第20話 おつかれさま

 紗綾にキスをされたのは三〇秒くらい。

 それでも仕事中の店内だということを考えれば、短いとは言えない時間だった。



「凛はお仕事中だから、このくらいにしておいてあげる」


「紗綾、ワイン飲んだ?」


「ん? そんなことはないんじゃないかな」



 そう言った紗綾は上目遣いで少し肩をすくませ、人差し指を唇に当てた。

 服装がフォーマルだからか、それが凛には性的な美しさに感じて胸がドクンと鳴っていた。


 なんとなくワインの香りがしたような気がしたが、凛は未成年でワインを飲んだことがない。

 だからワインの味を知らないし、大した疑問でもなかったので考えるのを止めた。

 そもそも凛はそこまで堅苦しい性格ではない。

 凜もお祝いの席でお酒を一口飲んだことがある。

 たぶんそういうことなのだろう。


 その後ポワソン魚料理ヴィアンド肉料理を下げ、デセールデザートを持っていき、飲み物の準備を凛はした。

 コーヒーと紅茶が選べるようになっていて、春海さんと紗綾は紅茶を選んだ。



「こちらはバラのジャムでございます。バラの香りをお楽しみいただけますので、よろしければお試しください」



 今日の凛の仕事はいつにも増して優雅な時間となっていた。

 凛のお店は通常二組くらいは担当する感じで、デシャップと呼ばれるキッチンに料理を通す人と連携を取る。

 だが今日の凛は他のテーブルとは距離もあるため、個室のみの担当。


 しかもお客様は春海 藍さんと紗綾の美女が担当。

 半分仕事というよりも、個人的にサービスしているような気持ちに凛はなっていた。



「春海さん、色紙をお持ちしてもいいですか?」


「あ! そうですね。うっかりしていました」



 帰りの直前ではあたふたしてしまうし、食事の最中では邪魔になる。

 デセールデザートを食べながらのゆったりした頃がタイミングだと凛は考えていた。

 色紙とペンを春海さんに手渡すと、紗綾が凛に声をかけた。



「凛? 私のサインはいいの? そりゃ春海さんと比べると知名度ないけど……」



 ピンク色にグロスで艶が出ている紗綾の唇が、少しだけ尖っている。

 怒っているわけではないが、面白くなさそうではあった。



「うちのお店は若くても二〇代半ばだから、若者向けの女性誌のモデルだとね。

 オジサンが多いのもあるから、芸能人っていうとTVくらいしか情報が入ってこない人も多いです。

 気を悪くしないでくれるとうれしいです」


「紗綾? 倉敷さんのお仕事しているところが見たかったんでしょ?

 イジメちゃかわいそうよ?」



 凛は春海さんの助け舟もあり、紗綾の変な弄りは無事に切り抜けることができた。

 そして個室というのがあるからか、それともワインが大きかったのか、始めよりも春海さんの会話が自然になっている。

 これならば及第点のサービスができたのではないかと凛は感じていた。

 実際凛は自身が楽しい時間であったので、いいサービスができたと思っていた。


 凛のお店のお会計はテーブル会計になっており、春海さんと紗綾はお会計を済ませて個室を出る。

 店内は基本的には同じような作りではあるが、ホールは個室とはやはり違う。

 他のお客様もいる。サービススタッフの人数や、なにより空間の広さは比較にならない。

 そんなホールの雰囲気を、お店の扉の辺りから春海さんと紗綾は見ていた。



「次来るときは、空いていたらあっちでお食事したいですね」


「そうですね。藍さん、またご一緒してください」


「いいわよ。じゃ倉敷さんも、また会いましょう」



 凛は春海さんの言葉に一瞬目を大きくしたが、笑顔で応えてお見送りをした。



「どうもありがとうございました」



 二人を見送ったあと、個室の片付けをして洗い物を持っていくとシェフが寄ってきた。



「倉敷、春海 藍は帰ったのか?」


「今さっきお帰りになりました」


「そうか。色紙ありがとうな! 嫁に写真送ったら、娘が喜んでるって返信だったぞ」


「そうなんですか。それはよかったですね」


「ああ。でな、今度夏のメニュー決めるから、その時お前も食わせてやる」


「え? 素人の僕でいいんですか?」


「ああ。お客だって素人だけど美味しいものを食べたくてここに来るんだから、素人がどう感じるかも参考にはなるからな」


「じゃぁ楽しみにしときます」



 紗綾たちが帰った頃にはもうけっこういい時間になっていて、凛は他の人のサポートをしながら時間まで働いた。

 他の人より少し早い時間にあがってお店を出ると、すぐのところに紗綾たちが目に入る。



「凛、お仕事終わった?」


「はい、もうあがりです」


「おつかれさま」


「おつかれさま」



 おつかれさまを言われ、凛はちょっと感動していた。

 紗綾もそうだが、今現役バリバリの女優である春海 藍におつかれさまと言われるなんて思ってもいなかったのだ。

 今まで生きてきた中で、一番現実感のないおつかれさまなのは間違いなかった。



「ちょっと凛? いくら藍さんだからって、目移りしちゃダメって言ったでしょ」


「なんですか? 倉敷さん、私のファンになっちゃいましたか?」



 なんとか凛はこれを誤魔化し、このあと三人でタクシーで帰ることになった。

 春海さんがタクシーで帰るということで、送ってくれるということになったのだ。

 凛の家の前で二人は降ろしてもらい、春海さんと別れた。


 今日は予想外のことが起きた日ではあったが、凛はこれで帰ったらゆっくりできると思っていた。

 だが今日はもう少し続くことになる。

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