第2話 未来への契約 ―A boy meets a girl.―

『新東京市』。それが、【異形】に地上の住処を奪われた日本人の新たな住まいの名だ。

 神奈川西部・丹沢山地にてかねてより人口増に備えて建造されていた、巨大地下都市である。

 面積は東京二十三区とほぼ同程度で、政府や『レジスタンス』本部、『SAMパイロット養成学園』等の主要施設が一点に集約されている。

 人口は約五百万人。これは生き残った日本人のほぼ総数である。では残る数少ない人員はどこにいるのかというと、北海道、長野、埼玉にある『地下プラント』――食料生産のための巨大地下空間――である。そこで作られた食物が輸送艦により『新東京市』に送られることで、日本人たちは日々命を繋ぐことができているのだ。


 新暦20年4月5日――この日は学園の入学式が行われる、レジスタンスの兵士を志す若者たちにとっての始まりの日だ。

 だがそんな晴れの日にも拘らず、月居つきおりカナタは憂鬱であった。


「さっきの凄かったなー」

「流石は月居司令の息子ね」

「やっぱエリートは違うな、どんな教育受けてんだろ」

「ってか俺、司令に息子がいたの初めて知ったわ」

「あ、それな」

「噂によると、月居カナタってずっと引きこもりだったらしいよ」

「えっマジ? やばっ」


 入学式を終え、教師の誘導で寮へ向かう最中、露骨に注がれる好奇の視線。

 俯いて歩くカナタは耳に白いヘッドホンを当て、周囲の音を拒絶しようとしていた。

 SAMの外に出れば、そこは人の世界だ。それは承知の上で、覚悟も決めたはずだったが――どうしても、足が竦んでしまう。


「っ……」

「おい、気をつけろよ」


 突然止まったカナタの背中に、後ろから来た生徒がぶつかった。

 それでも少年は動けない。彼は振り向くのも怖かった。人の敵意や悪意に、触れたくなかった。


「おい、聞いてんのか? そんなの付けて歩いてるからぶつかるんだよ!」


 どっ、と音の濁流が少年の耳に流れ込む。

 ヘッドホンを奪われた――そう気づいて取り返そうと、カナタは振り返って手を伸ばした。

 しかし自分よりかなり大柄な男子生徒が相手では、届くはずもなかった。


「かっ……か、かっ返し、て……!」

「何だよ、聞こえねぇなあエリート様よぉ」


 僻みからくる悪意は、少年の声を聞き入れない。

 彼らが足を止めたために移動の流れが滞り、周囲の注目がさらに集まる中、泣き出したい気持ちを堪えてカナタはもう一度訴えようとするが――その時。

 一人の少女が人垣を割って飛び出し、叫んだ。


「ちょっと、返してあげてよ! それはあなたのものじゃないでしょ!?」


 赤みがかった茶色のショートヘアをした小柄な女子が、不良っぽい男子をも恐れずに言っていた。

 男子生徒は苛立ちも隠さずに目の前の女子を睨むが、周囲のざわめきがますます広がっているのを察してヘッドホンを放り捨てる。

 早足に去っていく不良を尻目にヘッドホンを拾い上げた少女は、立ち尽くすカナタの手を取ると彼を引っ張って歩き出した。


「さ、行きましょ」

「ど、どこ、に……?」


 周囲の生徒たちの中には、スマホでこの一件を撮影している者もいた。教師たちが「止まらず進みなさい」と彼らを促すのを背後に、少女はカナタを連れてその場を抜け出す。

 スタジアムから寮へ続く道路を外れていく二人を教師たちは何故だか咎めない。カナタはそれを怪訝に思いつつも、初対面の少女に手を握られているという状況に混乱するしかなかった。


『新東京市』は円形の都市であり、中央には『レジスタンス』の本部が鎮座している。

 北区画には政府や警察などの施設や商業施設が密集し、西区画、東区画は住宅地となっている。そして学園の関連施設や『レジスタンス』の訓練所があるのが、南区画だ。

 かつての公立高校と同程度の規模の校舎に、男女別の学生寮、実機訓練で使われるスタジアム、体育館、図書館、プール……なるべく『異形』襲来以前の学生生活と同じものを送れるようにと、政府が工面してこの学園は作られていた。

 

「この南区角を学生のための場所にしようって決めたのが、私のお父さんなの」


 人気の少ない歩道を進みながら、少女は語った。

 人工太陽による夕陽に彩られる彼女の横顔は、誇らしげに輝いている。


「私、瀬那せなマナカっていうの。よろしくね、月居くん」


 マナカと名乗った少女は一度立ち止まり、カナタの手を握ったまま身体を向き合わせた。

 柔和な笑み。カナタが嫌い、避けてきた「黒い感情」を、彼女は抱いていなかった。


「あ……えと……よ、よろ、しく」


「うん、よろしく! ねえ月居くん、私ね、君に見せたい場所があるの。たぶん君が知らないところだよ」

 

 たどたどしい少年の挨拶にも、マナカは快活に応える。

 言葉に詰まって俯くカナタの様子に、マナカは彼へヘッドホンを差し出して言った。


「ごめんね、返すの忘れてた! 君の大切なものなのに……本当にごめん!」


「い、いい、よ。こっ、ここは、静かだし……き、君は、怖く、ない、から……」


 マナカからヘッドホンを受け取ったカナタは、それをそっと胸に抱きとめる。

 不思議だった。彼は他人と接することが何よりも怖かったはずなのに、この少女に対してはそうではなかった。

 手を引かれて道路を西に進んでいく最中、カナタは少女の名前を口の中で転がす。 

 自然と馴染んでくる温かい響きを帯びた名前に、少年は微かに口元を緩めた。



 歩いた距離も時間も、そこまで長くはなかった。

『新東京市』の南区角の西側に位置する、湖というには小さい溜め池。そのほとりに置かれた、屋根付きの休憩所がマナカの目的地であった。

 色あせたベンチから臨めるのは夕焼けを映して紅潮する水面と、それを囲う背の高い草や木々だ。

 水面を移ろう落ち葉を目で追いながら、マナカは隣に掛けるカナタへ訊く。


「ここ、知らなかったでしょ?」


「……う、うん……」


「ここはね、SAM兵士たちの墓場なの」


 カナタは耳を疑った。どう見たってここは、墓標も何もないただの溜め池としか思えない。

 そんな少年の反応は想定済みといった風に、マナカは立ち上がって池の対岸を指差す。

 彼女が指さす先には、草に遮られて見えづらいが石碑のような黒い石が確かにあった。


「外での戦いに敗れた兵士たちが、家族の側で眠れるように。遺族の方にはそう言ってるけど、そんなの綺麗事で……実際は墓地を作る場所もお金も惜しいから、亡骸をここに捨ててるだけなの」


 もちろん地上に墓地を設ける選択肢もないわけではないが、跋扈している『異形』対策の費用も人員も政府が捻出する余裕はない。

 これまでに散っていった『レジスタンス』の兵たちの骨が、ここに沈んでいる――そう考えても、カナタは恐ろしさを感じなかった。

 彼らは言葉を発さない。ただ、遺志があるだけ。


「ねえ、月居くん。身勝手なのは承知なんだけど、私、君に頼みたいことがあるの」


 少年の青い瞳に映る少女の表情は、痛いほど真摯だった。

 胸に手を当て、祈るように――瀬那マナカは、月居カナタへ告げる。


「私はね、この世界を変えたいの。生きている人も、死んでしまった人の魂も、安らげる場所を作りたい。そのためには、『異形』を地上から駆逐しないといけない。何年かかるか分からない、もしかしたら私たちが生きてる間には果たせないことかもしれない……けど、私は、絶対に皆が笑顔で暮らせる世界を掴みたいの」


 鳥籠の中でのうのうと生きられるほど、瀬那マナカという少女は無知ではなかった。

 政治家である父親を側で見てきた彼女は、この世界の未来に暗雲が立ち込めていることを理解している。『レジスタンス』の兵士は度重なる『異形』との戦いで年々減る一方で、結果を出せない『レジスタンス』に政府が資金援助を渋っていることも、彼女は知っている。


「誰かが目覚しい成果を挙げないと、『レジスタンス』は衰えていく一方。私たちには希望となる存在が――『英雄』が、必要なの。そしてその『英雄』は、月居くんこそ相応しいって、私は思う」


 父はSAM開発者である故人・月居ソウイチロウ博士、母は現『レジスタンス』最高司令である月居カグヤ。

 偉大な二人の間に生まれたサラブレッドであるカナタが『英雄』に指名されるのは、当然の帰結だろう。


「ぼ、僕は……っ」


 才能はある。だが、他には何もないのだ。月居カナタには意志がない。夢がない。

 母親の言葉という呪縛によって、逃げてきた世界に身を投じているに過ぎない。

 

「どうする、月居くん?」


 夕陽を背後に、マナカはカナタへ手を差し伸べる。死者の遺志を背負って少年に向き合う少女は、逡巡する彼の瞳をまっすぐな視線で射抜いていた。

 英雄という記号。人々に祭り上げられ、無責任な期待を押し付けられる存在。その座に着けば、あの母のようになってしまうのではないかとカナタは危惧する。

 希望の象徴として振舞う母親が、既に『希望』などというものを捨てていることを、カナタは知っている。

 

「……瀬那、さん。きっ、君は、この世界に、未来があるって……本当に、思うの?」


 英雄に未来はない。世界の人口の八割を死滅させた脅威に、人間が敵うわけがない。『レジスタンス』は形だけの「反抗」を演じ、人々にまやかしの希望を見せているだけだ。

 その希望を愚かにも信じ、一度大量の戦死者を出した『レジスタンス』をバッシングした人々がカナタは嫌いだ。トップの月居カグヤだけでなく、その息子であるカナタにもマスコミの魔の手は迫り、責任を負わない人々の悪意に彼は晒された。だからカナタは人を拒み、マナカのように他者を想えない。


「――あるよ。だって、私が切り開くもの。他の誰かが邪魔しても、私は屈しない」


 瀬那マナカは言い切った。その自信がどこから湧き出ているのか、カナタには判然としない。

 屋根に遮られて陽を浴びられないカナタの右隣にマナカは座り、それから彼へ肩を寄せた。 

 毅然と少年を見据える茶色の目。左腕でカナタの肩を抱き止め、空いた右手で自身の胸元のボタンを外す。

 少女が何をしようとしているのか悟った少年は、彼自身も思ってもみなかった力で彼女の腕を振り払い、突き飛ばした。


「痛っ!?」


「……やっ、やめて!!」


 ベンチの肘掛にぶつかって呻吟しんぎんするマナカに、カナタは初めて激しい感情を発露させた。

 少女から顔を背け、歯を食いしばる少年は、フラッシュバックした忌まわしい記憶を振り払わんと頭を振る。

 マナカに茫然とした顔で見つめられてようやく、自分の行動が冷静でなかったと気づき、カナタは悄然と項垂れた。


「……そ、そういうことは、よく、ない……から」


 絞り出すようにそれだけ言って、少年は立ち上がる。

 よろよろとこの場を去ろうとする彼へ咄嗟にマナカは声を投げかけ、引きとめようとした。


「待って! か、帰り道、分からないでしょ? 君、ずっと俯いてたし」


 確かにそうだった、と逃げ道がないことに気づくカナタ。

 マナカは足を止めた銀髪の少年との距離を保ちつつ、胸元を整えながらベンチを立った。


「私、大人たちの悪いところばっか見てきたから……ちょっと、感覚が麻痺してた。ありがとう、月居くん」

 

 少年の本意は別の方向にあったが、それを知らない少女は素直に礼を言う。

 返事に困ってとりあえず固い笑みを浮かべてみせるカナタに、マナカは「笑い慣れてないでしょ」と眉を下げた。


「……せ、瀬那さん。や、やるよ、僕」


「えっ?」


 素っ頓狂な声を出してしまうマナカを見つめる少年の瞳は、揺らがない。

 瀬那マナカという少女は、自分の身体を武器とするのが当たり前の世界に足を突っ込んでいた。それを知ってしまえば、カナタには彼女を捨て置けなかった。

 使命を遂げるためにはどんな人にだって縋り付き、手段さえ選びはしない――逃げてばかりのカナタとは真逆で、彼女は目的のためなら自分の尊厳をもなげうてる人間なのだ。

 それだけはさせられないとカナタは思う。性的に踏みにじられることの辛さを、彼は身をもって知っていたから。

 まっすぐな目で自分の意思を伝えてくる彼に、マナカは頷く。


「ありがとう、月居くん。私、君のブレーンになれるよう頑張るから。隣に居られるだけの強さを、この学園で身につけてみせるから」 

  

『レジスタンス』最高司令の息子と、文部科学大臣の娘。それぞれ抱えるものは違えど、世界を変えてしまえる可能性を秘めた二人。

 彼らの契約は、この『寂滅じゃくめつの池』にて結ばれたのだった。



 マナカの案内でカナタが学園寮に着いた頃には、日はすっかり沈んでしまっていた。

 着いたらまず寮母に勢いよく頭を下げたマナカに倣って、カナタもどもりつつ謝る。

 二人の親が親だったので年配の寮母は厳しく注意はしなかったが、それでも何度も頭を下げるマナカに「生真面目な子だねぇ」と苦笑した。


「さ、そろそろ夕食の時間だよ。ラストオーダーは九時だからね、うかうかして食べ損ねないように」


「はーい! じゃ、取り敢えず部屋に行こっか。荷物置いたらまた食堂で! あと部屋割は入学式で貰った小冊子に書かれてるから、それ見てね!」


 寮母さんの忠告に元気よく答えたマナカは、カナタにそう言い残して玄関脇の階段を上っていった。

 置いていかれてしまったみたいで一瞬寂しさを感じてしまうカナタだったが、それではダメだと肩掛け鞄をまさぐって例の小冊子を出す。

 自室の場所を探してすぐに見つけた彼は、自分と相部屋である生徒の名前を見て息を呑んだ。

 早乙女・アレックス・レイ――入学式のエキシビションマッチでの、カナタの対戦相手である。

 

(全く知らない人じゃなくて、よかった……)


 ヘッドホンを着け、頭に叩き込んだ寮内図を頼りに自室へと向かう。幸いにも人並み以上に記憶力と空間把握能力に秀でるカナタは、迷わず目的の場所へ辿りつけた。

 軽くノックして、ドアを開ける。


「おっ、おお邪魔しますっ……」

 

 恐る恐る扉の隙間から顔を覗かせた彼が目にしたのは――艶めく金髪を短めのポニーテールにした、小柄な美少女が椅子に掛けている姿だった。


「えっ……!? あ、あの、こっこの階、男子、寮じゃ……!?」


「はい? それはそうですが、あなたは何か勘違いしてませんか?」

 

 困惑するカナタに、眉をひそめるレイ。

 彼らの初の顔合わせは、何とも間の抜けた形で果たされたのだった。

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