第8話 覚醒 ―I don't want you to die.―
牙と牙の間に涎を醜く引き、開かれる怪物のあぎと。
西洋の伝承にあるグリフォンの如く翼を生やした犬の怪物は、眼前の獲物へと吼え猛った。
「さ、早乙女、くん……!?」
このまま南へ後退していっても、いずれは障害物に当たって退路を失う。いや、それ以前にSAMを動かす魔力が足りなくなる。SAMには魔力不足時に備えて内部電源が埋め込まれているが、外部からケーブルを繋いで送電しなければすぐにそれも底を尽きてしまう。
余裕は、微塵もない。
補給は望めず、長期戦は不可能だ。ならば、一撃で決めるしかないわけだが――そのための武器となる魔法を、カナタは使えない。
そんな状況にも拘らず、指揮官を買って出たレイは何も答えてくれなかった。
「こ、答えてよ早乙女くんっ!? き、君は僕なんかよりずっと強い人間、そうでしょ!?」
『つ、月居、くん――』
喉で声がつかえてしまうのが、レイにはもどかしくて仕方がなかった。同時に、それが過去の記憶から来る恐怖に起因するものだということも彼は分かっている。
トラウマは克服したはずだった。
目の前で仲間や最愛の姉を失い、自分一人だけ生き残ってしまったあの日からずっと、『異形』への恐れを超克しようともがいてきた。
今のレイは『異形』を前にしても怯まない心を手に入れた。現に、昨日の『第二の世界』での訓練でもロノウェを彼は単騎で撃破している。
だが――グラシャ=ラボラスだけは、例外だったのだ。
写真や絵だったら見ても吐き気や動悸がしないようにはなった。それでも、現実と何ら変わらない仮想空間で対面してしまえば、最悪の記憶が蘇って彼を責める。
――置いて、いかないで。独りで、死なせないで……。
最後の姉の言葉。自分へ伸ばされていた、瓦礫の下から救いを求めようとしていた手。
自分が生き残るためには、姉の願いを裏切るしかなかった。姉への愛情も仲間との友情も全て捨てて、早乙女・アレックス・レイという人間は生き延びた。
唯一の生存者として逃げ帰ったレイを、『レジスタンス』のドイツ支部は責めなかった。まだ13歳の訓練生が無事に帰還し、『異形』のデータをSAMのレコーダーに映像として残していた――それだけでも十分よくやったのだと、ドイツの人々は彼を称えた。
しかし、その賞賛はレイの罪の意識をより掻き立てるだけであり、彼はそれから逃れるために自分を知る者のいない土地への留学を志すようになった。
『……っ、残弾数は?』
「も、もう半分を切ってるよ」
『目を潰す狙いは間違ってないですが、グラシャ=ラボラスにおいては意味をなしません。あれは魔力で肉体の一部を「硬質化」することで、兵器の尽くを無効にします』
魔法技術の発展していなかった三年前のドイツでは、そのために多くの兵が攻撃すら通せずに死んでいった。
誰よりも早く「勝てない」と諦めたレイだけが、逃げる最中に倒壊する建物に巻き込まれた同輩を見捨てたレイだけが、最後まで死ななかった。
『あいつの背中の翼は、周囲の自然から魔力を吸収する器官です。動植物や大気、日光、鉱物、水分……多寡はあれど、万物はみなその内に魔力を有している。グラシャ=ラボラスについては特に、それを環境から取り込むことを得手としているのです』
あの怪物について最も知っているのは、レイだ。
あの怪物への恐怖を克服したいと最も強く願ったのは、レイだ。
そして、今――カナタと共に生きて勝ちたいと思っているのは、紛れもないレイ自身だ。
自分だけでなく、今度は隣で戦う仲間も守りたい。
もう、レイは逃げたくなかった。自分に運命を託した仲間を、裏切りたくなどなかった。
『君の声で、目が覚めました。さあ――横に跳んで!』
「りょっ、了解!」
有翼の黒犬は充血した両眼を二機へ釘付けにし、決して逃すまいと捕捉している。
この怪物は異常なほど執念深いのだ。一度獲物と認識した者を追い続け、捕らえたら即座にその爪牙で殺害する。『異形』全体に共通することだが、彼らは捕食行為を行わず「殺人」を目的として行動しているのだ。主に自然から得る魔力をエネルギー源とする彼らが、何故「殺人」を行うのか……それは依然、判明していない。
『まずは
スピードを落とさず強引にハンドルを切り、方向転換した二人。
甲高いスリップ音を立てながら二手に分かれた獲物に対し、グラシャ=ラボラスは最初に自分にダメージを与えたカナタのほうを追っていった。
「じゃ、弱点っ……!? まっまさか、ささ、さっきみたいな状況を――?」
『察しが良くて助かります。普通に追うだけではらちがあかないと奴に思わせ、「透明化」を使わせる。君は姿を消した奴の位置を予測し、ボクに伝えるだけでいい。あとはボクが魔法を撃ち込みます』
「透明化」して獲物に忍び寄り、引き裂く――姿がそこに見えた時には既に奴の殺しは終わっている。この力のためにドイツ軍の初動は大幅に遅れ、壊滅的な被害を受けたのだ。
だが先ほどカナタが殺気に気づき、「透明化」して接近してくるグラシャ=ラボラスを撃った時はダメージを与えられた。つまり、あの『異形』は「透明化」と「硬質化」による防御を両立できない。
「でっ、でもっ……そんなこと……」
『出来ないとは言わせませんよ』
有無を言わせぬレイの言葉に、カナタは生唾を飲んだ。
トップスピードを出してもなお、彼我の距離は開いていない。先にスタミナが切れるのは、おそらくこちらだ。
(考えろ、考えろ、考えろッ!)
足を止めたら終わり。その終わりが訪れる前に敵の「透明化」を誘導する一手とは、何なのか。
カナタは持てる知識を総動員して思考を巡らせる。
血走った黒い眼差し、獲物の居所を決して逃さぬ耳と鼻、剣のごとき鋭利で長大な牙、顎の隙間から踊る舌、地面を削って火花を散らす爪。
敵へ付け入る隙をどこに見出すか。銃剣一つで、どう攻撃するのか。
(銃弾も刃も通らない。僕にあるのは、この【イェーガー】本体だけ――)
そうだ、とカナタは思い至った。
自分には【イェーガー】という立派な武器がある。そして敵には敏感である故に弱点となりうる器官が備わっている。
現在のカナタのSAMとのシンクロ率は九割に迫ろうとしている。鼓動は荒れ狂い、呼吸が乱れ、脚の筋肉が悲鳴を上げている中――それでも、勝つために彼は痛みを厭わなかった。
「ぐっ……ああああああああああッッ!!?」
走りながら左腕に斬り付けた刃。
振り落とした刃で自身の左腕を切断したカナタは、激痛に叫びながらもその断面から漏れ出る血液を背後の怪物へと振りまいた。
「
『――――――――!?』
「魔力液」が放つ酸性の強烈な刺激臭――人間の整備士でも専用のマスクがなければ作業にならないほどの異臭を、鋭敏な嗅覚を持つ犬の悪魔が嗅いでしまえばどうなるか。答えは、明白だった。
声にならない悲鳴がグラシャ=ラボラスの口から漏れ出る。
悶え、走る足を止めた犬の怪物。
カナタはその様子を背面カメラから届けられる映像で確認しつつ、焼けるような痛みに痙攣する腕を押さえ、掠れた声を吐いた。
「まっ、まだ……戦わ、なきゃ……!」
『月居くん、止まらないで! 動力を内部電源装置に切り替えなさい!』
「わ、わかってる……! か、勝たなきゃ、でしょ……!?」
レイはカナタの安全を案じることなく、冷徹に指示を下す。
夥しい魔力消費による頭痛、動悸、吐き気に身体を動かすこともままならないカナタだったが――震える指先でどうにかコンソールを操作し、動力を『コア』から内部電源装置に変更した。
モニターに表示される機動制限時間は、三分。
これだけあれば戦える――頭ではそう思っていても、しかし、身体はついて来てくれない。
目が眩む。胃から何かがこみ上げてくる。寒気が全身を駆け巡り、心を蝕む。
「う、ぐっ……おえっ……」
『月居くん!? チッ……腕を切ったことで失った魔力を、『コア』が強引に埋め合わせようとして――』
残り二分四十秒。
レイの舌打ちももはや聞こえず、カナタは口元の汚物を『アーマメントスーツ』の袖で拭い取り、身を乗り出してコンソールにへばり付く。
身体が戦いを拒んでも、カナタの戦意は衰えてはいなかった。
――逃げちゃダメよ。
母親の言葉が少年を戦場に縛り付ける。
彼の母・カグヤは常に『異形』のことだけを考えていた。彼女は研究室や『レジスタンス』本部にこもりきりで、カナタの世話などしてくれなかった。
父の顔を知らない少年は、研究所の一角にある閉ざされた一室で育った。学校でも、研究所に帰っても、彼はずっと独りだった。
そんな少年と母親を繋ぐ唯一のもの――それこそが、月居ソウイチロウ博士の遺した【超兵装機構/SAM】であった。
(母さん、見てて。僕は母さんの期待に応えてみせる。母さんに認めてもらえるような、強いパイロットになってみせるから)
貪欲な承認欲求が少年を駆り立てる。
怪物から距離を取ったのも一転、踵を返して敵へと突撃していく。
『あの馬鹿ッ……まさか、自爆する気じゃ!?』
敵を倒す。そうすれば母親が自分を見てくれる。褒めてくれる。
そのためならこの身体を犠牲にしても構わないのだと、少年は何の疑いもなくそう思っていた。
焦燥を孕んだレイの声にも耳を貸さず、敵しか見えていないカナタは逆手に持った銃剣の切っ先を自身の胸に向ける。
『やめなさい月居くん! たった一機が自爆したところで、「硬質化」されれば防ぎ切られるだけです! 月居くんっ、月居くん! 止まりなさい、
――弱い奴は嫌いです。しかし……その弱い奴を見捨てて逃げる奴は、もっと嫌いです!
飛び出したレイは魔力を燃やして加速、グラシャ=ラボラスの翼を照準して銃撃を放った。
怪物の注意をカナタから逸らした上で、彼の自爆も阻止する。レイにはそれが出来る。出来なければ、ならないのだ。
『こちらを向きなさいグラシャ=ラボラス! ボクは早乙女・アレックス・レイ――かつてあなたから逃げ、無様にも生き延びたたった一人の兵士です!』
再戦を。決着を。
少年の名乗りという雄叫びに、有翼の黒犬はその喉を震わせた。
そして次には、怪物は唸りながらその翼を赤々と発光させ、飛び立った。
前足を大きく振りかぶり、同色の魔力光を帯びる爪で空を引き裂く。
『ようやく本気を出しましたね! 望むところ!』
円弧を描く斬撃は、実体ある刃と化してレイへと降り注ぐ。
足元を執拗に狙ってくる連撃を巧みな操縦で躱すレイだが、それもギリギリだ。
爪の斬撃が掠り、左脚の脛の装甲が一つ弾け飛ぶ。たかが一度と侮るなかれ――その衝撃は機体を揺るがし、金髪の少年の最高のパフォーマンスを阻害した。
『月居くん! 今の君は満足に戦える状況にありません、下がってください! あの怪物はボク一人で倒します! もとよりボクは、あいつを倒すためにSAMパイロットになったのですから!』
「い、いや、だ……ぼっ僕だって、戦う……」
『何を馬鹿なことを言っているのですか!? 君はもうまともに動けないんですよ!』
一度のミスは微かな動きの乱れを生み、連鎖的に次なる失敗を呼び寄せてしまう。
右足に、腹に、肩に、肘に。度重なるダメージに機体が軋み、レイ自身も痛みに襲われ続けるが、それでも彼は【イェーガー】のあぎとだけは守り抜いていた。
カナタにこれ以上の負担はかけられない。レイが単騎で戦い、魔法でグラシャ=ラボラスを撃ち抜くほかに手段はない。
『あぁ……なかなか、やりますね。ボクが魔力を消耗していなかったとしても……きつかったかも、しれません』
初めて覗かせた弱気に、レイはそれを口にしてしまった自分に呆れたように乾いた笑みを漏らす。
魔法の発動まであと五秒。
それまでに機体が持ち、かつ敵の防御をレイの風が吹き飛ばせられれば、勝ちだ。
「早乙女くんッ……!」
あと四秒。
少年の名を仲間が呼ぶ。
「グルオオオオオオッ!」
あと三秒。
黒翼の犬の悪魔が咆哮する。
『姉さんの仇……ここで討ちます!』
あと二秒。
少年は瞳を閉じ、亡き姉へ誓いを捧げる。
『――――ふぅッ!!』
あと一秒。
少年は瞼を引きちぎり、直上にある怪物の腹を睨み据える。
『【テンペスト・アロー】!!』
圧縮空気が弾ける音とともに、風の矢が打ち上がった。
以前に見せた竜巻ではなく、その範囲を狭めたぶん一点にかかる風圧を極限まで増大させた一撃。
『異形』の「硬質化」した腹部が赤い魔力光を瞬かせ、レイの風が貫かんとした点を中心に波紋を描いていく。
『貫けぇえええええええええッッ!!』
髪を振り乱し、喉を枯らし、少年は吼え猛った。
魔力と魔力の激突。ピキリ、とひび割れるのは「硬質化」した『異形』の肌だ。
だがその音が聞こえたのは、荒れ狂うレイの突風の勢いが削がれたことの証左であって――。
『…………そんな』
それ以上、削れない。
勢いを殺された風はあまりに無力。その現実を直視できずに俯くレイは、約束を守れない絶望に打ちひしがれるしかなかった。
『ボクのこれまでの訓練は、無駄だったのですか……? ボクは結局、こいつを殺せないのですか……? ボクは、姉さんたちをいつまで裏切り続けることになるのですか……!?』
敗北が導く結末は――姉たちと同じ、死だ。
黒翼の『異形』はレイの【イェーガー】のもとに降り立ち、顎を開いて動かなくなったその機体のうなじへとかぶりつこうとする。
そう――同じだ。あの戦場でも、兵たちは皆こうして喰われたのだ。
『嗚呼……姉さん、エッボ、ディルク、ローベルト、マルガ。ごめんなさい、ごめんなさい、仇を討てなくて……』
少年の頬が涙に濡れる。もはや抵抗することも叶わず、彼はかつての仲間のところへ逝こうとしていた。
そのとき聞こえたのは、彼を迎える姉や友の声ではなく。
「うああああああああああああああああああああああああああッッ――――!?」
銀髪の少年の、狂乱した叫びであった。
レイの機体を組み敷くグラシャ=ラボラスの首根っこに食らいつく、カナタの【イェーガー】の顎。
突如飛びついてきた邪魔者に対し『異形』は激しく首を振って払い除けようとしたが、少年はテコでも離れなかった。
彼にはもう、魔力もないはずなのに。内部電源も残り一分を切っているはずなのに。どこにそこまで食い下がれる力があるというのか、レイには想像すらつかなかった。
『月居、カナタくん……君は、一体――!?』
食らう。喰らう。
【イェーガー】の牙が怪物の「硬質化」した皮膚をも突き破り、『異形』に共通する緑色の血液を吸い上げていく。
バキリ、と怪物の頸椎がへし折れる音が鳴った。潰れた悲鳴が吐き散らされ、喰いちぎられた
その光景が見えなかったのはレイにとって幸いだったかもしれない。
SAMが『異形』を喰らう、それだけでも前代未聞だというのに――肉を引き裂き、臓器を、脳を抉り出して喰らう姿は、レイが憎んでやまない『異形』と何ら変わらなかったのだから。
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