第32話 梓伊月は祝いたい
神楽坂からOKの連絡を受けて一安心した俺は、誕生日当日、俺の家で夕食を作っている彼女の姿を見ていた。
今日の誕生日祝いに暗根も誘ったのだが、
『急にビビらないでください。私がいたら小夜様を押し倒せないでしょう』
と、連絡が来た。
いや、押し倒さねえからっ!
俺だけじゃなくて、暗根もいたほうが楽しいだろうなと思って暗根に声を掛けたんだが、『私は屋敷で祝いますから』とバッサリ斬られた。
というわけで、俺たちは昼頃から勉強会を始めて、今に至るわけだ。
今晩は神楽坂が主役なので、夕食を作らせるつもりはなかったんだが、誕生日祝いであることを隠すのと(もうバレてるとは思うが)、彼女が夕食を作りたいと頼んできたこともあって、断れなかったのだ。
ちなみにプレゼントは俺の部屋に置かれている。
渡すタイミングがなかなか掴めず、ずっと緊張した面持ちをしていて、そろそろ精神的に疲れてきたところだ。
それゆえ、キッチンから漂う美味しそうな匂いがいつもより心地よく鼻腔をくすぐる。
久しぶりにエプロン姿(今は制服ではなく私服だが、こちらも良い)を見て、ああ、女の子が晩御飯を作りに来てくれるなんて贅沢だなあとしみじみ思い知った。
にしても、神楽坂から今日は特別な日オーラが全く見えないのは気のせいだろうか。ほんとに覚えてる?君、今日誕生日なんだよ?
そんな彼女の様子は食事が始まってからも、そして終わってからも変わらなかった。
とりあえず、俺は食器などの後片付けをしてからリビングに戻ると、神楽坂はソファーに腰かけて、本を読んでいた。
以前から彼女は夕食を終えると、よく俺の家にあるラノベを読んでくれるのが一つの習慣みたいなものだった。
1時間ほどで帰宅するので、全部は読み切れないみたいだが。
まあ、つまりだ。あと1時間もしないうちに神楽坂は帰ってしまう。贈り物をすると言った手前、やっぱりやめるという逃げの選択もできない。
そう思案し、俺はおもむろに自室へ足を運ぶ。
10人中10人がプレゼントだなとわかるようなラッピングが施された袋を手に取り、再びリビングに戻る。
カサカサと紙が擦れる音がしたからか、不思議そうにこちらを振り向いてくる。
「これ、神楽坂の誕生日プレゼント……」
緊張で上手く回らない舌になんとか言葉を紡がせ、サッと目の前に差し出す。
「へ?」
神楽坂はらしくない間抜けな声を漏らし、おずおずとそれを受け取る。
「……梓くんって私の誕生日、知っていたんですね」
「え?ああ。風見と話していた時にそういう話題になってな」
「風見君が……?」
「そうだが。何か驚くようなことがあったか?」
「いえ。確かに1年のとき誕生日の話をしたことがあるので、風見君が知っているのは自然だと思います」
彼女は何やら考え込む仕草をしているが、思考の中まではわからない。
「もしかして、前に暗根と一緒にいたのって……」
「ん?何か言ったか?」
「いえ、何も……」
会話の機会を見失ってしまった。沈黙が気まずかったので、俺は頬を掻いた。
「誕生日プレゼントって名目で渡したんだけど、日頃の感謝も兼ねたつもりだから。弁当だけでなく夕食まで作ってもらって、ほんとに助かってる」
「ご飯を作るのは私の趣味だから気にしないでいいと言っていたのに……」
フフッと彼女は口角を上げて、言った。
「開けてもいいですか?」
「どうぞ……」
ラッピングされた小さくて赤い袋の中に入っていたのは。
「これは……本の
それは何の変哲もない、わけではなく上質な革が使われている。
栞にしては少し値が張ったが、特別な日の贈り物ということで思い切って買ってみた。(とはいえ学生が買えない値段ではない)
神楽坂は前々から栞があったらいいなと言っていた。
お金はいくらでもあるので買えないなんてことはないのだが、ついつい忘れてしまうとのこと。
本を読むことが多い彼女なら喜んでくれるだろうか。
そわそわしながら反応を待つ。
すると、神楽坂は目を細めた。
「栞欲しいと思っていたんですよ。ありがとうございます」
「喜んでくれて何よりだよ」
「ではさっそく使わせてもらいますね」
彼女は栞を読んでいたラノベに挟んだ。それを俺に手渡す。
「また読みに来ますから、栞外さないでくださいね」
わざわざ俺に渡さなくても、貸してあげるのに。そう俺は思わなかった。
都合の良い解釈かもしれないが、彼女がまた俺の家に遊びに来てくれると。そういう彼女なりのメッセージなのかなと、俺は思い込むことにした。
それだけで幸福感に満たされるから。
ほうと安堵するが、これで終わりじゃない。
「こちらの大きい袋には何が入っているのですか?」
「開けてみたらわかるよ」
「ではそうします」
さっきより一回りも二回りも大きい袋を細い指で開けると、そこからサメのぬいぐるみが顔を覗かせた。
「サメ?」
神楽坂は目を丸くして呟いた。大事な物を扱うかのように小さな両手がそれを丁寧に抱え込む。
「……水族館で特によく見てたから好きなのかと思って」
「それは以前のフカ……いえ、好きですよ、サメ」
そう言って、神楽坂は華奢な人差し指をサメの口に突っ込む。
「この
ギュッとぬいぐるみを抱きしめながらそんなことを言う神楽坂も相当愛くるしいと思ったが、恥ずかしさが先行して言えない。
代わりに、茶化すことにした。
「おいしそうだからって食べるなよ」
「生では食べません。おいしくないので」
「焼いたら食べるみたいな言い方やめてくれんか」
「フフッ。冗談です。梓くんが私にイジワル言うのが悪いんですよ」
「えいっえいっ」と楽し気な声で俺の方へサメの口を向けて、パクパクと操っている。
可愛すぎません?
俺が神楽坂の可愛さにしどろもどろになっていると、彼女も頬を桜色に染めて、
「あの……何か言ってくれないと、私も恥ずかしいのですが……」
と、蚊の鳴くような声で訴えてきた。
うん。可愛すぎる。
「わ、悪い……」と苦し紛れに誤魔化すしかできなかった。
まだ最後に渡すものが残っている。後ろ手に握っているそれは夏祭りのチケットだ。
二人で夏祭りに行こうなんて、何をどう言い訳してもそういう狙いがあると勘繰られそうで、なおさら緊張感が俺を襲う。
だが、俺も男だ。ここが勝負時だと告げられた気がした。
硬い唾を飲み込む。俺の緊張が伝わったのか、神楽坂も神妙な表情を浮かべる。
俺はソファに座る神楽坂の隣に移動し、同じように腰を下ろす。
距離感はわずか拳2つ分くらいといったところか。同じ空間に二人きりだからか、写真を撮った時よりも彼女の息遣いが鮮明に耳朶を打つ。
数秒の間深呼吸して、ようやく言おうとしたその時、口を開いたのは俺より先に神楽坂の方だった。
「あの……梓くんって実は私にものすごく気を遣ってたりしますか?」
「気を遣う?」
質問の意図がわからず、俺はオウム返しをしてしまう。
「……はい。私が気づかないうちに梓くんに迷惑かけてるのかなあと思いまして……」
「そんなわけないだろっ!さっきも言ったけど、ご飯も作ってもらったり、部屋の掃除もしてくれたり、至れり尽くせりじゃないか。むしろ、俺の方が神楽坂の時間を奪ってしまってるんじゃないかって思ってるんだが……」
「私は楽しいので構わないんです。ただ、梓くん優しいからそうやって無理言わせてるんじゃないかって不安になってしまって……」
「無理じゃないよ。これは俺の本心さ」
「でも、学校では実際私は梓くんのために何にもできていません。それどころか私と一緒にいるせいで梓くんが悪く言われるときもあるじゃないですか」
「それは……その……神楽坂は悪くないよ……」
「いいえ、私のせいです。私がSランクなんて高い称号をつけられたから。そして、それを捨てる勇気を持てないから……」
神楽坂は座ったまま、自身のロングスカートの太腿辺りをギュッと握りしめる。視線を上げると、彼女が唇を噛みしめているのも把握できた。
何て言えばいいんだ。大丈夫、神楽坂は間違っていないと言うだけなら簡単だ。
ただ、そんな言葉に正しさが付与されるかと問われれば、まちがいなくノーだ。
神楽坂が俺に構うことをきっかけとした嫌がらせもあるし、神楽坂は学校では大っぴらには俺を気にかけることもできていない。
そして、それは彼女が今の地位を捨てる勇気を持っていないという事実にもつながる。
彼女がそれらを捨ててまで助けたいと思える男になっていないという証明でもあって。たかが学生の恋愛ごときでここまで重く考えさせられるのは何のせいだ。
自由がないからだ。カーストなんかがあるから。
学校において正しさは常に周りの目次第だ。周りの人間の数だけ正しさが変容する可能性が生まれてしまう。
なら、今は?
俺と神楽坂しかいない今は誰が正しさを決める?
そうだ。今は誰かの邪魔が入ることはない。俺の本心こそがこの場における正しさになりえるんだ。
そこまで考えた俺は、自然と行動に移していた。緊張なんてとうに消えた。
俺は握っていた夏祭りのチケットを彼女に見せる。
彼女にとって突然すぎたのか、きょとんとした様子で控えめに訊いてきた。
「……これは?」
「今の俺が出せる、神楽坂への本音だよ」
カーストという血の通っていない制度の前にどう立ち向かっていけばいいかなんて、俺もまだよくわかっていない。
確かに今みたいな関係は居心地がいいのだろうけど、これからお互い絶対傷つくことになる。
だから、早いこと俺が答えを見つけなければならないだろう。でも、今は未だ、そのときじゃない。
というか、タイミングは少なくとも今日じゃない。今伝えるべきことは俺が神楽坂に抱く本音。
俺は神楽坂と一緒にいたい。これに尽きる。
神楽坂はチケットを見て、驚いているのか喜んでくれているのか、あるいはその両方か。そんな温かい感情を乗せて、相好を崩した。
「こんな私でいいなら喜んで……」
チケットを指で摘まんでスッと1枚抜き取る。そして、間髪入れず彼女は右手の小指を差し出す。
「約束ですよ……?」
「指切りなんていつ以来だろか……」
「絶対行きましょうね」
俺も右手の小指を突き出し、お互いのそれを軽く絡め合う。
初めて触れた彼女の指はやっぱり細くて柔らかくて。
わずかに感じる熱のおかげで、俺は心に落ちつける隙間を見つけることができた。
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