第93話 神楽坂小夜は激推しする

 龍我陽介から逃げのびる十数分前のこと。


 つまり梓くんが舞台裏を離れてすぐ。


 二年一組ではトラブルが起きていた。


「岡沢君が腹痛!?」


 劇のロミオ役である岡沢が原因不明の腹痛を訴え、トイレから出てこれないようだ。


 様子を見に行った男子生徒によると岡沢は劇に出るのは無理そうだと言っているらしい。


 あまりに苦痛そうなことから保健委員や先生も出動するほど。


 岡沢君の身体に問題があろうとなかろうと、劇に出演するのは難しいとの判断が下された。


 となると私たちがするべきことは――


・劇を中止にする。


・代役を立て、本番に臨む。


 このどちらかを選択しなければならなかった。


 一組は人数の関係上、もともと代役を用意していなかった。


 なので必然的に前者を選ぶことになるのだが。


「せっかくここまで頑張ってきたのに中止はヤダよ~」


 一部の女子生徒が言う。


 その反応は決して珍しいものではなく、おおよそ一組の総意だった。


 みんなが頭を悩ませる中、私は言い放った。


「代役の当てならあります」


 この場にいる全員がこちらを振り向く。


 目を丸くしているだけの者もいれば、「もしや」と怪訝そうな目線を寄こす者もいる。


 そうです。


 岡沢君には申し訳ないのですが、端から私はロミオ役にふさわしいのはだと思っていました。


 私は歩を進め、みんなの前に立つ。


「梓くんに頼みましょう」


 そんな私の宣言が静かに響き渡る。


 そしてまもなくざわめきに変わる。


 ひとりのクラスメイトが不満をぶつける。


「神楽坂さん、あの、お言葉ですがそれはあまりにも――」


「問題ありません! 彼は岡沢君と同様に立候補していました。ですので代役としては最も適任では?」


 有無を言わせない。


 反論がくるのはわかっていた。


 そんな反論をすべて律儀に聞いていたらきりがない。


 食い気味に私が言い返すと、別のクラスメイトが文句を吐く。


「前の話し合いでも言ったけどさ。梓ってDランクだよ? そんな下の人間に主役は任せられないって」


「そうだそうだ」


 容赦のない意見が飛び交う。


「ですから! DとかAとか関係ありません! 梓くんは梓くんです! いい加減カーストに気を取られるのはやめにしませんか!」


 焦りもあった。


 私はきつい口調で言い返してしまった。


 それが不満爆発の口火を切ってしまったのだろう。


「そりゃあんたはSランクだから余裕なんだろうけどさ……」


 ぼそっと。


 悪意に塗りつぶされたような言葉がこぼれる。


 もちろん神楽坂の耳にはっきり届いた。


 その瞬間、頭から足先までのすべてが冷えきる感覚を覚えた。


 悪口。不満。悪意。


 これらはどんな名言や励ましの言葉よりも広まりやすい。


 ぼそぼそと。


 ぜんぶを聞き取れるわけではないが。


 今おそらく、神楽坂に対する不平不満がこの場を渡り歩いていることだろう。


 クラスメイトが言った。


「調子に乗りすぎ」


 別のクラスメイトが言った。


「俺たちの気持ちをわかっちゃいない」


 初めての経験。


 何をするにも崇め奉られていたのが日常茶飯事だったのに。


 今や向けられているのは攻撃的な言葉のみ。


 たぶん普段だったらこんなことにはなっていなかった。


 悪口を共有できたから。


 赤信号もみんなで渡れば怖くない。


 この原理と同じようにいま、私への不平不満合戦が行われているのだろう。


 集団は怖い。一度化ければ容赦なく個人を叩きのめす。


 かくいう私も怖かったのだ。


 怖かったから今まで踏み出せなかった。


 でも踏み出した。


 梓くんを想えば自然と一歩踏み出せたんだ。


 梓くんがいれば何にも怖くないと思っていた。立ち向かえると、そう思っていた。


 けれど。


「神楽坂さんって梓伊月の何なの?」


 投げつけられる口撃。


 怖い。


 梓くんを想えば何でもできちゃうと思っていたのに。


 いざ立ち向かうとこんなに集団が怖いだなんて。


 やっぱり私は弱いままなのかな。


 梓くんの隣にふさわしくないのかな。


「…………」


 何も言えない。泣いちゃいそう。


 言い返せ。梓くんは素晴らしい人なんだと。


 頭では痛いほどわかっているのに、私の口が思うように動いてくれない。


 ただ震えるだけ。


 どうしたらいいの……。


 ただ下を向いて、唇を噛みしめる。拳を握りしめる。


 クラスメイトの追及が止まらない中――




「お前ら一回黙りやがれぇぇぇぇぇぇ!!!」




 ある男子生徒のつんざくような怒声が、悪い空気を豪快に切り裂いた。


 誰?


 私はおそるおそる顔を上げ、声の主を確認する。


「……風見君?」


 意外な人物に、私はそう呟くだけだった。

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