第40話 楽園 ―Miniature garden―
日曜日の昼下がりは快晴だった。
ユイこと
いま歩いているのは、家族連れやお年寄りが散歩している遊歩道。青々と茂った木々の匂いを鼻腔で感じ、彼女は「気持ちいいですねー」と隣を行く少年へ微笑みかけた。
「そ、そうだね。し、自然の中にいると心が開放的な気分になって、リラックスできるんだってレイが言ってたな」
「自然いっても、人工的な再現された林ですけどね。でも、わたし、好きです、これ」
今日は安息日で授業も訓練もない。昨日レイにユイの様子を見に行ってくれと頼まれていたカナタは、ユイを誘って出掛けることにしたのだ。
戦いから離れて落ち着ける場所を考えた結果、『自然公園』での散歩をカナタは選択したが――どうやら正解だったようだ。
「ぼ、僕も好きだよ、この場所。昔、母さんが連れて行ってくれたんだ。こ、この森林で放し飼いにされてる虫とかを取って観察したり、標本作りの体験をしたり……も、もう少し先に行った所の池で釣りしたり。い、色々できるんだよ」
ミンミンゼミとアブラゼミの喧しい協奏をBGMに、カナタは思い出を語った。
その話に幼い頃の自身を重ねているのか、ユイは足を止め、どこか遠い目を近くの樹に向けていた。
長く伸ばした艶やかな青髪を指先でくるくると弄りながら、彼女は呟く。
「中国のジオフロントにも、樹、たくさん生えていました。虫も、魚も、多くいました。でも……ある日、いなくなったんです」
「い、いなくなった?」
オウム返しに訊いてくるカナタを正視し、ユイは頷いた。
硬くざらついた声色で告げられた彼女が見た事実に、カナタは息を呑む。
「草、花、樹、鳥、虫、魚、小動物。それらがある日、一斉に死にました。理由は分かっていません。ただ事実として、ヒト以外の命、死んで、ジオフロントの緑、消えたんです」
原因不明の生命の死。生き物の匂いが消えて機械とヒトだけが残された灰色の都市。
日本のジオフロントにはそのような情報は全くもたらされておらず、カナタだけでなく誰もが知らないことだった。
「な、なんで……その情報が、僕らに伝わってこなかったの……?」
「
思わず感情を昂ぶらせてしまったユイは一言カナタに謝ってから、日本語で彼の問いに答えた。
ユイが誰かにこのことを話したのは初めてだった。中国政府から口外を厳禁されているのだから当然だったが――しかし、どうしても伝えずにはいられなかった。
中国のジオフロントは日に日に弱っていっている。生命が絶え、残った作物の種も育つことはない。生きるのに必要な最低限の栄養素を、大して美味くもないサプリメントやペースト状の食べ物で補っているだけだ。
食が衰えれば人の力も衰える。貧乏人は食事を変えずに餓死し、金持ちは食料を巡って争い、外敵を他所に内部でいがみ合う有様だ。追い詰められて殺人を犯し、その死体の肉を食らう者も出てきている。
そんな地獄から抜け出してきたユイからしたら、『新東京市』はまさに楽園だった。
「『レジスタンス』の中国支部、何度も調査しましたが、ダメでした。でも……わたし、確信しています。あれは【異形】がやったことだと。月居カグヤ、言いました――都市に知性ある【異形】、潜んでるかもしれないと。きっと祖国の命、侵入した【異形】に滅ぼされたんです」
病魔のごとく蔓延し、人に気取られることなく生命を奪う存在はそれしか考えられないとユイは言った。
カナタは鋭く息を吸い込み、顔を俯ける。
『見えざる者』。光の靄のように漂い、人に危害を加えない存在。彼らが北京ジオフロントから生命を刈り取った張本人だったとしたら――この都市も、いずれ同じ運命を辿ることになる。
命を奪う。命が持つ力を「奪う」。【異形】から力を奪取するカナタの異能のルーツはそこにあったのだろうか。
「【異形】、複数の種類を持つことが分かりました。一つ、従来型のもの。知性なきモンスター。二つ、新型。知性あるもの。そして三つ、潜むもの。奴ら、人の領域に忍び込んで悪事働く。わたしの祖国に被害をもたらしたの、きっと奴らです」
ヒトの感覚では認識さえできない【異形】が存在する可能性がある、とユイは付け加えた。
今ももしかしたらここに――固く握った拳を力任せに近くの樹の幹に叩きつけ、青髪の少女は歯ぎしりする。
「奴ら、卑怯。自分たちは姿を隠して、人を見ている。人の住むところ、少しずつ、悪意で締め付けてる。『真綿で首を絞める』、ように……」
覚えたばかりの日本語表現で敵の姿を口にしていくユイ。
瞳に
いや、理由は分かりきっている。
月居カナタという人間が、過去に【異形】に取り憑かれた存在だったから。一つになれば、一人でも寂しくない――見えざる者のその言葉通り、カナタが幼少期を振り返って孤独感がそこまでなかったと思えるのは、覚えてはいないが【異形】と親しくしていたからに違いない。
「……っ」
【異形】は人類の敵。それを忘れたわけではない。
だが、カナタはユイが見えざる【異形】を卑怯だと断じた時、自分自身が責められたかのように胸に痛みを感じてしまった。
昨夜、彼は【異形】と過ごした日の朧げな思い出を夢に見た。閉ざされた部屋の中で共に児童書を読み、歌を歌い、ピアノを弾いた「彼」の美しい声は、今も鮮明に思い出せる。
「彼」はカナタの孤独を癒してくれた。カナタに絵や音楽を教えてくれた。カナタのどんな言葉も聞いてくれて、彼を認めてくれた。
母親に育児放棄されていてもカナタが酷く歪まなかったのは、心の中で支えてくれた「彼」の存在があったからこそだろう。
(彼が絶対な悪だとは思えなかった。彼は、僕の心を育ててくれた。感謝こそすれ、一方的に排除するべき対象に見るなんて――)
そこまで考えてカナタは頭を振った。
自分は【機動天使】のパイロットだ。パイロットに課せられた使命は、【異形】の脅威を打ち払って人類の栄光を取り戻すこと。【異形】は絶対に滅ぼさなくてはならない「悪」なのだ。
たとえ人と同じ言葉を操ろうと、人のように心があろうと、その使命という前提は崩してはならないはずだ。
だが――本当にそれでいいのか?
これまで『パイモン』や『フラウロス』は一方的に自身の主張をカナタたちにぶつけるだけだったが、逆にカナタたちの側から彼らへ言葉を送ったらどうなるだろう。
言葉が通じるなら意思を理解してもらうことも出来るかもしれない。
『見えざる者』がカナタと共に過ごしたように、人と【異形】が互いに争わず、共生していくような道はどこにもないのだろうか――?
「カナタ、さん?」
「あ……な、何でもないよ、ユイさん。す、少し考え事をしてただけで」
首を傾げて自分の顔を覗き込んでくるユイに、カナタは意識を現実に引き戻された。
答える彼に青髪の少女は「そうですか」と微笑み、その表情を崩さぬままに訊いてくる。
「その考え事、もしかして【異形】のことですか?」
彼女の質問にカナタはこくりと頷いた。
少年の瞳を射抜く少女は、開いた互いの距離を詰めるように一歩前に出る。
「ゆ、ユイさん? な、何を……」
「例えば、【異形】を卑怯言ったわたしの言葉、違和感を覚えたとか。そうなのでしょう、カナタさん?」
ドンッ――ユイは少年の背後の樹に手をついて、彼の退路を塞いだ。
樹木と少女との間に挟まれたカナタは生唾を呑む。何故分かった、と彼が軽く目を見張る中、ユイは乾いた笑声を小さく漏らした。
「分かりやすい人。そんな人が【異形】と関わっていたなんて、信じたくなかった」
彼女はすぐに笑みを収め、鈍い光を宿した瞳でカナタを睥睨する。
少年が反駁しようとするのに先回りして、ユイはその根拠を並べ立てた。
「違和感、あの試合の時からありました。新型の情報、わたしも来日前から貰っていました。その資料、記されていた『パイモン』の魔法……あなたは、同じ魔法を使った。これまで人に確認されなかった、【異形】だけの魔法を」
ユイの瞳からは彼女らしい温かさが失われ、ただ【異形】へ注ぐ憎しみだけがあった。
カナタは動けない。逃げることも、反論することもできず、彼女の主張を聞くしかなかった。
「あなたの【イェーガー】、【異形】を食らったと聞きました。わたしは信じられなかった。SAMが獣のように敵を食らうなど……あの顎を『捕食』に用いるなんて、想像もできなかった。それは誇り高き戦士の姿ではありません。獲物を蹂躙し、食らうなど……【異形】と同じです」
「ぼっ……ぼ、僕が【イェーガー】で【異形】を食ったことは、僕と【異形】との繋がりには関係ない」
仲間に疑いの目を向けられている。憎悪を湛えた眼差しに刺されるカナタは、恐れと焦燥の中で必死に言葉を絞り出した。
「詭弁です。では、何故あなたには【異形】の魔法が使えるのですか? 【異形】との関係がなければ、そんなもの、人が会得できるわけがないでしょう」
詰問してくるユイの視線から逃れるように、カナタは顔を俯けた。
世界から音が消える。ユイと二人きりになった空間で、逃げ場もなく、少年は立ち尽くす。
カナタと【異形】との関係を認めたら、ユイとの関係は修復不可能なまでに崩れるだろう。それほど彼女の【異形】への憎しみは深い。故郷から命を奪い、仲間やSAMをも損なわせた【異形】は絶対の悪だという彼女の考えは、何があろうと覆るものではないものだ。
「ぱ、『パイモン』の魔法を見よう見まねで再現しようとしたら、成功したんだ。そ、そのために君に誤解を与えたのなら、謝るよ」
まっすぐ相手を見つめ、真剣な声音で事情を語る。
もちろんこれは嘘だ。ユイの反論を封じるための、彼女に否定しきれない答弁。
その嘘に信憑性を負荷するのは、月居カナタというパイロットの才能だ。まだ短い付き合いではあるが、ユイもカナタの実力については十分に知らしめられている。
「……そう、ですか。わたしの考えすぎだったようですね。すみません、カナタさん」
カナタの背中は汗でぐっしょり濡れていた。
嘘を吐くことが酷く苦手な少年の、初めての「本気の嘘」。
いずれ真実が知られれば崩壊する関係を、ちぎれそうな綱で繋ぎ留めているだけに過ぎないとは、彼も理解している。
それでも得た仲間が離れていくのが怖くて、そうやって誤魔化した。訪れる崩壊の時を少しでも遠ざけるために、死に際の患者に医師が延命処置を施すように、嘘という
「あ、このポーズ、『壁ドン』っていうんですよね。この前、クラスの女の子に教えてもらったんです」
「そ、そうなるのかな。な、なんだかドキドキしちゃうね……?」
本当は別の意味でドキドキさせられたのだがそれは言わずに、カナタは長めの前髪の下に目を隠す。
通りがかった中学生たちが二人を見てヒューヒューと冷やかしてようやく、ユイはカナタから少し距離を取った。
「あの子たち、わたしたちをカップルだと勘違いしたみたいですね」
「あ、えっと……そ、そうみたいだね」
上手い返しが言えないカナタにユイはくすりと笑う。
実際のカップルではないからいいものの、「彼女に話しかけられてそんなぼんやりした返事じゃダメですよ」と言わんばかりに。
余計なお世話だい、と内心で口を尖らせるカナタは、早足に先へ進んでいった。
「ちょっと、いきなり先行かないでくださいよー」
「い、いいじゃないか、別に。ぼ、僕らずっとここにいるし、そろそろ違うところも見たいと思って」
「もしかして、照れちゃったんですか? わたしが『カップル』とか言ったから、急に意識しちゃったり――」
「し、してないよ! ゆ、ユイさんまで僕をからかうのは止めてくれるかな。僕をからかっていいのはミユキさんだけなんだから」
「ミユキさんって、あの眼鏡で背の高い? んー、もしかしてカナタさん、ミユキさんのことが好きなんですか?」
「そ、そんなわけないよ! だ、誰があんな胡散臭い勘違い美人……」
「じゃあ本命は誰なんでしょう? マナカさんか、ユキエさん、カオルさん……大穴でレイさんとか?」
おちょくってくるユイに彼にしては珍しく声を荒げるカナタ。
ミユキについて言ったのが良くなかったのか、ユイはそこに食いついて恋バナを展開していく。
クラスメイトのめぼしい女の子たちの名前を挙げていくユイは、どこで覚えたのか大穴なんて単語を使ってレイの名を出した。
「ま、まぁ、マナカさんやレイは好きだけど……と、というか何で僕の好きな人知りたいの?」
「んー、ちょっとした興味? 人間観察、わたし好きなんですよ。何しろ、観察するもの、人か【異形】の二択だったもので」
マナカの言う通り恋愛方面には全くアンテナを張らない人だ――と内心で分析しつつ、ユイは適当に答えた。
だが、あながち間違いでもない。長期任務中は娯楽に興じる余裕もなく、本当にそれくらいしかすることがなかったのだ。
【異形】という単語が話に上がってまた深刻な顔になるカナタ。彼の肩をポンと叩いたユイは、白い歯を覗かせて笑ってみせた。
「『新東京市』、人類に残された数少ない楽園です。そこにいる間、笑っていましょう。わたし、カナタさんの笑った顔、もっと見たいです」
「ゆ、ユイ、さん……」
自分は彼女に嘘を吐いている。それを知らずに彼女は屈託のない笑みを浮かべてくれている。そのことに、やはり罪悪感が湧き上がった。
――自分が嫌いになりそうだ。
もう何度思ったか知れない自己嫌悪を押し隠し、カナタはユイに微笑み返した。
「き、きっと、ここは……母さんの、大人たちの望んだ楽園なんだ」
たとえその平和がまやかしであったとしても、ここにある命は輝いている。
人も、鳥も、虫も、動物も、木々も――皆、息づいている。
それこそが希望なのだ。地上の住処を失った人類に残された、復活の道の礎。
大人たちが残した平和という遺産を「嘘」の産物であるとは、もう、一蹴できない。
カナタは真実を明かさないカグヤを責めた。だが今、ユイがこの地下都市を楽園と呼び、彼自身が本気の「嘘」を初めて吐いたことで気づきを得た。
嘘は誰かを傷つけるためだけのものだとカナタは思い込んでいた。
だが、違うのだ。何かを守るための嘘もある。それが自己か他者かの違いはあれど、大切なものを保護するための、優しく身勝手な嘘もある。
それも知らずにカナタは母親に対し感情的になってしまった。本当なら彼女にもっと耳を傾け、その真意を探るべきだったのに。
「ゆ、ユイさん……ちょ、ちょっと気が早いけど、この後どうする? えっ映画館とかカラオケとか、珍しいのだと水族館とかも都市にはあるんだけど……ど、どこ行きたい?」
「んー、今からだと水族館、全部回りきれないかもしれませんね。門限もありますし、映画でも見てお開きにしますか」
「お、OK。じゃ、じゃあ公園一通り回ったら、そこ行こうね」
訊ねてくるカナタに少し考えてからユイは答える。
あなたがそのつもりでなくても、わたしはデートだと思って楽しませてもらいます――と内心で言いながら、ユイは鼻歌を口ずさみつつ、カナタの手を引いて歩き出すのだった。
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