第9話 母と息子 ―The taste of the candy can't be shared.―
また、知らない天井がカナタを見下ろしていた。
学校の保健室、ではない。そこよりも更に広く、それでいてベッドは一つしかない個室。
南の窓から届く日差しの眩しさに、思わず顔を背ける。
「……ぼ、僕に、何が……?」
カナタの記憶は混濁していた。
無断で「VRダイブ室」に立ち入り、『第二の世界』で自主練習を行った後、現れた早乙女・アレックス・レイと決闘した。それから、イレギュラー的に襲来した『異形』・グラシャ=ラボラスとの戦闘になったのだが……その戦闘の記憶が、途中からないのだ。
最後に思い出せるのは、レイの【テンペスト・アロー】が敵の魔力と激突する光景。
その時、カナタの魔力と体力は大幅に消耗した状態だった。意識を保つことも困難な状況が、記憶の欠落を招いてしまったのか。
「うっ……痛い……」
ずきん、と痛んだ前頭部を押さえようとした彼の手に、黒いコードが触れた。
(違う。何か、思い出せない何かが……僕に、起こったんだ)
この病室がその証拠だ。ベッド脇に設置された装置と、そこから頭部へと繋がる電極が紛れもない「異常」の証明だ。
小さめのテレビのようなモニターに表示されている波線は、カナタの脳が活発に働き出したことを淡々と示している。
と、そこで、答えを求めるカナタの意を汲んだようにドアが開いた。
「やあ、月居カナタくん。昨夜は大変だったな」
無精ひげをさすりながら入室してきた矢神キョウジは、溜め息を吐いて室内を一瞥する。
いつも吸っているタバコがその手にないだけでなく、彼の頬には殴られたかのような跡があった。
「どうした? 俺の顔に何かついてるか?」
「いっ、いえ……なな、なんでも、ないです」
「言いたいことははっきり言ったほうが良いと思うぞー。その時の感情も、その時の言葉も、後になったら忘れてるかもしれないからな」
白衣の袖を捲くり、部屋の隅からパイプ椅子を持ち出してきたキョウジはカナタのベッドの側に座る。
その時、露出した担任の腕に見えたのは――赤く腫れた
ペットの犬猫に噛まれたわけではないだろう。弓なりに並んだ歯型は、どう見ても人のものだ。
「あー……問題児が大暴れしちまってね」
外ポケットから取り出した缶ジュースをカナタの手に押し付け、キョウジは苦笑いする。
よく冷えたオレンジのフレーバーを味わってから、それで喉を潤わせたカナタは担任へ訊ねた。
「あ、あの……ぼっ、僕に何があったんですか? た、ただ倒れたにしては、大袈裟すぎる措置ですよね。そ、それに、早乙女くんは?」
「まず一つ目の質問に答えよう。……君のSAMに異常動作が見られた。具体的に言うと魔力・電力ともに底をついた状態で稼働を続けた上に、『異形』を喰らったんだよ。爪を真紅に輝かせ、『異形』の肉体を引き裂いた側から消し炭にしながらな」
切羽詰まった顔で問いかけてくるカナタに、キョウジはその答えを咀嚼する時間を与えた。
『レジスタンス』本部が望める窓へ視線を移し、目を細める。
「ど、どういう、ことですか……? いい『異形』を喰らったとか、どっ動力もないのに動いたとか、意味が分かりませんよ。そそそれに、僕は、爪に纏わせる類の魔法なんて使ったこともないのに……」
「さぁな、俺にもよく分からん。最初は『第二の世界』がエラーを起こしたのかと思った。だが君たち二人をログアウトさせた後、君だけが我を失ったかのように暴れ出してね。頬の傷も腕の噛み跡も、君を押さえつけた代償ってわけだ」
困惑を通り越して混乱してしまうカナタは、疼く頭を抱えて俯いた。
それでも声を絞り出して、彼は共闘したクラスメイトを案じる。
「さ、早乙女くんは……? かっ彼は、ぶ、無事なんですか」
「心配は要らない。まるで獣のように暴れた君を、この俺が頑張って抑えたからな。彼の心身は異常なし、今日も元気に授業を受けているそうだ」
まるで獣、というキョウジの例えは妙にカナタの胸に引っかかった。
ロノウェとの戦いで意識を失ったのと今回の件では、わけが違う。戦闘中のイレギュラーな行動、戦闘後の狂乱状態、記憶の欠落――自分の知らない何かが、カナタの中で起こったのだ。
「君の身体にも、特に異常は見られなかったそうだ。まぁ念のため様子見ということで、今日の夕方まではここにいてもらうことになるが……構わないな?」
「え、ええ。で、でも……」
「でも、何だ?」
「きっ、昨日のこともありますし、ぼぼ僕が、みっ皆の前から逃げたって、お思われるのが、こ、怖くて……」
周囲の人からどう見られるのか気にしてしまう少年に、キョウジはぼりぼりと頭を掻く。
思春期の男の子にはそれも大きな問題なのかもしれない――と、三十路過ぎの男は心中で呟いた。
「やむを得ぬ事情があって君はここにいる。それは逃げたことにはならないさ。むしろ、強くなるために『第二の世界』で訓練し、『異形』まで倒したんだから逃げとは正反対じゃないか。……ま、気楽に生きりゃいいさ」
席を立ち、去り際にキョウジは教え子の手に棒つきのキャンディーを握らせた。
「人付き合いは少し舐めてかかるくらいが丁度いいんだ」
それだけ言い残して退室していく担任の背中を、飴の包み紙を剥がしながらカナタは見送る。
口の中に淡く満たされたのは、
*
「あーもう、どうしてカナタくんに会わせてもらえないの!? 昨日のホームルームの後も顔合わせてくれなかったし、何か知ってそうな早乙女くんは何も言わないし……私たちどうすりゃいいのーっ!?」
瀬那マナカは学園の附属病院の待合室に続く廊下を歩きながら、苛立ちを隠そうともせずに叫んだ。
心配のあまり周りが見えていない彼女に、付き添いでやって来たシバマルは耳打ちする。
「おい、ここ病院だぞ。白い目で見られてる」
「そ、それはそうだけど……うぅ~っ」
普段注意する側のマナカは、その立場が逆転している現状に肩を落とした。
カナタのために出来ることが何も見つからないのも、その焦燥に拍車をかけている。
胸元の薄紅のリボンを指先で繰り返し弄る彼女の視線の先に、ふと、銀色の髪の毛が過ぎった。
「カナタくんっ――」
では、なかった。
腰まで流れた艶やかな銀髪に、染み一つない白衣。受付の職員と話している横顔はカナタと瓜二つだが、白衣の下から主張している胸部が彼とは別人であることを語っていた。白いハンドバッグに刺繍されているのは、不死鳥を象った『レジスタンス』のロゴだ。
月居カグヤ――『レジスタンス』の最高司令にして、カナタの母親だ。
「行かなきゃ」
「っ、おい! 走るなって」
カグヤ女史のもとへ駆け寄っていくマナカの後に、シバマルも早歩きで追随する。
カウンターの帳簿に何やら書き込んでいたカグヤは、慌ただしい足音の主に冷ややかな視線を向けた。
「学園の生徒……何の用かしら?」
「わ、私、瀬那マナカといいます! 瀬那マサオミ文部科学相の娘で、カナタくんの同級生です」
大臣の名前を出され、カグヤは僅かに目を細めた。
マナカは170センチを超える背丈の相手に見下ろされても臆さず、自分の要望を口にする。
「あの、司令はカナタくんに会いに来たんですよね? 私も彼に会いたくて……でも、面会を拒否されてしまって。差し出がましいのは承知の上ですが、ご一緒させていただけないでしょうか?」
「……あの子がそれを望むかしら。瀬那さん、お父様の指示でカナタに近づこうというなら、おやめなさい。私の息子は政略的な道具ではありません」
明確に敵意を孕んだカグヤの瞳に、マナカは声を詰まらせた。
大臣の娘という肩書きは、『新東京市』という狭い世界では大きな意味を持つ。学園の外に出れば、もうマナカは一人の少女ではいられないのだ。
警戒や疑念の感情を持たれても、仕方がない。
「違います。私は、カナタくんの友達で――『契約者』です。あの入学式の日に、『
偽らざる真意を言葉にして、伝える。相手の目をまっすぐ見つめて、真摯に。
腕組みしつつ黙考していたカグヤだったが、少しの間を置いてから「いいわ」と呟いた。
「契約の場にあの池を選ぶセンス、気に入ったわ。そこの坊やも、一緒にどうぞ」
*
キョウジの退室からほどなくして誰かがドアをノックして、カナタはびくんと肩を震わせた。
「入るわよ」と告げるその声に、少年の身体は硬直する。
(母さん? どうして、母さんが……)
動揺する少年の心の準備も待たずに、彼の母親は扉を開けた。
二十代後半と言っても通用するほどの若々しい美貌を誇る月居カグヤは、入学式の前日以来に顔を合わせる息子へ微笑みかけた。
「せ、瀬那さん……!? それに、犬塚くんまで……!?」
「カナタくん――身体は、大丈夫なの?」
マナカとシバマルの同伴を許すとは、どういう風の吹き回しなのか――とカナタは内心で母親を訝しむ。
(どうせ合うなら二人きりが良かった。母さんは、僕を特別に思ってくれているはずなのに……どうして、部外者を立ち会わせようとするんだ)
幼い独占欲から来る少年の厭うような目に、マナカは駆け寄ろうとした足を止めた。
「か、カナタくん……? どうしたの?」
「え、えっと……こ、この飴、あんま美味しくなくて……」
「あら、じゃあ私が貰うわね」
誤魔化すカナタに対し、ベッドに腰を下ろしたカグヤは息子の顎に手を添え、もう片方の手で彼の口から飴の棒を引き抜いた。
つぅ、と引いた少年の唾液ごと、ちろりと覗いた舌が妖しく舐める。
「少し酸っぱいわね。カナタにはもっと甘いのが良かったかしら」
「……べ、べ、別に、にっ苦手なわけじゃ……」
「相変わらず、嘘が下手な子。嘘っていうのはね、バレないように吐くものなのよ」
息子の口から母の口へ。何の躊躇いもなくそうしたカグヤに、マナカとシバマルは呆気にとられた。
少年は俯き、母からも友人からも目を逸らす。
どこか見ている方向がズレている母子だと、マナカは思わずにはいられなかった。
「私の可愛いカナタ……ね、顔を上げて頂戴? 私のことを見て?」
母の指先が息子の顎をくいと押し上げ、否応なしにカナタはカグヤと目を合わせる。
だが無遠慮に心を覗き込もうとしてくるコバルトブルーの瞳に、彼はすぐに長い睫毛を伏せてしまった。
「シャイな子ね。ま、いいわ……私たちの期待通り、あなたが『覚醒』してくれたのだから。よくやったわ、カナタ」
――「覚醒」。それが、カナタの身に起こった異常を指す言葉……?
状況を把握できていないマナカたちが置いてきぼりになっている中、カナタは悟った。
カナタが熱を出しても怪我をしても見舞いに来もしなかったカグヤがここに足を運んだ理由は、つまるところ、そこにあるのだろう。
(母さんは僕のことなんて見てくれない。見てるのは……僕に目覚めた『力』だけなんだ)
カナタにはそう思えてならない。母親から愛情を注いでもらうことを期待するだけで辛くなるのは、きっとそのせいなのだ。
(だから――言いたいことは、言えない)
本当に伝えたい思いを少年は胸の奥底に押し隠す。
それでも母とのコミュニケーションは途絶えさせたくなくて、少年は質問を送った。
「か、母さん……かかかっ『覚醒』って、何なの? やっ矢神先生は何も知らないみたいだったけど、か、母さんは何か知ってるの?」
「あなたに教えられることはないわ。今はまだ、詳細は調査中よ」
同じ問いを繰り返す気力は、カナタにはなかった。
自分に異常が起こったことは当然、怖い。だが、それは事実として受け止めなければならなかった。
「……では、私はもう行くわ。あなたの無事が確認できて良かった」
『レジスタンス』の長として多忙なカグヤが長くここにいてくれるとは、カナタも期待していない。
それでも、もう少しだけ――側にいてほしかった。
しかし、伸ばそうとした手は母の手にそっと押し返されてしまう。
「か、かあ、さん……」
「じゃあね、カナタ。あなたたち、面会時間は二十分と決まってるから、その点よろしくね」
白衣を翻して退出していくカグヤ女史は、すれ違いざまにマナカだけを鋭い視線で射抜いた。
それはまるで、好きな男を取られまいとする女の嫉妬のようで、正直マナカはぞっとした。
シバマルは立ち尽くすマナカの肩を軽く押し、先ほどキョウジが座っていたパイプ椅子へと掛けるよう促す。
「『レジスタンス』の最高司令長官……クールビューティーって聞いてたけど、思ったより分かんない感じの人だな」
所感を率直に口にするシバマルに、「うーん」とマナカは言葉を濁した。
どうにも煮え切らない思いの少女と、俯いて唇を引き結ぶカナタを交互に見た茶髪の少年は、二人の沈黙を吹き飛ばそうと咳払いする。
「ご、ごほん。あー、辛気臭い顔はやめにしようぜ、なっ? マナっちも、ツッキーに提案があるんだろ?」
白い八重歯を見せて笑うシバマルのおかげで、二人の表情の陰りは少しながら払拭された。
首を傾げるカナタの手をマナカは握り、頬を淡く染めながら言った。
「ねえ、カナタくん。今度のGW(ゴールデンウィーク)、皆で遊園地に行かない? たまには息抜きも必要だと思うし、えっと……私個人としても、君と行きたいっていうか、その……」
上目遣いでカナタを見つめたと思えば、さらに顔を紅潮させて視線をさまよわせるマナカ。
今にも爆発してしまうのではないかと思えるほど顔を真っ赤にしている彼女に、カナタは慣れない笑顔を精一杯浮かべてみせた。
「う、うん。い、一緒に、行こっ?」
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