第36話 暗根彩海は刮目する

 桐谷がリモコンで部屋に明かりを点ける。彼女に続くように梓様と私は歩を進める。


 ここは、書斎、というと狭い部屋を想像するだろうから、図書室と言っておこうか。天井に取り付けられている照明がやんわりと部屋を照らしている。


 そのくらいの広さで周りに色んな本がびっしり収納されている。


 本が好きな小夜様は本に囲まれていると落ち着くという理由で、チェスはよくこの部屋で行われていた。


 小夜様は未だ自分の部屋に軟禁されているだろう。先ほど、梓様から謎の言伝を頼まれ、部屋に入りましたが、小夜様は大層心細いご様子だった。


 なんせ、自分が勝負を持ち掛けたのにもかかわらず、その勝負を見させてもらえないのだから。


「君が梓伊月君だな」


「はい、そうですが」


 今、梓様と桐谷が緊迫した面持ちで一つのチェス盤を挟んで相まみえている。


 私、暗根彩海は見届け人ということで、すぐ傍の椅子に座り傍観している。


 私はただ固唾を呑んで見守ることしかできなかった。


「噂通りのもやしだな貴様は。覇気を家に忘れてきたんじゃないか?」


「生憎、元々持ってないんで」


 ジンジンとした緊張感が漂っている。事情を聞いて梓様も多少なりは怒ってくれているのだろうか。


「あんな大口叩くからオーラが違うのかと期待していたが……実に残念だ」


「実際に戦ってみてから判断してみてはどうです?」


「貴様もあの小娘と同じか。内面とか中身とか、どいつもこいつも夢ばっか見やがって」


 もはや小夜様のことを小娘呼ばわり。敬意のけの字もありませんね。


 対して、梓様は確かに今から勝負する人にしては静かすぎる。ですがそれは弱腰とか控えめとかそういうのではなく、嵐の前の静けさという表現が似合っている。


 明らかにいつもと雰囲気が違う。


 お互いがコトンコトンと駒を並べ終わると、桐谷がシニカルな笑みのまま言った。


「大丈夫?ルールはママに教わってきたかい?」


「いえ。ただ、安い挑発には乗るなとは教えられましたが」


「……クソガキが」


「一つだけ注文いいですか?」


「ん?なんだ?急に腰が引けてきたのか?」


「いえ、あんまり時間かけたくないんで、一人の持ち時間を30分にしてくれませんか?」


 梓様がそう言うと、桐谷はハッと鼻で笑った。


「私はいいが、君は大丈夫なのか?ちょっと得意なのかもしれないが、私相手にその短さは無謀では?なんなら私の方は駒損で相手してもいいくらいだが?」


「まったくもって問題ありません。俺にとっては神楽坂と花火を見る時間が短くなる方が嫌ですので」


「まるでもう勝ったかのような言い草だな」


「もちろんそのつもりですので」


 両者睨み合って火花を散らしたところで、勝負が始まった。


 まずは梓様が白のポーンをE4(盤上のマスの名前)へ進める。


「へえ。最低限の定石は知っているんですね」


 それに対し桐谷は黒のポーンをE5へ運ぶ。


 チェスというのはお互いがいくつかの定石を知っていたら、ゲームの序盤は特に手が止まることなくスムーズに進むものだ。


 最初の十数手はお互い、ほぼノータイムで駒を縦横無尽に散らしていく。


 私もそこまでチェスは詳しくないが、梓様の迷いのない手つきを見ていると、相当な実力者なんじゃないかと思えてくる。


「どうやらただの出しゃばりではなかったようだな」


 桐谷も私と同じようなことを思ったのか、駒を動かす手に力が籠ってきている。


「そういえば桐谷さんってチェスの大会で昔優勝したことがあるんでしたっけ?」


「昔の話だがな。まあ、今でもそこらの素人に負けるほど腕は衰えてないだろう」


 盤上の駒はまだ一つも欠けていない。チェスの序盤は盤の中央を支配するのが肝要になってくる。


 それに倣うと、今不利なのは梓様のように見える。


 先ほどまでほぼノータイムで動かしていた手も、今はわずかだが考える時間が生まれている。


 さすが桐谷と言ったところか。人格はクズだが、実力は折り紙つきか。


 コトンコトンという音がこの静寂な部屋に鳴り響く。


「とりあえず攻めるか」


 梓様は不利な状況を覆すと言わんばかりに黒のナイトを落としていく。


 ゲームは中盤戦に突入したようだ。ここからおそらく駒の取り合いが激しくなるだろう。


 桐谷は余裕の笑みで負けじと反撃していく。


 チェス盤の横にあるチェスクロックは梓様の持ち時間の方が少ないことを告げている。


 だが、梓様がビショップを敵陣の深いところに忍び込ませると、初めて桐谷の手が止まった。1分2分と思考していく。


 小夜様とちょっと遊ぶ程度にしか嗜まない私にはこの後の展開なんか全くと言っていいほど予測できない。


 梓様の駒の数が少ないから何となく梓様が不利かと考えているが、もしかしたら桐谷の方が負けているのかもしれない。


 さらに1分ほど小考した後、桐谷はビショップを放置し、何でもないようなポーンを前進させる。


 梓様はその手が意外だったのか、一瞬怪しんだ素振りを見せたが、すぐに攻めを続ける。


 だが、それが桐谷の罠だったようで、彼女はニヤッと口角を上げ、黒のナイトを手に取る。


「ッッッ!?!?」


「クイーンとビショップのフォークだ。どうする?梓伊月」


 フォークとは二枚取りのことだ。つまり梓様がクイーンかビショップのどちらかを失うピンチに陥ったわけで。


 この二つの内、クイーンの方が圧倒的に価値が高いので、彼はクイーンを逃がすが、代わりにビショップを一個失ってしまった。


 これは私でもやばいと分かる。ビショップとは将棋で言う角と同じ動きができる駒で、攻めには重要な役割を果たすのだ。


 攻撃力を大きく損なった梓様はどういう顔をしているのだろうか。


 そう思い、私は彼の方を見るが、刹那、驚愕した。



 笑っていたのだ。



 いや、手で口元を隠しているので正確にはわからないが、目が明らかに笑っている。


「あんたは本物だ……俺が思いっきりやってもここでは自然でいられる……」


「何を気色の悪いことを言っているんだ。窮地で頭がおかしくなったか?」


「おかしい?あんたもこっち側の人間じゃないのか?」


 梓様は白のナイトで黒のナイトにけん制しながらクイーンに狙いを定める。


 当然、桐谷はクイーンを逃がす手をとるが、動かしてから彼女はしまったみたいな表情をした。


 それから数手後のこと、梓様は桐谷のナイトを犠牲なしで奪った。


 私は駒の意図を目で追うだけでも必死だったが、ふと気づかされた。


 桐谷はクイーンを逃がす手をとった瞬間にナイトを取られる展開になると読んでいたのだ。


 裏を返せば、あの時点で梓様はこうなることを予測していたということになる。


「……ガキが生意気な……」


「そりゃどうも」


「舐めるなっ!」


 桐谷は静かな怒りを込めた一手を放つ。それに梓様も冷静に対処していく。


 それから数手後のこと――時間にしてお互いの持ち時間が5分を切った頃。


 ゲームは終盤に入り、キングへのチェック(将棋で言う王手)の掛け合いが熾烈しれつになっている。


「さっきまでの勢いはどうした?逃げるばかりじゃないか」


「いやあ隙がないですね。こんなに頭の回る人初めて見ましたよ」


「その余裕じみた顔が敗北で歪んだときはさぞ滑稽だろうな」


「そんな目に遭えるならぜひ打ちのめしてもらいたいものですね」


 チっという舌打ちをして桐谷は梓様のクイーンを狙う。


 彼は小考した後、上手い手を指した。クイーンを逃がしつつ相手の駒を攻撃する手だ。


 どうやら桐谷にもこたえたらしく、今までで一番苦しそうに悩んでいる。


 持ち時間は互いに4分あるかないか。脳をフル回転させたであろう桐谷は重そうな手つきで駒を動かすが。


 クイーンがただ取りできる!?


 思わず口に出してしまいそうになったところをギリギリでこらえる。


 なんと桐谷は梓様が何の犠牲もなくクイーンを奪える位置に置いたのだ。


 これはチャンスだ!


 そう思ったのも束の間、さらに衝撃的なことが起こった。


 クイーンを取らない!?


 もう私には何が何だかわからなくなってきた。目の前で何が起きているのか。今のは桐谷が仕掛けた罠で梓様がそれを見破ったとか?


 あまりに異次元過ぎて、正直考えるのを放棄したくなる。


「はあ……もうこれで終わりですか……」


「何を言って……はっ……!?」


 気が付いたら桐谷が真っ青な顔をして硬直していた。


 まさか、梓様の勝ちが確定したのか?


 私は邪魔にならない程度にだが、思わず身を乗り上げ確認する。


 一見まだ勝負がついているようには見えないけど。


 桐谷の青い顔を見れば、多分詰みが見えているんだろうなと察しはつく。


「梓様っ!」


「ああ。これで神楽坂を迎えに行ける――」


 私たちがハイタッチして喜んだ瞬間の出来事だった。


 突然部屋の照明が落ちた。真っ暗になり何も見えない。カーテンが閉まっているので窓からの光も期待できないのだ。


「な、何が!?」



 ガタンッ!カランカラン!



 嫌な予感のする音がした。何かにぶつかった感覚は一切なかった。


 万が一がないよう、熊を見かけたときみたいにじっとしていると、再び明かりが点いた。


 盤上を見下ろすと、そこにチェスの駒たちがいなかった。床に散らばっていた。


「あらら。突然照明が落ちたかと思えば。暗根さんいけないじゃないですか、ぶつかってしまっては」


「はぁ!?私はぶつかってなんかいません……桐谷、とことん卑怯ですね」


「人聞きの悪いこと言わないでくれませんか?私がそんな下劣な手を取るとでも?」


「そう言ってるでしょ!」


「証拠はあるんですか?私がやったという証拠は?」


「…………クズめ」


 桐谷は悪辣に笑っている。


「まあ、あなたや梓伊月には致命的でしょうが、私にとってはチェスの駒がなくなるなんて些末さまつなアクシデントに過ぎないのですよ」


 彼女は不敵な笑みを浮かべて言葉を連ねる。



「ビショップF5」



 彼女は言った。それは彼女が次に指す一手のことで。つまりゲームを続行するという意思の表れだった。


「そんな…………梓様……」


 完全にしてやられた。いくら梓様が強いと言っても頭の中だけではできないだろう。なぜなら圧倒的な経験不足。


 小夜様によると、梓様はチェスを趣味で週1回やるかやらないかくらいだそうだ。


 頭の中に鮮明なチェス盤を思い浮かべ、それを動かすなんて普段の慣れがないと常人には不可能。


 万事休すか。不覚にも顔を伏せ負けを悟ってしまった。

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