1:聖母

「あ」


目を開くと、こちらの様子を伺う女性の姿が目に入った。


周りを見渡すと、自分の背より大きいくらいの壁が自分の左右にあり、女性の奥には多くの通行人と店が蔓延っていた。


上を見上げると、空は雲で大きく覆われていて太陽の光は遮られていた。


恐らく、自分は大きい店と店の間の通りで一人で立ち尽くしていたのだろう。


「あ、やっと起きましたかぁ?立ちっぱなしでずっと目を瞑っているから心配だったんですけどぉ、何かあったんですかぁ?」


落ち着いた語気で、聞く者を和ませるような声がした。


太陽からの光を浴びたその金色に光る髪は、なびけば草木の合間に群生した金木犀のように麗らかで、その薄青い大きな瞳は、大海のように深く、広くて吸い込まれるようだった。


そんな神話の舞台を体現したかのような顔立ちとは裏腹に、体は中々にグラマラスな肉付きをしていたので、中々目を見張るものがあるな、おい。


恰好は全身真っ白なローブを着て、帽子だけを外していた。


ローブの中には、小さい杖のようなものが見えた。


一体何に使う物かは分からないが、パッと見た感じだと修道女のような雰囲気を醸し出している。


「ちょっと、いつまで私の体を見てるんですか!?何か喋ってくれないと何も始まらないので困ります!」


頬を紅潮させ、深紅を帯びたその顔はとても可愛げがあり、自分の警戒心は無くなっていた。


その姿をずっと見ていたかったが、手を前に組んでもじもじさせながら、本当に困ったような顔をし始めたので会話を始める事にした。


「俺は…、えっと…、その…。」


自分の名前を言おうとした瞬間にハッと気付いた。


名前が思い出せない。


それどころじゃない、自分が今までどうしていたのかさえ忘れている。


両親の名前すら出てこない。


明らかに何かまずい事が自分に起きているこの状況を察して、血の気が引いていくのを感じていた。


どうしちゃったんだ、俺。


「名前、忘れちゃったんですか?」


その女性は心配そうな顔をして、下から上目遣いにこちらの顔を覗き込んでくる。


「ああ…、多分そうみたいなんだ。原因も不明で、さっきまで何をしていたかすら…、覚えていない。」


不安に襲われ、動揺を隠しきれそうになかった。


「ええ!?一大事じゃないですか!!じゃあ、名前が無いというのも呼ぶときに不便なので一時的に私が名前を授けて差し上げましょう!」


初対面の人間にする行為としては余りにも常軌を逸しているが、彼女の言い分にも一理ある。


「悪いな、そうしてくれ。」


自分がどう呼ばれようと一向に構わないので、彼女に従う事にした。


少しでも気を紛らわせる為にも、彼女の話に乗っかる方が賢明だろう。


「じゃあ…、そうですね…。あ、これなんてどうでしょう!『エイミー』。とっても可愛い名前でしょう?」


彼女に名前を呼ばれると、何処となく落ち着く感じがする。


これは彼女の修道女のような格好に影響されているのだろうか。


「エイミー、エイミーか。何か聞き馴染みがあるな。気に入ったからそれで頼むよ。」


「本当ですか?嬉しいですぅ。私もぱっと頭に浮かんできただけなんですけど、気に入ってくれたのなら何よりです。」


嬉しそうに小さく両手でガッツポーズをして、小躍りをしていた。


この時、絶対に俺を陥れようとして声をかけたという訳では無い事は確信した。


「俺も、君の名前…知らない。」


俺も何となくだが、彼女の名前を聞いておきたくなった。


「私ですかぁ?私の名前は『ヴィーナス』ですよ!聖母という意味を関する慈悲深い名前なのですぅ。この名前をくれた両親や神々に感謝してもしきれないですね。」


よくそんな大々的な名前を子供につけられたな、という野暮な発想は押し殺しておこうと思った。


というのも、彼女はその名前にふさわしいと言わざるを得ないくらいの天真爛漫なオーラが溢れ出ていたからだ。


「ヴィーナスか、やけに覚えやすい名前だな。」


「一回教えたのですから、忘れちゃ『めっ!』ですよ?」


彼女はビシッと、手を前方に突き伸ばして、人差し指を上に突き立てた。


ここまであざといと、何かを企んでいるんじゃないかと逆に不安になってくる。


根本的な部分から、そういう性格なのかもしれない。


天真爛漫ってすげーな、損しかしなさそうで。


「はいはい、分かったよ。そもそもヴィーナスなんて名前、一生忘れる事が出来なさそうだしな。」


彼女の気迫は、俺の答え全てをイエスに変えてしまいそうだ。


末恐ろしいやつめ…。


「絶対に約束ですよぉ。エイミーちゃんにはちゃんとママの名前を覚えてもらわないと!」


「もしも忘れたら俺はどうなっちゃうんだ?」


ひょっとすると彼女にも裏の顔があって、俺は何処かに連れ去られてしまうんじゃ…。


「もし忘れたら?うーん、どうしましょう。無理やりエイミーちゃんを膝枕して、頭良い子良い子しちゃうかもしれません、ふふ。」


はは、そんな事だろうと思った。


しかし、それは果たして罰になっているのだろうか?


彼女は柔らかそうな太腿をしているので、とても良い枕になりそうだ。


しかも、女の子の匂いとお日様を浴びた衣服の匂いが入り混じって、先程からとても絶妙な匂いが鼻を通り過ぎて行くので、心地良さも満点だろう。


更に彼女にずっと見つめられながら、ゆっくり出来るというのはこれ以上も無いくらいの…って、いかんいかん。


顔がにやけそうになったところで我に返って、顔を振るって気を取り戻した。


「分かった、分かったよ。それにしても、ママって…、恥ずかしいから出来ればやめて欲しいんだが。」


自分が何歳か正確には分からないが、恐らく成人に近い身体なのは間違いないので、俺のこの反応も多分、的を外してはいないだろう。


「名付け親だから当然の事ですぅ。今から私の事、ママって呼んでくれても良いんですよ?私の愛しのエイミーちゃん?」


明らかに俺の反応を楽しんでいるであろう悪戯っ子のような表情に、ただたじろぐしかなかった。


「頼むから勘弁してくれ…。」


自分では分からないが、恐らく俺の顔は赤みを帯びて、人前では晒せない状態になっているだろう。


穴があったらそこに全力でダイブして、モグラの如く掘り進めていたに違いない。


行き交う通行人を尻目にして、恥ずかしい気持ちに耐えながらヴィーナスに懇願した。


グ〜ギュルギュル。


すると、急に俺のお腹の中からとても間抜けな音が聞こえてきた。


「あっ…。」


思わず、小声が漏れる。


「あれれ、お腹空いちゃったんですかぁ?」


「あ、あぁ。そうみたいなんだ、どうやら今までの俺が何をしていたかは分からないが、無一文らしくて…。」


最初は心配そうな顔をして此方を見つめていた癖に、俺の状況を知るや否や、にやりと顔が笑っているのが直ぐに分かった。


しかも、その顔の綻びを止めようとして頬が引きつっているので、まあ何とも分かり易い修道女様なんだろう。


「エイミーちゃんはしょうがない子ですね…、分かりました。態度と言葉次第によっては、私がご飯をごちそうしてあげなくもないですけどぉ?」


彼女の身体は俺の身体と別の方向を向いているが、時々、目だけを此方に向けたりして目配りをしていた。


この女の子、自分の可愛さに関しては全く自覚が無さそうで、それが困ったところである。


自分がかなり空腹な状態である事に気付くと同時に、少しフラッと足元がおぼついた。


恐らく、平衡感覚を失いそうなくらいの時間、ご飯を食べていなかったのだろう。


一体、俺は何処で何をしていたのだろうか。


こうなってしまうと、背に腹は変えられないというやつで、必死に彼女にお願いするしか無いのだろう。


「あの…、ヴィーナスさん。もし良かったら、ご飯を私にご馳走してくれないでしょうか?」


恐る恐る、といった感じで下げた顔を上げるとヴィーナスは相変わらず、にまにましていた。


「ん〜?ばぶちゃんは分かり易いように喋ってくれないと、言葉が伝わりませんねぇ。」


ぐぬぬ…。


この女、性格が良いのか悪いのか分かりづらいが、よほどお母さん扱いされたいという事だけは理解できる。


しょうがないけど、やるしかないらしい。


生唾を飲み込み、決意を固めた。


「ヴィーナス…いや、ママ!ご飯をご馳走してください。その…、良い子にしますから!」


出来るだけ、周りに聞こえないくらいの大きな声で、ヴィーナスの前で頭をもう一度下げた。


彼女の思い描く、模範解答に限りなく近い形の言葉を模索した結果、とても一般的な成人男性とは思えない言葉が出てきた。


でも、ヴィーナスとママって意味被ってるんじゃね?


とかいう、細かい事は気にする余裕も無く、ただ己の恥ずかしさと闘っていた。


「まあまあ、まぁまぁ!あらあら、うふふ。」


顔を伺うようにして下から覗き込むと、有り得ないくらい頬を赤らめて、顔から吹き出しそうな蒸気を抑え込むようにして両手を頬に当て、身体をねじらせていた。


何ともまあ、ヴィーナスという名前が台無しな事よ。


俺も悔しいくらい恥ずかしい思いをして発言をしたので、耳まで顔が熱かった。


そんなに嬉しかったか…、この悪魔め。


「で、どうなんだ。」


とても居辛いこの空間をどうにかすべく、俺は勇敢にも切り出した。


「勿論、良いですよぉ。」


さも当然かの如く、速攻で返事が返ってきた。


「本当か!?」


俺は嬉しさで声が上擦ってしまったが、無理もない。


もうお腹が減って、倒れてしまいそうなのだ。


「あ、でもエイミーちゃんにわざわざお願いされなくても、無理矢理にでも連れて行きましたけどね!」


この野郎、と思いつつも感謝の気持ちの方が圧倒的に大きいので、特に先程から居座り続ける恥ずかしさ以外の感情は無かった。


「困っている人は放っておけませんから、ふふ。」


俺の方に顔を向けて、ヴィーナスは微笑んでいた。


純真無垢という言葉が、これ以上に当てはまるものは無いだろうと確信できるほどの笑顔だった。


余りにも善良市民の度を超えているその言葉は、俺の恥ずかしさなんて忘れさせるほどに輝いていて、清々しかった。


しかし、初対面で得体の知れない赤の他人に良くここまで親切にできるな。


俺も何か彼女に恩返ししないとな…。


そう思いつつ、感謝の意を伝える事にした。


「まあ、ありがとな。ちょっとの間だけど、宜しく頼むわ。」


俺は握手をするようにして、右手を差し出した。


「勿論ですぅ、エイミーちゃんは不安なオーラがぷんぷんしますからね。私がちゃ〜んと、面倒みてあげますよ!」


ヴィーナスは両手を使って、俺の右手を包み込んでくれた。


とても温かく、体全体が包まれているかのような充足感に満たされる。


彼女らしかった。


そして手を離す瞬間、俺は右手に忍ばせていた毛虫を彼女の手の中に残してきた。


先程ヴィーナスに頭を下げた時に、上手く地面から拾い上げた代物だ。


俺はニコニコしながら、彼女がどういう反応をするのか心待ちにしていた。


「ん…?どうかされたんですかぁ、ぇ…。」


恐らく、自分の手の中の感触に気付いたであろう様子で、恐る恐るヴィーナスは手を開いた。


「ふぎゃあ!何ですかこれぇ!エイミーちゃんの仕業ですか!?」


笑顔が一瞬で吹き飛び、手をぶんぶんと振りながら俺を睨みつけてきた。


「女神様なんだから、虫に酷い事するなよ?」


俺は腹を抱えながら、笑ってしまうのを抑え込んで彼女に物申す。


「絶対許さないですっ!絶対、絶対に許さないですぅ!」


ヴィーナスは、ぽかぽかと両手で俺の胸板を叩いてきた。


「悪かった、悪かったって。」


その姿がとても微笑ましいので、しばらく観察する事にした。


彼女の百点満点のリアクションに、俺も大満足だった。

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