第34話 神楽坂小夜は信じる

 暗根が梓くんに電話をかける1時間前のこと――


「ねえ、暗根。似合っているかしら?」


「はい。大変美しく見えます」


「う、美しいって大げさですよ……」


 私は淡い赤色ベースで所々に白い花が咲いている浴衣を身に纏い、夏祭りへ思いを馳せていた。


 今まで、夏祭りなんて行ったことがなかった。神楽坂家の方針で禁止されたことはなかったが、単に誰かから誘われたことがなかったのだ。


 神楽坂という家柄のせいで、周りはきっと忙しいだろうとか、平民には釣り合わないとかそういう理由で、縁がなかったのだ。


 でも今年は梓くんが誘ってくれた。その事実だけですごく嬉しいし、綺麗だと話に聞いていた花火を間近で見られると思うと、高揚感が抑えきれない。


 もちろん、ペリドットのネックレスも付けている。大事な日だからね。


 ああ、早く夏祭りに行きたいな。早く梓くんに会いたい。


 そう考えていると、突然私がいる部屋の扉をノックする音が聞こえた。


「小夜様、お話があります」


「はい。どうぞ」


 私の了承を得ると、彼女は――お父様直属の使用人、桐谷さんが恭しく入室してきた。


「小夜様、素敵なお召し物ですね」


「ありがとうございます。これから大事な友人と花火を観に行く約束をしているんです」


「そうですか。それは大変喜ばしいことですね」


 桐谷さんは表情一つ変えず、無機質な声音でこう続けた。


「そのご友人とやらが神楽坂家にふさわしい人物であるなら」


「それはどういう意味でしょうか?」


 私は彼女の不穏な空気を感じ取り、気圧されないよう語気に冷たさを含める。


「えっと……梓伊月でしたっけ。彼のことはそれなりに調べました。学校でDランクと呼ばれ侮蔑の対象になっているとか」


「それがどうしたのです?」


「そんな下賤な人間を神楽坂家に寄り付かせるなんて虫唾が走ります。厳一様に顔向けができません」


 厳一とは私のお父様の名前だ。久しく会っていないが。


「下賤だなんて。神楽坂家に仕えるものが、物事の本質を捉えずにあれこれと判断して良いと思って?」


「大切なのは中身だから、外側の情報だけで判断するなと、そう仰りたいのですか?」


「よくわかってるじゃないですか。なら、今後梓くんのことを悪く言うのはやめてください。不快極まりないです」


 それを聞いた桐谷さんはやれやれといった感じで肩をすくめる。


「やはりお子様ですね。それだから厳一様に捨てられるのです」


 その瞬間、隣から、つまり暗根から凄まじい怒気が放たれた。


「Shut up!You scum.(黙れ、クズが!)」


「おっと。どうりで薄汚いネズミの匂いがするかと思ったら、暗根でしたか」


「次、小夜様を侮辱したら、本気で殺す……」


「あらあら。怖いですね。ここが日本であることをお忘れなのですか?」


「あんたが同じ日本人だなんて信じたくもない」


「暗根、一旦落ち着いてください」


 らしくもなく取り乱した暗根を私は窘める。


「桐谷さん。なぜ私が子どもなのかあなたの考えを教えていただけませんか?」


 すると、桐谷さんは嘲笑して、見下すように言った。


「そういう甘いところですよ」


「はい?」


「人は中身だとか、内面が重要だとか言って自分が信じる正しさに酔いしれているところがですよ」


「いえ。人は見た目などの外側だけで判断すべきではないです。その人の本質はいつだって内側にあるんですから」


「それだから子供なんですよ。いいですか?この世には真実も嘘も存在しない。あるのは民衆が決めた事実だけ。正しさなんてのは個々が決めていいものじゃない。いつだって社会が正しさを提示するんです。そしてそれはレッテルという外側だけの情報に左右されるのです。実感あるでしょう?」


「そ、それは……」


「結局、個々人がうだうだ言っても意味がないんですよ。その辺りを厳一様はよくわかってらっしゃる。対して、あなたのお母様は……」


「お母様は悪くなかった!あの人はいつだって正しかったもの!」


「ほら、また正しいなんて幻想を見てらっしゃる。あなたを遠くに置きたがる厳一様の気持ちが痛いほどわかります……」


 呆れたとか疲れたとか、そういった気だるげな様子で桐谷さんは私に近づき、無許可で勝手に私のネックレスを外して奪った。


「ちょ、ちょっと何するんですか!?」


「あーあ。すべて処分したつもりだったのにまだこんなところに残っていましたか。ほんと夢ばっかり見て……ばかばかしい」


 桐谷さんは少し歩いて、私の部屋にあるお母様が写った写真を見る。


「あなた、まだ厳一様が戻ってくるとか思っていますか?」


「え……?」


 図星だった。昔みたいにお母様とお父様と手を繋いで遊んでいたあの頃に戻れると。いや、戻りたいという願望に近かったかもしれない。


 私は固まって、ただ桐谷さんの言葉を待つしかできなかった。


 数秒の静まりの後、桐谷さんは信じられないほどの高笑いをした。


「アッハッハッハ!そんなわけないじゃないですか。無駄なんですよ、あなたの努力してきたことは全て!どうせ厳一様に振り向いてほしいからとか考えて、今まで様々な取り組みに必死になって結果を残したんでしょうが、そんなことをしてもあの人は戻ってきません。元よりあなたに興味なんてこれっぽっちもなかったってことです。無駄、全部無駄!」


 桐谷さんが言い終わる頃にはすでに私は泣き崩れていた。


 無駄という言葉が私の心を切り裂いた。そんなだから私の悲鳴はすでに枯れ果てていて。


 床にポタポタと落ちて染みになるだけの涙を見ていると、それすら哀れに見えて消えたくなってくる。


 脳裏に浮かんでくるたくさんの思い出は次々とセピア色の砂嵐にかき消されていく。


 私自身の嗚咽が耳朶に響いているのを感じ始めた頃、桐谷さんが追い打ちをかけた。


「あ。いくら絶望したからって死なないでくださいね。色々面倒ですので」


 刹那、涙目の暗根が鬼の形相で桐谷さんの首元に果物ナイフを突きつけていた。いや、突き刺さってしまうところを桐谷さんが防いだと言った方が正しいだろう。


 ナイフを持つ暗根の右腕を桐谷さんはガシッと掴んでいた。


「ちょ、暗根、あなたっ」


「あらあら。こんな物騒な物、袖にでも隠し持っていたのかしら?」


「……殺すって忠告しましたよね?」


「ええ。だから警戒してあなたの攻撃を防げたのよ。まったく……。あなた、暗殺が得意なら事前に攻撃することを教えちゃダメじゃない?」


「人聞きの悪いこと言わないでください。私は人を殺したことはありません」


「ああ。そうでしたね。殺された、と言った方が正確でしょうか?」


 殺されたという言葉が生まれると、暗根のナイフを持つ手により力が入った気がした。


 が、桐谷さんは暗根の抵抗も赤子の手をひねるように無効化し、合気道の要領で暗根を地に伏せた。


「私はあなたと違ってCQC(近接格闘)に覚えがありまして」


 暗根の手から離れ、転がっているナイフを足で家具の隙間に飛ばす。


 そのまま私の顔を見ずに、桐谷さんは毒を紡ぐ。


「あなた達がいくら頑張っても無駄ということです。厳一様の迷惑にならないよう大人しく生きていればそれでいいのです」


 そう言ってから、彼女は何か企んでいるかのような不気味な笑みを浮かべて、ある提案をしてきた。


「とはいえ、まだ子供の小夜様に一方的に無駄と言っても聞かないでしょうから一つチャンスを与えましょう」


「……チャンス?」


 泣きじゃくった後の掠れた声で、私は問いかける。


「ええ。あなたが拘る梓伊月とやらが何かしらの才能を証明できたのであれば、今後口出しはしないでおきましょう」


「……本当に?」


 桐谷さんは吐き捨てるように冷笑した。


「まあ、Dランクとか言われてる彼にそんな才能があれば、の話ですけどね」


 おそらく、桐谷さんは私の心を芯まで叩き折りたいからこんな提案をしてきたんだろう。


 だが、それは唯一の希望の光でもあった。梓くんなら、そして、桐谷さんの経歴なら渡りに船な勝負事がある。


「では、桐谷さんには梓くんとチェスで勝負していただきたいと思います。確か、あなたはチェスの大会で優勝経験があったはずです。才能を見極めるならちょうどいいですよね?」


 私が頼むと、桐谷さんはまたもや高笑いした。


「お言葉ですが血迷われたのですか?私にチェス勝負なんて、ただの凡人以下が敵うはずがないでしょう」


「そう判断するのは手合わせしてからでも遅くないはずです」


「いいですよ。ゲームで決着なんて非常に子供っぽいですが、そこまで言うなら受けて立ちましょう」


 そうして、夏祭りをかけた大勝負が約束され、桐谷さんと見届け人に選ばれた暗根は私の部屋から出ていった。


 不正などがないように、あと私が梓くんと話せないようにスマホは取り上げられ、部屋に軟禁されることになった。

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