浪漫気泡

柿尊慈

浪漫気泡

 会社の飲み会が嫌なら、そんな会社辞めればいいのに。

 学生時代は、飲み会の多い会社への嘆きをSNS等で見聞きする度に、そんなことを思っていた。とはいえ、実際にいざ自分が社会人になってみると、自分を受け入れてくれた会社をそう簡単に辞めることはできないという良心の呵責と、そもそも新しい場所でやっていける自信がないなど様々な事情が重なって、結局身動きできない。業務内容が合ってないとか、残業が多すぎるとか、そういった不満に比べれば、飲み会が多すぎるなんてのはかわいい悩みだろうと思うようになった。などといいながらも、私自身はそんな悩みを抱いたこともないし、どう見ても飲み会嫌いな先輩に対して「じゃあ辞めればいいんですよ」なんて軽々しく言ったこともない。本当に辞められたら困る。もしそうなれば、彼と同じ会社へと転職することも考えるだろうが、「次の会社はここなんだ」と教えてもらえるような間柄でもないし、いざ転職して確実に採用してもらえるような自信があるわけでもなかった。

 ジャズの流れる店内。店全体を貸し切り。カウンターの席が数人分。テーブル席がいくつか。詰め込もうと思えば、50人くらいは収まるであろうキャパシティ。暖色系の照明が、量の少ない料理を鮮やかに照らし、まるでこの少量こそが正しい姿なんだと言わんばかりに、高級感を演出している。散々言ったが、おそらく食事が少ないわけではないのだ。本来店のキャパが40人であるところに50人超が押しかけたため、人数分の皿を置いただけでテーブルが想定よりも狭くなり、食事の提供が頭打ちをしたのだと思われる。実際、40人分も提供できていないのだろう。その少ない食事ですら、そんなに食べるからそんな体になるのだと言いたくなるような、体の大きい中年男性たちに大半を平らげられ、私よりも若い女性社員たちは食事にほとんど手をつけず、甘いカクテルで酔った振りをしながらテーブルの下でスマートフォンをいじっている。おそらく、女性社員だけでの二次会が計画されているのだろう。さっきから私のスマホも震えているが、興味がないので見ることはない。

「先輩」

 先ほどからソルティドッグをちびちびと飲んでは、カウンター席でぼうっとしていた男性に声をかける。離れたところで聞こえる喧騒が嫌で仕方がないといった様子を表現するように、背中をぐったりとさせて頬杖をついていた。30代も半ばになり、パソコンでの作業が目に堪え始めたという理由でかけるようになった眼鏡は、仕事の終わった今その役目を終え、肘のすぐ近くに置かれている。居眠りでもすれば、たちまち眼鏡はカウンターから落ちて、粉々になるかもしれない。そのときに彼は、どんな顔をするだろう。勘弁してくれよと、ため息をつくだろうか。用心深い彼のことだから、スペアをいくつか持っているかもしれない。どんなパターンも想像することはできるが、確信をもって「こうなるだろう、こうするだろう」と言い切ることはできなかった。私は5年間、彼のことをずっと見てきたつもりだが、結局彼のことは何もわかっていないのである。恋人になることもできなければ、プライベートでも仲のよい女後輩にさえなれなかった。

 私の声に顔をあげると、特に返事をすることなくグラスを手に取って、こちらに目を向けたままこくりと一口飲み込んだ。後ろで飲んだくれている、顎にたっぷりとぜい肉を乗せた男性たちとは違って、だんだんと痩せてきているようにさえ見える彼の首の皮を、喉仏がごろりと上下する。その音が聞こえた気がしたが、まだ隣に座っていない状況でそれが聞こえるはずもなく、おそらくグラスと氷がぶつかった音を喉仏の音と錯覚したのだろう。

 こっちに来るなという合図はない。私は先輩のひとつ隣のイスを引いて腰を下ろす。ぎしりと、音がした。私の体重のせいではない、はずだ。

 持ってきていたグラスをカウンターに置く。氷でだいぶ薄くなったジンジャーエール。炭酸もほとんど気が抜けて、飲み応えがまるでない。まるで、30歳を迎えた自分自身を見ているような気分になる。女としての甘みを残してはいても、手に取って味わいたくなるような刺激はない。シュワシュワと好奇心をそそる音も、少し前に出なくなった。

「今日は、飲んでないんだな」

 そう言うと先輩は、グラスの淵に刺さっていたレモンを手に取り、しばらく指で弄んだ。その指は、5年間のうち一度も私に触れたことはなく、おそらく、どの女性にも触れることのなかったもの。

 妙に痩せているところを見れば、彼は食事が日々の楽しみで仕方がないというわけではないだろうし、女にも男にも、欲を含んだ熱視線が注がれているのを見たこともない。今でこそ酒を飲んではいるが、飲み会という名を冠した会であるために嫌々何か酒を飲んでいるという印象が強く、酒も女も食事も、彼を満たすことがないのだろうと改めて思う。

「飲むなっていったのは、先輩じゃないですか」

「飲むなとは言ってない。飲んだ勢いは止めろと言ったんだ」

 レモンを絞る。ぽたぽたと、雫が落ちた。グレープジュースとウォッカの混合液は白く濁っているため、落ちた果汁が水面で成した層は透けている。先輩はグラスをからからと回すと、溶け残った氷の働きもあって、透明だった果汁は跡形もなく混ざり合った。

 先輩の顔や首を覆う皮は、すぐに破れてしまいそうなほどに薄かったが、日頃のやや不健康で灰色がかった顔色は、店の照明で幾分か瑞々しく見える。35歳という実年齢よりはいくらか若く見えるその顔は、私が好きになり始めた頃のものとそう変わらない。人生の楽しみこそなけれど、ストレスというものとは無縁であるかのように堂々と仕事をこなしているため、精神的な衰えのようなものは顔に出ておらず、29歳と言われても十分に信じられるし、なんなら、私の同期である男性社員と並べれば、先輩の方が若く見えたであろう。

 向こうで聞こえるバカ騒ぎは、まるで自分たちとは無関係であるかのように、私たちはしばらく何も話さず、ただ隣り合って座っていた。カウンターの向こうで作業をしている、おそらくは学生であろう女性店員が、ちらちらとこちらを窺っているのが見える。グラスが空になるのを見落とすまいとしているのか、私たちの奇妙な間柄を推理しようとしているのかはわからない。


 5年前も、たしか同じ店だった。

 仕事で関わり合いになることもほとんどない、5つ歳上の先輩。その頃の私は、新卒で入社した会社を辞めて、少し苦労しながら転職することに成功したばかりだった。社員同士の人間関係も全然見えていない状況で、よくもまあ告白なんかしたもんだと我ながら思う。だが、そのときの私は、飲み会なのにひとりでカウンターの方に外れて、妙に色っぽくグラスに口をつけているひとりの男性に釘付けになっていたのだった。25歳になりながら、やや調子に乗って飲みすぎていたせいもあるだろう。私は彼の姿に気づくと、ふらつきながら席を立ち、倒れるように先輩の隣に腰かけた。

「好きです」

 あまりにも突然に言ったものだから、先輩は最初、それが自分に向けられた言葉だとは気づかなかったようだ。そして、私が酔っ払いながらも間違いなく彼の方を見ていたため、それが自分に向けられた言葉だとはわかったものの、今度は聞き間違いを疑った。

「なんだって?」

 グラスの淵についた塩よりもしょっぱいものを舐めたかのような顔をして、先輩が私に話しかける。顔が熱かったことを考えると、おそらく私の顔は赤かったのだろう。不信感と心配を混ぜ合わせたような声だった。

「先輩のことが、好きですよ、私」

 さて、入社したてで、なんなら人の顔も名前も覚えていないような状況であったから、このときの私は、なんと彼の名前を知らなかったのである。それゆえに、さんづけで呼ぶこともできず、一般名詞である「先輩」というフレーズをとっさに口にしたのだった。そして、その先輩呼びは、5年経った今も継続しているというわけである。

 聴き間違いではないとわかると、先輩はしばらく私をじっと見つめて、くくっと喉の奥から笑い声を小さく出した。

「飲みすぎたんだな。――ああ、水を一杯いただきたい」

 テーブルに伏していた私の腕に、先輩は店員から受け取った水の入ったグラスをこつんと当てる。顔を少しあげて、私はグラスを掴むと、ごくりとひと口に水を飲み干した。長い息を吐いて、グラスをテーブルに置く。

「何を期待しているかはわからないが、俺は君の期待に応えることはないと思う」

 まるで酒を注文するかのように、すらりと先輩は言ったので、頭の中が揺れているような気分だった私は、それが私の告白に対するマイナスの返答であると気づくのに時間を要した。

「それに、酒の勢いに任せてというのは、感心しないな」

 先輩が、からからとグラスを回す。私の目も回る。目を瞑って、店内のジャズに耳を傾けた。火照ったまぶたが、とろりと溶けているように感じる。

「酔っ払うと、本心が出るんですよ。ってことは、今の告白は、それだけ、マジってことです」

 ろれつが回っていなかった。だが、たしかそう言ったと記憶している。どこかで、酒に酔うと人が変わるというのは嘘で、むしろ酔ったときこそが本性であると聞いた事があった。例えば、飲んだくれた会社員が駅員を殴った場合、それは酒のせいではなく本人の本性を由来としているため、言い逃れができない、という具合だ。まあ要するに、酔ってるときほど本音が出るということで、勢いで告白したように見えるけどそうじゃないんだよ、みたいなことが言いたかったのだと思う。とはいえ、おそらくはそれが初めての先輩とのまともな会話だったので、印象はかなり悪かったのではないかと推測できる。

 それに、みんなが騒いでる席から外れてひとりカウンターで飲んでいる姿が色っぽくて一目惚れした直後に告白、などと書いてしまうと、たしかに「勢い」としか思えない。翌朝の土曜に目が覚めて、私は酷くそれを後悔したのだけれど、次の出勤日に先輩を見かけたときにトキメキを感じ、決してそれが気の迷いなどというものではなかったのだと気づくことになる。

 しかし繰り返すように、私と先輩は業務上ほとんど関わることがなく、それこそ会社の飲み会に嫌々参加したときにしか話す機会もないような関係性だった。連絡先も知らなければ、お互いの趣味も知らない。そして私はバカなことに、日によって程度の差はあれど、毎回ほどほどに酔った状態で、先輩に対して「好きです」といい続けてきたのである。返事など、わかりきっているのに。


「好きです」

 私の告白に、女性店員の方が驚いた様子だった。告白を受けた先輩の方は、いつものことだと言わんばかりに驚かず、少しだけ微笑む。というよりは、呆れたように笑ったというべきだろうか。

「酒に力を借りずに、か」

「はい」

「まあ、何にせよ俺の答えは変わらんさ。俺はひとりでいい。恋人も友人もいらない」

「ええ、わかってます」

 だが、今日はもうひとつ、伝えておきたいことがあったのだ。伝えるべきことだと、ひとりで思っている。それを聞いたところで、今更になって彼が自分の考えを改め、いくらかの紙幣をテーブルに叩きつけたのちに、私の手を取って店を出るとは思えない。いうなれば、自己満足だった。伝えなければならないのは、私の心の問題だ。先輩からすれば、その情報には何の価値もなく、それどころか、先の告白に対して、叱責するかもしれない。

 私は近々、結婚する。

 30歳になり、母に急かされ、だいぶ弱りきった祖父母のためにもと婚活を始めてみたところ、意外とすんなり、相手が見つかった。特別顔だの声だのが好みというわけではないが、一緒にいると安心することが多く、先輩には悪いが、ひとりで生きていくリスクを考えると誰かと一緒に暮らしていた方がいいはずで、その「相手」として不足のないような相手と、偶然出会うことができたのだ。

 だが、私も向こうも、そう大々的に結婚したよ! というアピールがしたいわけではなく、むしろひっそりとしていたい想いがあった。それゆえ、私は結婚しても相手の姓をもらうことなく、今まで通りに生活をするつもりでいる。もちろん、書類上どうしても、社内の誰かには結婚したことを伝える必要があるが、式を挙げるようなこともしないので、不必要に人に知られる心配はないだろう。報告すべき私の上司は、いわゆるバツイチの女性であるし、夫婦別姓だとか式を挙げないとか、できるだけ秘密にしておきたいなどといった私の想いを汲み取ってくれることだろう。

 指輪をつけることもない。見かけの上では、何も変わらないのである。

 もちろん、彼がそれを知ることもないだろう。会社でも、プライベートな場所でも、関わり合いがないのだから。

 それでも先輩に知ってほしいと思うのは、きっと私が、何かしらの返答を期待しているからだ。もちろん先の想像のように、私を奪い去っていくようなことはありえない。だがそれでも、「そうか、すまなかったな」という謝罪だとか、「幸せにな」という祝福だとか、何かしらの、反応を欲しているのだ。


「好きです」

 それでも。

 私は、報告ができなかった。ただひたすら、これまでよりもしつこく、同じ言葉を繰り返すばかり。好きでしたと、過去形で言えたのならば、まだ自分のこの想いを棄てた気分になれたのかもしれないのに、私は過去形にすることも、これから起こるイベントの報告もできない。

「先輩のことが、好きですよ、私」

 あまりにも反復するものだから、さすがに彼の方でも何か異常を感じているはずだが、先輩は私を止めることなく、ただこぼれていく言葉に目を落としてくれた。紙ナプキンの上に、絞り尽くされたレモンが置かれている。私のジンジャーエールは、ほとんど水になっていた。

 涙の代わりに、いつも通りの告白が流れていく。先輩は、肘の近くにあった眼鏡をジャケットの胸ポケットに差し込んで、低い背もたれに寄りかかる。グラスについた塩の雪は、温かい光を浴びてキラキラと光っている。誰かがひとしきり泣いた後にできた結晶のようだ。

 カウンターの木目は、ほとんど真横に、平行して走っている。どこまでいってもそれはぶつかることなく、途中で切断され、材木になったのだ。もしかすると、カウンターとして利用される前は、この木目はどこかで交わっていたかもしれない。テーブルの端、切断箇所よりももっと先のどこかで。

 顔も、まぶたも熱くない。揚げ物のにおいがする。照明は温かい。グラスが汗をかいている。

 ジンジャーエールは、辛うじて発泡している様子だった。氷が溶け、薄くなっても、しぶとく、ゆっくりと、気泡がのぼっていく。10年経っても止まらぬぞというしぶとさだった。もう、止めてしまえばいいのに。諦められないといった様子で、ふつふつと、いつまでも、抑えられないでいる。

「好きです」

 これで、何回目だろう。数える気にもなれないが、もしかしたら先輩は数えているのかもしれない。飲み会が解散になったら、先輩はその回数を教えてくれるだろうか。わからない。本当に私は、この人のことを一切知ることができなかった。

 早く言わなければ。そのために、散々自分を奮い立たせたのに。なのに、結婚するんです、その一言が言えないでいる。


 頭上から、サックスの音。ジャズは、大人の雰囲気を演出してはくれるものの、告白する勇気を奮い立たせることはない。

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