第19話 いつもと違うバイト先

 いつまでもお客様を待たせておくわけにもいかないのもあり、凛は少し緊張しながら個室へと向かった。

 個室のドアの前で凛は立ち止まり、少し気持ちを落ち着ける。


 これだけ凛が緊張してしまうのもしかたがなかった。

 春海 藍といえば、紛れもない芸能人。

 CMやドラマに出ている時点で、当然だが知名度もある。

 どうしてこうなったのか凛にはわからないが、いつも通りのサービスを意識して個室へと入った。



「――」



 個室には聞いていた通り、TVで知る春海 藍が確かにそこにいた。

 TVではイメージがないが、黒いイブニングドレスを着ている。

 セミロングの落ち着いた色の髪はフワッと緩やかに巻かれていて、やわらかい雰囲気を出していた。


 もう一人の女性は、光沢のあるダークグレーのフワッとしたイブニングドレス。

 ゆるく巻いた動きのある髪をポニーテールにしていて、少し華やかな感じになっている。

 お化粧も凛が知るものではなく、いつもよりもアイシャドウなどがしっかりされていた。



「惚れ直しちゃった?」


「すごく綺麗ですが、正直それよりもビックリしちゃって」


「く、倉敷さんでしたよね? は、はじめまして。春海 藍です。

 紗綾がいつも、お世話になっています。紗綾とは、事務所が同じなんです」


「あ、はじめまして。倉敷 凛といいます。紗綾さんとは高校が同じ学生です」


「凛? 藍さんに目移りしちゃダメだからね?」



 目の前に春海 藍がいることを考えれば、見てしまうのは仕方がない部分はある。

 凛は紗綾以外の芸能人と話すことはもちろん、見たことだってなかった。

 だがそんな凜も、春海 藍について少しくらいは知っている。

 普段の春海 藍は、演技をしているときとは違い口数が少ないらしい。

 恥ずかしがり屋であるため、あまりお喋りは得意ではないということだった。



「お店のみんなビックリしてましたよ? 突然春海 藍さんが来たので」


「ふふっ、でしょうね。私の名前じゃ凛にバレちゃうかもしれないから、藍さんに予約してもらったの」



 あまりここで話し過ぎてはコースが進まないので、凛はとりあえず最初の仕事をすることにした。

 凛は飲み物のメニューを二人に渡す。

 通常はメニューを一人分持っていき、年長者の方や男性に渡す。

 だが予約は二名で女性とわかっていたので、凛は二人分持ってきていた。



 春海さんは最初からワインを飲みたかったようなのだが、紗綾が飲めないのでボトルにするか少し考えているようだった。

 そこで凛は、春海さんにグラスワインをお勧めすることに。

 グラスワインなら余ることもないし、知り合いというのもあるので一杯はサービスできたからだ。


 一度個室を出た凛は、春海さんに白ワイン、紗綾にはりんごジュースを用意する。

 するとキッチンから声がかかった。



「倉敷」



 珍しく凛に声をかけてきたのはシェフだった。



「倉敷、春海 藍が来てるって本当か?」



 シェフの年齢は四四歳。シェフであることを考えれば十分若いが、それと世間の評価が一致することはまずない。

 世間で四四歳という評価は、紛れもないオジサンだ。

 そんなシェフでも、春海 藍には興味があるようだった。



「個室にいます。一緒に来た女性が僕の知り合いだったので、それで来たみたいです」


「なぁ? 今度新作作ったらお前にも味見させてやるから、サイン頼めないか?」


「シェフ、マジですか?」



 ちょっとミーハーな頼み事をされた凛は、それが少し楽しく感じてしまい、言葉遣いが崩れていた。

 だが春海 藍で繋がった二人は、そんなこと気にもせずに話を進める。



「娘にあげたら喜ぶだろうから、お願いできないか?」



 とはいえ、別に凛が知り合いというわけでもない。

 凛だって今日初めて会ったので、一応保険だけはかけることにした。



「サインしてくれる人なのかは僕も初対面ですから、頼むだけ頼んでみるってことでいいですか?」


「ぉお! それで全然いい。飲み物は全部サービスにしていいぞ!」


「ありがとうございます。シェフからって伝えておきますね。個室、料理スタートします」


「おぅ! おいっ! すぐに色紙買って来てくれ!」



 いつもなら聞こえることがない指示が、背後のキッチンから聞こえた。

 飲み物がシェフからのサービスだということを二人に伝えると、うれしそうにラッキーっなんて言っていた。

 それを手土産として春海さんにサインを頼んでみると、少し苦笑いでオーケーの返事がもらえた。


 食事は問題なく進み、料理はポワソン魚料理を出すところ。

 料理を出すときには料理の向きを確認し、サッと出す。

 料理をテーブルに置いてから、お皿を回すようなことは決してしない。



「倉敷さん、姿勢がすごく綺麗」



 春海さんが、凛のサービス姿を見てそんなことを言ってくる。

 だがこれは凛がこのお店に来てから変わったものの一つだった。

 このお店で最初に教わったのが姿勢。

 もちろん挨拶とかそういうことはあるが、ホールのサービスとしての話だ。

 サービスマンは近寄り過ぎないようにしながらも、注意深く観察をしなければならない。

 同時に相手も見ていて、見られることを意識してサービスをするのだと教わったのだ。



「なるほどねぇ。ちょっとだけ私たちに似てるかもね?」


「凛の姿勢が綺麗なのは、このお店のおかげなのね」



 二杯目のワインが、そろそろ終わりそうな感じ。

 ワインのおかげなのか、春海さんも少し饒舌になっていた。



「凛、お化粧室教えて?」


「かしこまりました。ご案内させていただきます」



 紗綾の少し前を歩いて、お化粧室へと案内する。

 どこのお店も似たような作りになると思われるが、このお店のお化粧室も端の曲がったところにある。

 お化粧室の前まで来ると、紗綾が凛の腕を引いて突然唇を重ねた。

 


「ん……」



 ちょっと唇を重ねるだけではなく、いきなりの深いキスに凛は一瞬真っ白になる。



「仕事してる凛、格好いい……ん~」



 大胆に凛の首に腕を回してされるキス。

 それは少しだけワインの香りがしたように凛は感じた。

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