第94話 風見潮の独白
俺、風見潮の人生観が形作られたのは、小学五年生の時。
ある日の夜。
自宅の玄関で父さんが上司と思われるオジサンの靴を、土下座して舐めていたのを目撃したのがきっかけだった。
――誠意を見せなさい。
――誠意ですか?
――そうだ。ほら、土下座してこれを舐めろ。
そんな会話が自室で学校の宿題をしていた俺に聞こえてきて、気になったのだ。
「部屋で勉強してなさい。大事な人と話があるから父さんがいいって言うまで絶対に部屋から出るなよ」という約束を破った。
片目で覗ける程度にトビラをこっそりと開け、目撃したのである。
そのオジサンが帰ったあと、父さんは「ふぅー」とため息をついてリビングへ戻っていった。
俺は混乱していた。
これで宿題に集中なんてできるか。
居ても立っても居られなくなった俺は、父さんのいるリビングへ向かった。
そして訊いたのだ。
「なあ父さん」
「ん? なんだ潮」
「さっきの、あれ。その、いつも会社でああいうことやってるの?」
刹那、父さんは目を剥いた。
「……父さん言ったよな。いいって言うまで部屋から出るなと」
「言ったけど、その、いろいろ聞こえてきて――」
俺は顔を上げた瞬間、全身が凍ったかのように固まった。
今まで見たことのない父さんの顔があった。
怒ってるとか、呆れてるとか、驚いてるとか、そういうありふれた感情で言い表せるような代物ではなかった。
得体の知れない黒々とした何かが俺の平常心を侵してきた。
どこでもいいから、ここじゃないどこかへ逃げ出したいと。
そう思案していると、父さんは存外やさしげに「潮、そこに座りなさい」
指さす先はソファー。
考えるのを止めた俺は言われたとおり、ソファーに腰を沈める。
隣には父さん。
「さっきのことと、それとこれから話すことは母さんと
こくこく。
素直にうなずく。
それでも不安だったのか、父さんは念を押す。
「もしこの約束も破ったら、俺はどうなるかわからんからな」
ごくり。
固唾を飲む。
ちなみに美波というのは俺の妹のことだ。
二つ年下の美波は今日は友達の家に泊まっているらしい。
母さんも今日は旧友とどこかへ出かけているので家にいない。
つまり今、家にいるのは俺と父さんのふたりだけ。
静かな空気の中、父さんは重々しく口を開く。
「父さんな、会社でもああいうこと、たまにやってる」
「そう……なの」
端的にいうと、ショックだった。
きっと何かの間違いだったとか、今日だけたまたまやったとか。
そんな淡い期待もあえなく散った。
とにかく俺は大人しく父さんの話に耳を傾けることにした。
「でもな。父さんは土下座して靴なめることを間違ってるとは思ってないんだ」
えっ?
心の中で俺は驚きの声をあげた。
実際に声に出すと父さんに何を言われてしまうのか、怖くて口に出せなかったのだ。
父さんは続ける。
「そうしないと、父さんお金をもらえなくなるからね」
「…………?」
「あー。まだ小学生の潮には難しい話だったな」
父さんはガリガリと頭をかく。
「つまりな、潮。父さんはあの人に嫌われちゃうと働けなくなってしまうんだ」
「なんで? なんで嫌われるだけで働けなくなっちゃうの?」
我慢できずに俺は疑問をぶつける。けれど、父さんは俺のことを咎めはしなかった。
「それが大人なんだ」
「それじゃあ意味わかんないよ」
「そのうち嫌でもわかるから。うん。潮、覚えときなさい。自分のやりたいことができるのはお金と権力を持ってる人だけってことを」
「だからそれじゃあよくわかんないんだって」
「うーん。たとえば学校にさ。クラスの人気者っていないか?」
「いるよー」
「それでさ。潮のクラスで運動会の種目決めをするってなったとき。潮は何がやりたい?」
「えーっと。五十メートル走!」
「潮は走るのが好きだしな。でもさ、もしクラスの人気者も五十メートル走がいいって言いだしてさ。多数決にしようってなったら、潮は選ばれると思うか?」
「選ばれなかった~」
「あっ、実際にそんな場面があったんだな」
「うん。やりたいやりたいって先生とかみんなに言っても、多数決で決まったことだからって言われてできなかった」
「そうか、それは残念だったな」
「うん」
父さんは慰めるかのような眼差しを向けてきた。そのおかげで少し気が楽になった。
けれどふたたび重い空気に戻った。
「つまりお金とか権力とか、まあたとえ話風に言うなら人気とか。そういうのがないヤツは自分の好きなことをできないんだよ」
「ふーん。じゃあさっきのオジサンは人気者なの?」
「んーまあそんな感じだ。だから父さんはやりたいようにできないんだ」
「だからその、あんなことするの?」
父さんの表情が若干くもる。
「そうだ。何も持たない人は人気者に気に入られなきゃいけないからね」
「そんなの……そんなのつまんないよ、ぜったい」
「つまらないよ。でもそうしなきゃいけないんだ。それが大人になるってこと」
「やっぱりわかんない。わかりたくないよ」
父さんの言ってることには漠然とした理解しかできていない。
けど、なんだかとても寂しくて辛い話なんだろうな、と思うと泣きそうな気分になった。
気が付くと、父さんは俺の頭をポンポンと撫でていた。
「潮は良くも悪くも普通の子だ。特別なんかじゃない。だからきっと父さんみたいになる時が来る。潮のことが大切だから言うけどな、世の中は空気を読んだ者勝ちなんだ。人気者に逆らおうとするな。本音はぜったいに出しちゃダメだ。いいな?」
「……わかんないよ、そんなの」
「潮……」
「心配しないで。今日のこと、母さんや美波には言わないから。それだけは安心して」
それだけ言い残し、俺は自室へこもった。
この時は父さんの言ってることなんて正しくないと思っていた。
でもその考えは意外とすぐに崩れ去った。
一週間後。
クラスでいじめ疑惑が話題に上がり、学級会が開かれることになった。
いじめられていたとされるのがクラスではいじられキャラで有名な男の子。片やいじめた側とされているのが、クラスの人気者を含む数名の男子グループ。
普段から筆箱の中身を盗まれたり、掃除用ロッカーに閉じ込められたりなど。
俺は以前からやりすぎなんじゃないかと思っていた。
それが今になっての暴発。
いじめられていた側が殴り掛かって反撃したことで今回の疑惑が発覚した。
男子グループは一貫して「あいつも笑っていた。ぜったいに面白がってた」と主張。
驚くべきは周りの反応。
クラスメイトのほとんどは男子グループの肩をもっていた。
先生も困惑し、「いつも面白がってたの?」と聞く始末。
するといじめられていた男の子は顔をしかめて、それから俺の方へ視線を寄こした。
「なあ風見! お前はよく近くで見てたからわかるよな? 俺、笑ってなんかいなかったよな?」
ぎょっとした。
教室中の視線の圧を感じる。
俺の返答次第ですべてが傾くのだろうと察する。
――笑ってなかった。あれはぜったいにいじめだった。
そう言うべきだと確信していた。
それでもなぜか口が動かなかった。
いや、理由はわかる。
父さんの言葉?
それもちがう。
父さんを言い訳に使っちゃいけない。
怖いのだ。
現在進行形で俺は集団に逆らうのが怖くなっている。これが空気を読むということなのかと、強く実感した。
父さんは間違ってなかった。
なら俺が言うべきことは本音なんかじゃなくて。
この場に最も適した、都合の良い言葉ということになる。
――笑ってました。俺もあれはいじめじゃないと思います。
それから先はあまり覚えていない。
その男の子は絶望的な表情をしていた気がするが、後日俺に向けられた男子グループの好意的な反応がすべてを塗りつぶした。
そうか。
これが大人になるってことなのかな。
男子グループ含め、周りの人間より一足先に大人を知れた感覚に酔いしれた俺。
同時に、集団からつまはじきにされたくないという恐怖に支配される俺。
たしかにつまらない。
こんな世界で自分なんて出せるわけない。
正しいのはいつも集団で、自分なんて何の影響力もない。現に不満を爆発させ集団にひとり立ち向かったその男の子はあれからハブられ、さらに陰湿ないじめをうけていたし。
逆に集団についた俺の方がそれなりに楽しくやれている。
こんなもんだよな。
その後、小学校、中学校と俺は空気を読んで平穏な学校生活を送っていた。
どうやら俺は空気を読み、場合に適した行動を取るのが、人より上手かったらしい。
それでも人間関係が完全にリセットされた高校に入ってからは、少しだけ自分をさらけ出していた。
そのころはいわゆる中二病で、ラノベの影響から『気の置けない友人が二、三人いればそれでいい』という考えに深く共感していたためだ。
その友人というのが梓伊月だった。
すいぶんとオタク話に付き合わせた自覚はある。
こいつがいれば空気なんて面倒くさいものを気にしないでもいいんじゃないかとさえ思ったほどである。
だがそんな希望も二年に進級してすぐに消える。
カースト制度だ。
人気――なんて曖昧なものではなく、ランクというレッテルが用意されたのだ。あのとき父さんが言っていた『権力』に近いかもしれない。
ランクが高いほど好待遇で、低ければ蔑視の対象。
これ以上ないぐらいわかりやすい正義じゃないか。
梓への裏切りは案外早かった。小学校、中学校を思い出したからだ。
梓をオタクだとかDランクだとか言って罵った。
空気読んで、媚び売って、愛想笑いを張り付けて。
そしてランクがCからBに上がった時、やはり俺は誰よりも大人をやれているという感覚に酔いしれた。
頑なに自分を貫き通す梓とはちがって俺は大人なんだ……。
あぁあいつはまだ子供なんだ、俺の方がすごいんだと……。
いいなぁ、子供でいられて。
カースト制度が始まってしばらくした時。
矛盾している気持ちを抱いた。
わけがわからない。
正しいのは俺であり、集団だろ?
なんで俺は自分を曲げようとしない梓に憧れているんだ。
梓はSランクの神楽坂をずっと好いていて、諦めていなかった。
梓には一体何が見えているんだ。
そう悩んでいる時、生徒会長の東雲からある依頼を受けたのだ。
「風見潮、だな」
「え、あ、はい。そうっすけど」
「梓伊月と交友関係があると聞いて来たんだが間違いないな」
「梓? まあちょっと話すくらいっすけど」
「ならいい。単刀直入に聞くが、梓伊月は神楽坂小夜と恋仲の関係にあるのか?」
一瞬、答えるのを憚られた。
勝手に言っていいものなのか。
少し悩んで、答えた。
「いや、恋仲ではないんじゃないっすかね?」
嘘はついていない。
それを聞いた東雲はだいたい理解したのか「そうか」と呟き、カバンから二枚のチケットを風見に手渡した。
「何すか、これ」
「二人分の夏祭りのチケットだ」
「はい?」
「これを梓に渡してほしい」
「なんで?」
俺が理由を聞くと、東雲はちょっと思考を巡らせてから語ってくれた。
どうやら梓と神楽坂の仲を引き裂くために必要な手順らしい。
神楽坂家の人間からの頼みらしく、その人が神楽坂さんに現実をわからせるためのきっかけがほしいのだと。
そのための日付が指定された夏祭りのチケット。
そこまで理解し、俺は東雲に言った。
「わかりました。これを梓に渡せばいいんですね」
「そうだ。もしお前が無事に渡すことができたなら、夏休み明けからお前を特別にAランクに引き上げてやる」
「マジっすか! ひゃっほー!!」
そして俺は夏休み前、梓に夏祭りのチケットを渡したのだ。
その時、ふたつの気持ちが入り混じっていたように思える。
ひとつは梓伊月に勝ちたいという気持ち。
自分の本音を貫くことをやめない梓よりも、空気を読んでうまく立ち回っていく大人な俺の方が優れていると。
もうひとつは――梓伊月に勝ってほしいという気持ち。
憧れていたのだ、あの時すでに。
大人になるにつれてつまらなくなるものだとてっきり思っていたのに、梓を見てるとそうじゃないんじゃないかと。
つまんなくないヤツもいるんじゃないかとそう期待していた。
そして梓は、乗り越えやがった。
夏休みが明けてからというものの。
梓と神楽坂さんとの距離があきらかに縮んでいた。
あいつらならマジでやってくれるかもしれねえ。
風見潮がもう二度と辿り着くことができない境地に。
体育祭ではあまり手を貸せなかった。
なんだかんだビビっちまってる俺がいたから。
けれどもう四の五の言ってる場合じゃない。
文化祭。本番直前。
変わるならこのタイミングしかない。ここを逃せば、俺は生涯ずっと後悔するだろうと直感した。
直感したときには、もう俺の口から怒号のような言葉が溢れ出ていた。
それは集団に対する怒りだけでなく、逃げっぱなしだった自分への叱咤でもあった。
「お前ら一回黙りやがれぇぇぇぇぇぇ!!!」
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