ、我が大切な義妹よ。よく聞くのだ。今すぐ炊事場の裏扉を出たら隠れて抜け出す時に使う、けもの道へ行きなさい。そこから山を降り、街へ下り、書店の爺様を頼るのだ。そして、三日間は外に出たら行けない。わかったか?」


「う、うん、わかった。し、秦兄様も後から来てくれるの?」


 思わず、鬼気迫る様に言ってしまったためか、顔を逸らし、頬を赤く染めている。


「…ああ、必ず!さぁ、行くのだ!」


 躊躇うように扉を開け、そのまま真っ直ぐ山に消える影を見て、ふっと肩の荷が降りた様に感じてしまった。否、まだ師父の願いを1つとも達成していないでは無いか。


 すぐに細い薪用の木に布を巻き付け、麻紐で縛り、油を垂らす。竈の火にそれを近付けると勢いよく燃える。


 竈の中から火バサミで半分程、火の着いた薪を取り出し、先程入ってきた扉の近くに投げる。料理に使うために置いてあったいくつかよ薪の束もばらけさせ、後はそのばらけさせた薪の上と部屋で燃えそうな木材部分の近くに置く。


 そうした後、裏扉の方に向かい、外から容器に入った油を部屋全体にぶちかまし、後にする。


 ゴオッ!!っという勢いよく燃える炎の発火の音が聴こえたが、後ろを振り返ることはしなかった。


 炊事場の裏扉から出て左に行った先に離れがあり、そこは師父が国中から集めた武術書や兵法書が溢れかえっており、離れというより書庫となっていた。


 離れは庭への扉も閉じられており、正面の扉からしか入れないようになっていた。扉は錠で固く閉ざされており、鍵は師と自分しか持っていない。


 小さい頃は鍵など無く、よくここに入り浸り、書を見ていた。先程作った簡易の松明を硬い土の地面に置き、懐から鍵を取り出し開ける。独特な本の匂いが部屋を充満しており、懐かしさと悲しさが心の底から溢れ出てくる。


 強く唇を結び、中へ向かう。二つの部屋を抜けた先にその部屋はあった。


 その部屋の奥にはこの離れで唯一飾られている赤い厚紙で製本された書物があった。


 松明を近付けると師父の達筆な文字で『金華清麟闘棍』と書かれている。


「師父…。私が必ずや師父の教えを後世に伝えてみせます」


 松明の火を当てる。


 チリチリ、と燃える『金華清麟闘棍』を見て、先程の吐血した師父の姿が本当に現実なのか、自分は幻覚を見せられて、この書物を燃やしているのではないか、と不安を覚える。


 否、そんな事を考えている暇は無いのだ。急がねば、師父がこの窮地から脱した時には真っ先に駆けつけねば。


 そう思いながら、松明をそこら辺の書物の山に放り投げ、離れを急いで後にする。


 そうして、外へ出た。


 轟々と燃える屋敷から熱気が放たれている。屋敷の目の前には無粋な客がいた。


 遅かったか。


 ―――――――

 ※1 熟手:料理人のこと

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