靴の下の100円玉

宇苅つい

靴の下の100円玉

■■01


 年末年始に向けて、街が安っぽくも無用に活気づくこの季節。

 軽やかに流れるクリスマス・ソングに、歳末助け合いの街頭募金を呼びかける、少女達の声が混じる。


 僕は、通りに居並ぶショーウィンドウの群れを、見るともなしに眺めながら、ぶらぶらと歩いていた。そんな所在なげな僕の影がウィンドウの端に映る。フケてきたなぁ、と思った。ようやく四十の坂に足を掛ける歳の男が言うのも何なんだが……。髪にも白いモノがちらりほらりと出始めたし、毎日の通勤電車に遅れぬように走る時の足取りも、昔と違ってトタトタと何となくおぼつかない。何よりもすぐ息が上がる。


 喰った物が縦に伸びた黄金時代はとうの昔に過ぎ去って、今では全て腹に付く。今度のボーナスでは、またスラックスを買い直さないとならないだろう。妻のため息顔が目に浮かぶ。


景気は上向きだの、もうこれ以上の下降はないだの。 お偉い政府と、その子飼いの有識者サンは、そんなおためごかしを並べ立てるが、はてさて、どうだか。  現在の懐 事情には、まだまだスラックスが買える程度の余裕があるだろうが、この先どうか、と訊かれれば、ちょっと首をひねる感じである。

 拠り所の我が社が、ヤバイらしいと聴いたワケではモチロンないが……絶対安泰との保証だってある筈もない。


 例えば、な話だ。もしものその時。妻子を抱えて、僕は一体どうするんだろう?

 もうすぐ四十。もう四十。たかだか四十。されど四十。

 四十という、この微妙極まるお年頃を、どう形容すべきかが分からない。

 まあ、世の中、なるようにしかならないのだろうが……



 コツン……と。

 小さな何かがつま先に当たった感触がした。

 僕の靴に蹴られたそれが、チャリン……と音を立てて転がる。

 拾ってみた。100円玉だ。誰かが落としたものだろう。


 手の平に載せた銀色の硬貨を見詰める僕と、幼い日の僕が重なった。軽い既視感。デ・ジャブー。

 ……そう。あの日の僕もこんな風に、手の中の100円玉をじっと見続けていたんだった。


■■02


 小学五年生だった。夏休みがとても待ち遠しい、クソったれに暑い日曜日。

 約束していた友達とのサッカーを断わった僕は、いつもの公園に行くことも出来ず、ふて腐れて、線路沿いの道を、家に居るだろう母親に向かって、ひたすら悪態をつきつつ歩いていた。


 この前、返して貰ったテストの点数が惨憺 たるものだったのだ。あんまりな点だったので、親に見せる勇気が湧かない内に、同級生の親の口からバレてしまった。最悪である。


 鬼の面を付けてくれた方が、まだしも……と言った形相の母は、罰として、今後一ヶ月のお小遣いの差し止めを僕に宣言したのだった。


「親なんて、子供の自由をもぎ取る名人だ。権利を奪う天才だよ。お小遣いナシなんて、キホンテキジンケンのガイシンだ! ん? シンガイだったっけ?」

 元々、少ない小遣いである。直前に、マンガを買っていたこともあって、僕の財布は残金たったの10円という、大した情けなさだった。


「10円だよ、10円。ジュース一杯、アイスクリーム一本買えないよ。こんなんであいつらとなんか遊べないよ」


 当時、僕らの間ではサッカーが人気だった。ボールをぎゃーぎゃーわいわい、こけつまろびつ追いかけて、汗だくの泥まみれのぐちょぐちょになるのだ。そして、公園通りの角にある富士見商店へ行って、店のおばちゃんのしかめ面を眺めつつ(僕らの靴やシャツに付いた泥が店を汚すからだろう)、アイスを買う。また公園に駆け戻って、ジャングルジムによじ登り、思い思いの高さからアイスを頬張る。


 あの時間がたまらなかった。僕たちは誰も特別サッカーがやりたいワケじゃなかったと思う。ただ、汗だくの泥まみれのぐちょぐちょでみんなしてアイスを食べる。その連帯感が好きだったのだ。ただ無性に何となく、それが楽しかったのだ。サッカーはその為の単なる通過点であり、ジャングルジムでのアイスこそ、その日のメイン・イベントなのだ。小学五年生の僕たちは、一様にそういう時期だった。


 だからこそ、己の招いた不幸とは言え、母から与えられた処罰は、当時の僕には痛すぎた。今頃はきっと、みんなして富士見商店に買い出しに行っている頃だ。でも、僕はアイスの袋を口にくわえてジャングルジムには登れない。今日も明日もあさっても、ずっとずっと一ヶ月も!


 僕は半ばベソをかきながら、

「お母さんのバカ、ブス、デブ」 と、思いつく限りの呪いの言葉を唱えていた。

 電柱の影が濃かった。セミがジワジワジワジワ、ひっきりなしで鳴いていた。


■■03


 前を歩く男の人に気づいたのは、当然といえば当然だ。

 白いポロシャツにグレーのズボンをはいたその人は、ゆっくりとだが脇目も振らず、まっすぐ前を向いて歩いていた。白い犬を連れている。正確には、犬がそのおじさんを連れて歩いている、と言った方が良いかもしれない。おじさんは真っ黒のサングラスを掛けていて、犬の腰に巻かれたベルトの端を握っていた。


 テレビで観たことはあったけど、盲導犬に導かれる視覚障害の人を間近に見るのは始めてだった。僕は歩調をゆるめて、犬とおじさんの後を付いていってみることにした。


 訓練された犬、というのは、スゴイものだと思う。白い犬はおじさんに、歩道の微細な段差を知らせ、車の有無を知らせ、信号機の存在を知らせた。僕の家で犬を飼ったことはなかったが、従兄弟 のベスやお隣のチロちゃんなんかと、その犬はゼンゼン違っていた。後ろ見にも、おじさんは真剣に歩いている様子だった。そして犬はそんな飼い主を親身に一心に導いていた。


 いつ会っても、舌をだらしなくベロンと垂らして、犬小屋の影で寝そべっているだけのベスなんか、あんなの飼ってて楽しいのかな? と、疑問に感じることがあったけど、僕は前を進むあの犬なら、飼ってみたいな、とそう思った。チロちゃんみたいに、キャンキャン甲高く吠えたてたりもしないし。チロちゃんは隣のおばさんにそっくりなんだ。顔の造作が真ん中にキュっとまとまってる所とか、鼻の上にいっぱい皺を寄せて、うわさ話に聞き耳を立てる所とか。


 前を歩くおじさんが、不意に立ち止まったのは、自販機の前だ。

「ストップ」 と、小さく犬を制したおじさんは、ズボンのポケットをごそごそ漁って、小銭を取り出した。暑いから、ジュースでも買おうとしているのだろう。いいなぁ……と思った。僕も冷たいものが欲しかった。いつもならアイスを食べてる筈なのに。


 僕たちの距離は五メートルほど離れていたけど、いつまでもおじさんと犬にくっついて歩くのはヘンに思われるかな? と、そろそろ感じ始めた時だったので、一旦、つられて歩みを止めてしまったものの、僕はまた歩き出した。おじさんを追い抜いて、踏切を渡って、土手沿いの道を帰ろう、と思った。公園と富士見商店の前は通りたくなかった。

 僕はアイスを買うお金すら持たない、可哀想な悲劇の子供だ。



「お……っと……」

 おじさんの声と、チャリーンという金属音が重なった。振り向くと、焼けたアスファルトの上を銀色の光が転がってくる。


 カーン カーン カーン

 踏切の遮断機が締まり始める。コロコロと転がる銀色の硬貨は、恐らくは僕にしか聞こえなかっただろう、チンという微かな音と共に、僕の足先の、そこで止まった。100円玉がそこに一枚。


「ありゃ、どこに落ちたかな? 転がって行っちまったか?」

 カーン カーン カーン

 遮断機の警笛はまだ続いている。おじさんは腰をかがめて、周囲を手探りで捜している。


 ゴウーという地響きをたてて電車が行く。警笛の音が僕の心臓のドクンドクンと鳴る音よりも小さく感じるのは何故だろう?



 僕は。僕の右足は、その時、既に100円玉を踏みつけていた。


■■04


 僕はその場に凍り付いたように動けずにいた。

 右足の運動靴の底を通して、固く、平べったいものを感じる。ドックンドックンと心臓が喚 く。


 白い犬が、僕の前にやって来ていた。僕の足の匂いをフンフンと嗅いで、そして、くっと僕の顔を見上げてきた。暑いのだろう、舌をダラリと垂らし、ハッハッハッ……と忙しない息をしながら、犬は無言で僕を見上げた。警笛はもう止んでいた。静かだった。セミの声さえ聞こえない。犬の息づかいと僕の心臓の音だけが、ただその場に満ちている。


 双つの瞳が僕を見ていた。真っ黒い目玉だった。穏やかな目玉だった。綺麗な目玉だった。僕はワーンと鳴きたくなった。セミの群れみたいに鳴きたくなった。


「おい、ハーレー。無くしたもんは仕方ない。もういいから行くよ」

 おじさんの声に、犬はすっと一歩下がった。そのままきびすを返す。ハーレーと呼ばれた犬は、もう二度と僕を見なかった。おじさんをさっきまでと同様に導きながら、静かに歩み去っていってしまった。



 僕は何をしたのだろう?

 右足の下。固いしこりが、そこにある。


 誰も通りがかった人はなかった。僕と、目の見えないおじさんと、犬が居ただけ。

 あの警笛にかき消されて、きっと、おじさんは僕の存在すら気づかなかった筈だった。後ろを歩いていた僕は、おじさんの横を通り過ぎ、遮断機の下りるより先に踏切を渡って行ってしまった。きっとそう思っていた筈だ。だって、そうでないなら、おじさんはきっと、僕に向かってこう声を掛けただろう。「すみませんが、そこいらにお金は落ちていませんか?」 って。


 僕は足をどけ、靴の下から出てきた100円玉を大急ぎで拾い上げた。誰も見ていないかとキョロキョロ辺りを見回して、キョロキョロするのは不審だと、すぐに止めた。今走ったりしたら絶対ダメだ。ゆっくりと普通に歩くのがいい。でも、頭で思うのとは逆に、足は勝手に早足になる。さっき、僕の頭が100円玉だと気づくより早く、右足が動いていたように。


 大丈夫。見ていたのは犬だけだ。犬は決してしゃべれない。第一、盲導犬は訓練された犬だから、人間に吠えたり噛みついたりなんかしないんだ。例えそれが悪人でも。


 違う。僕は悪人じゃない。だって、僕は、ただ落ちていたお金を拾ったんだもの。そうだよ、ただそれだけさ。たった100円玉一枚、幼稚園児ならともかく、小学校の高学年にもなって、交番に届ける子供なんかいやしない。僕は全然悪くない。お金を落とした奴が不注意なんだ。


 この100円玉があれば、僕は明日、公園に行ける。みんなと富士見商店でアイスを買って、ジャングルジムのてっぺんによじ登って食べるんだ。大人にとっての100円なんて、どうでもいいお金さ。だから、おじさんは簡単に諦 められたんだ。僕は、僕には……


 僕の手の中に、銀色の硬貨が一枚握られている。僕はそれをじっと見詰める。

「だって僕はみんなとアイスを食べたいんだよ…」



 その日の夕飯を僕はあんまり食べられなかった。僕が充分に反省していると思ったらしいお母さんは、僕にいつもと同じ額のお小遣いを渡してくれた。


■■05


 町の街路樹が赤く色づく秋になった。

 もう、みんな、サッカーなんかしなくなっていた。アイスの美味しい季節は終わっていたし、今は泥まみれになるのも興ざめだった。代わって流行っているのはコックリさんで、参加した女の子の一人が興奮のあまり失神したものだから、先生からも親からも「止めなさい」と、固く言い渡されていた。


 ダメと言われたら、どうしてもやりたくなるのが子供だと思う。当然だけど、みんながこっそりやっていた。でも僕は、決してその中に加わらなかった。


「霊なんて信じないね」 と、僕は言う。

 毎晩のように見る夢があった。僕は教室でクラスメートといっしょにコックリさんをやっている。口の端だけちょこっと上げてフフンっと嗤 うクセのある、学級委員の佐藤さんが、「コックリさん、コックリさん」と、霊に向かって呼びかける。


「コックリさん、コックリさん。そこにいらっしゃいますか?」

 僕たちの指を載せた10円玉がススッと動く。

「は」……「い」

 誰かのごくりと生唾を飲み込む音がする。

「コックリさん、コックリさん。質問に答えてくださいますか?」

 また、動く。佐藤さんの口の端が、ひょいっと上がった。


「コックリさん、コックリさん。では、この中で一番『悪い子供』は誰ですか?」


 10円玉は紙に書かれた文字の上を移動する。

 机に広げた紙の上に、動物の顔が浮かび上がった。キツネじゃない、犬だ。白い犬だ。あの犬、ハーレーだ。



「霊なんて信じないね」 と、僕は言う。

 僕は、コックリさんなんて悪い遊びはさっさと無くなればいい、と思っていた。


 白い犬と歩くおじさんと再び出会ったのは、丁度そんな頃だった。


■■06


「誰だ? めくらが面白いのか? ずっと付いて来られるのは 迷惑だ」

 おじさんが振り返りもせず、そう言った。僕はギクリと飛び上がる。どう切り出したら良いものか、勇気が出せないでいる内に、また叱られてしまった。テストの時とおんなじだ。でも、同じのままじゃあいけなかった。きっと絶対いけなかった。


「あの、僕、違います」

「あぁん?」

「僕、おじさんの100円、盗ったんです。僕はおじさんに100円返さないといけないんです」

「何だ、お前?」

「線路沿いの自動販売機でおじさんがジュースを買おうとしてたんです。でも、お金が落ちてそれが僕の方に転がって、遮断機が下りてきてカンカン鳴って、犬が僕を見てたんです。おじさんは気づかなかっただろうけど、ハーレーはずっと見てたんです!」

「何だぁ?」


 夏の日と同じように、おじさんは濃い色のサングラスを掛けていた。きっと、その下のおじさんの目はびっくり見開かれていたに違いない。

「おじさん、ごめんなさい。ハーレーもごめんなさい」


 僕はもっと、順序立てて、きちんと上手に、おじさんに説明したかった。男なんだから泣いたりせずに、ちゃんとしっかりと謝りたかった。でも、そんなこと出来なかった。僕は子供だったから。まだ小学五年の、犬よりも馬鹿な子供だったから。


 わーん、わーん

 僕は大声で泣き続けた。夏のセミみたいに泣き続けた。

 ハーレーが僕を見上げていた。真っ黒な瞳が僕を見ていた。


■■07


「……あぁ、やっと分かった。あん時の話か」

 僕はおじさんと土手に座っていた。おじさんが真ん中で、ハーレーが左。僕が右側だった。


「いや、突然、大泣きするもんだから、往生 したよ」

 土手にはコスモスが咲いていた。小さな羽虫が花から花に飛び回り、そしてハーレーの鼻先に留まった。目を閉じて寝そべっていたハーレーが片目だけ開けて、鼻をぴくぴくさせる。この犬は本当に全然吠えない。


 僕はまだグスグスとしゃくり上げていたが、さっきよりはもう随分落ち着いていた。

「本当にすみませんでした。これ、100円、お返しします」


 僕はおじさんの手に100円硬貨を握らせる。おじさんは「ん……」と言って受け取ってくれた。そのまま確かめもせずにポケットに突っ込む。まあ、おじさんは目が悪いんだから、見て確かめるワケにはいかないんだろうけど。


「なぁ、坊主 」

「はい」

「どうして返す気になったんだ? オレはこんなで目が見えないし、覚えてるどころか、ハナから気づいてもいなかったんだし。このままずっと知らん振りしてれば済んだんじゃないか。そうだろう?」

「だって」 と、僕は言う。

「僕、ハーレーと目が合いました」

 僕の答えに、おじさんが笑う。


「ハーレーは確かに賢い犬だが、人間の言葉を話したりはしないよ、絶対」

 そうじゃなくって、と僕は思う。どう言ったら説明出来るんだろう。ハーレーの大きな真っ黒い双つの瞳に、見詰められた僕の気持ちを。


「まっすぐ僕を見てたんです。瞬きもせずに、じっと僕の目を覗き込んで来たんです。僕はあの時、ものすごく……恥ずかしかった」

「恥ずかしい?」

「ハーレーはおじさんの目になり、杖になって、おじさんの為に働いている。僕はおじさんの目が悪いのをいいことに、おじさんのお金を盗んだ。僕は犬以下の人間だと思ったんです。ハーレーはそんな僕をじっと見詰めていたんです」


「犬以下の人間か……」

「はい」


 最後の方は、また涙声になってしまった。僕はズズっと鼻をこすり上げる。おじさんが「ほれ」 っと、鼻紙をくれた。

 土手の下の方では、セイタカアワダチ草の黄色い穂綿みたいな花が咲いている。風に揺れて咲いている。


■■08


「坊主、お前何年生だ?」

「五年生です」

「そうか、五年生じゃあ、新聞とかニュースとか観ないよなぁ」

「テレビのニュースは、朝、お父さんとご飯を食べながらいっしょに観ます」

「じゃあ、覚えてないか? 夏に騒がれてたニュース。毒入り缶ジュースの事件」


 騒がれた、といっても、それはほんの二週間くらいの間だった。毒入りのジュースがこの地域の自販機の中に置かれていた事件だ。幸い、缶が二つも取り出し口にあるのを不審に思った人が、すぐに警察に届け出たので、毒を飲んだ人は居なかった。犯人もすぐに捕まった。大学生の犯行だと言っていた。


「その毒入りジュースだがな、どうも置かれていたのがあの自販機らしいんだよ」

「は?」

「あの線路沿いの道は、人通りが少ないよな。そこにポツンとあるのが、あの自販機だ。犯人はあの日、あの自販機に毒を置いて行ったんだよ。いや、何時頃に置いたかまではオレも知らないけども、オレがジュースを買おうとしたあの時、既に毒入りジュースがそこにあった可能性は高いと思う。そうだったとして、どうなると思う?」


 おじさんが僕の方を向いて、にやっと笑った。

「オレは目が見えないから、きっと取り出し口に置かれた二本の缶には気づかなかっただろうとは思わないか? 報道ではプルトップが少し歪んでいて、しかも缶がぬるかったから、怪しい、と思ったそうだけど、オレは缶の歪みになんか気づけないし、ぬるくても、配送車が来たばっかりだったんだな、ついてねぇ、くらいにしか思わない。そのまま飲むさ。飲んでみて、自分が選んだジュースと違った種類だったとする。それでもやっぱりオレは不思議に思わないんだよ。ボタンを押し違えた、と舌打ちするだけさ、そんなことはしょっちゅうだからな……。坊主、分かるか?」

「何が?」


「お前があの時、落ちた100円玉を踏みつけてなけりゃあ、オレは、あの自販機でジュースが買えたんだよ。オレはそれをごくごく一気に飲み干せたワケだ。二本の缶の内、一本がセーフでもう一本がアウト。確率は五分と五分だった。オレはどっちの缶を手にとっていたんだろうな? それは永久に分からない。お前さんという存在が、確率をゼロにしたからだ……分かるか?」


 僕は、何と言ったらいいのか。ただ、バカみたいに口を開けておじさんの顔を見ていた。

「犬の目を見て、自分の間違いに気づける内は、何度だってやり直せる。大事なことだぞ、よく覚えておけ、恩人さんよ」




 僕はおじさんが土手を下って見えなくなるまで手を振った。おじさんには見えないだろうけど、一生懸命手を振った。おじさんは時折立ち止まって、こちらを振り返ってくれた。ハーレーの尻尾が揺れているのが遠目にも分かった。おじさんとハーレーは、コスモスとセイタカアワダチ草の中に消えていった。


■■09


 実を言うと、話はこれで終わらない。終わって良さそうな話だけれど、もうちょっとだけ先がある。僕は六年生になっていた。もう最上級生だ。春の歓迎遠足では、新一年生の手を引いて歩いた。来年は詰め襟を着た中学生になる。やっぱりサッカー部に入るつもりだ。


 おじさんとハーレーには、その後一度も会っていない。これから会うこともないように思う。おじさんは今、塀の中に居るのだ。おじさんは牢屋に入れられた。



 僕が四角い画面の中に、白い毛並みの犬と、黒いサングラスの飼い主を見つけたのは、いつもの朝のニュースでだった。

  『空き巣狙いの常習犯、ついに逮捕!

   盲人を装い、家々を物色。盲導犬を模した犬を見張り役に、犯行を繰り返す』


 現地からの様子を早口に伝える、髪の長いリポーターの声なんか、僕は聞こえちゃいなかった。おじさんが泥棒だった。ハーレーはその仲間だった。嘘だと思った。僕はホンモノの泥棒から、お金を盗ったっていうの? そんなの嘘だ。冗談にしたって出来すぎだ。


 だって、僕はハーレーのあのまっすぐな瞳を今でもはっきりと思い出せる。黒い、澄んだビー玉みたいな二つの目玉を覚えている。おじさんだって、悪い人になんか見えなかった。大きな温かい手をしていて、泣いている僕の頭をずっと撫でてくれたんだ。

 間違いだ、と思った。見間違いだ。自分とそっくりな人がこの世には三人も居るんだって。今、テレビに映っているのは、おじさんのそっくりさんなんだ。きっとそうだ、そうだ、そうだ。そうだって、言ってよ。ねぇ、おじさん!


 思い返すと、僕はおじさんの名前を知らないんだった。大切なことだったのに、おじさんに名前を聞くのを忘れてたんだった。そういえば、おじさんもあの時、僕の名前なんか一度も聞いたりしなかった。「坊主」って呼んで、ただ頭を撫でてくれた。


 僕は二階の自分の部屋に駆け戻った。そうして、頭から布団を被って、あの日のようにわーわー泣いた。だって、他にどうしろって言うんだろう? 何が出来るって言うんだろう? 僕は小学六年生で、最上級生だけど、子供だった。お父さんとお母さんがやって来て、「一体どうしたって言うの?」 とか、そんなことを言っていた。


 僕はそのまま学校を休み、その夜から熱を出して、更に三日も布団を被ったままだった。お母さんは突然の事にオロオロしていたけれど、お父さんは「遅すぎる知恵熱だ。治ったら秀才になるんだよな?」 っと、笑ってくれた。僕は三日分泣き続けて腫れあがったまぶたで「へへ……」 って笑った。充分に泣いた気がした。泣くって気持ちが良いことだって、赤ちゃんの頃は知っていたけど、いつの間にか忘れてしまっていたように思う。泣くのは子供の特権だ。僕は特権を存分に行使したのだ。


 だから、もう明日からは泣かない大人になろうと思う。急にはもちろん無理だけど、少しずつ大人になっていきたいと思う。


■■10


 クリスマス・ソングは途切れない。街の人並みも途切れない。

 ……今、僕の手の上に一枚の100円玉が載っている。


 僕があの日、100円玉を踏みつけてしまった行為は、結果的におじさんの命なんか救っちゃいない。おじさんは盲人の振りをしていただけだったから。本当は黒いサングラスの下から、全てを見ていた筈なのだから。自販機の取り出し口に不審な二つ目の缶があれば、ちゃんと気づいただろうし、プルトップの異常だってきちんと見抜けたことだろう。


 僕が100円玉を踏みつけて、素知らぬ振りを決め込むサマも、当然のことお見通しで、それを叱りつける事が出来なかった理由 は、おじさん自身、自分が盲人だという嘘を突き通さなければならなかったからだ。きっとそうに過ぎないのだけど。


 でも。だけど。たったそれだけだったのかな? と、思うのだ。

 犬の瞳に射すくめられて、身動き出来ずに震えていた幼い僕の前から、犬を引き離してくれた、「もういいから行くよ」という声を覚えている。

 突然、毒入りジュースの話なんか始めて、僕を『恩人』と呼んだ、あの声だって覚えている。


「犬の目を見て、自分の間違いに気づける内は、何度だってやり直せる。大事なことだぞ、よく覚えておけ、恩人さんよ」


 どうして、おじさんは、僕を『恩人』だ、などと呼んだのだろう?

 おじさんは、あの日の僕に、一体何を見たのだろう?



 ドンッ

 僕に小さな男の子がぶつかった。

「すみません。……こら、走っちゃダメだって言ったでしょ?」 母親が子供を引き戻す。

「いや、こんな往来で立ち止まっている僕の方が悪いんです。ごめんね、坊や」

 にぃぃ、っと笑った顔は、息子の小さい頃にそっくりに見えた。あの子も末はガキ大将だ。


 バイバイっと手を振って、歩き出す。この寒い中、声を涸らして頑張っている歳末助け合いの募金箱の一つに、手の中の100円玉をポトンと落とす。横一列に並んだ少女達が一斉に「ありがとうございまーす!!」と、声量を上げたので、びっくりした。


 ああ、何となくいい気分だ。妻と娘と息子のために、ケーキでも奮発して帰ろうか……

 

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