一章 全てを忘れた怨霊

第2話 怨霊のお散歩

 私の名前は何だったか、『木口』、それも何だったか覚えていない。

 ただこの手に持っている三つの物は、よくは分からないが私の大切な物で、私の全てだということは分かる。革製の本のような物はどれだけ力を込めても開かない。


「お疲れ様です前沢さん。朝早いですねー、課長こわいっすわー」

「大丈夫だろ。昨日残業してまで最終確認したし、間違いないわ」

「そっすよねぇ」


 明るい空の下、今は朝というものなのか、スーツを着た男性や女性が行き来して他愛もない会話が私の耳にも入ってくる。そして私の身体を透き通っていき、誰も私の存在に気が付かない。

 この人たちは人間だ、私も前は同じだった。でも今は違う、それは分かる。私の身体は鏡には映らない。しかし通り過ぎる人間達を見ていると、私と違うのがわかる。みんな腕が二本で脚が二本で、頭も一つだ。でも私は少し違った。確認できる範囲でだが、腕が右肩に二本、左肩に一本だ。


 私はどうやら人間ではなくなったらしい。それはたまにいる私と目が合う人間でも確認できた。人間は私を一瞬でも見ると怯えている。つまりはそう言うことだと思う。


「オあァアアァああァ」


 きた。この叫び声は吉田君だ。


「おあぁあああああああああ!! 」


 私が吉田君の方を見ると彼はビクッと身体が揺れ、お辞儀をすると普通に話しかけてきた。


「おあぁああぁ――ン、コホン。調子どおっすか。えっと、相変わらず美人っすね! なにか先輩」


 この吉田君は私に物怖じせずに話しかけてくる唯一の同じような存在だ。『なにか』とは何かと私も思ったが、吉田君が言うには私には名前の記憶がなく、『何か分からないからなにか』と呼んでいるらしい。

 何か分からない中でも吉田君が唯一分かったらしい私の情報は、私という存在はつまり、今まで会ったことの無いほどの強い怨念がこもった怨霊というモノらしい。つまりは幽霊だ。


 私は普通の人には見えないが、見える人には見えているらしい。しかし見える人間は私を見た瞬間に一目散に逃げていく。それは私と同じ幽霊であっても同じで、私を見るとみんな逃げていく。すでに死んだ者同士の幽霊が、なぜ私から逃げていくのかが納得できないので、吉田君に聞いてみた。


「それは、なにか先輩の思念というか、怨霊としての格が違いすぎるからっす。それに、腕が多い以外そんな綺麗に体保たれてるなんて、どんな死に方したんすか? 」


 私の死因は分からない。覚えていないのだ。しかし今はそんなことより、私が気になるのは仲間のはずの幽霊がなぜ私を避けるかだ。幽霊という事はもう死んでいるという事だ。そんなものが何故私を今さら恐れるのかがわからず、また吉田君に歩きながら聞いてみた。


「幽霊にも死があるんすよ。人間は死んでも俺達みたいな幽霊になるけど、幽霊は死んだら消えちゃうんすよ。魂の消滅ってやつっすねー」


 『へー』と返事をする私をみた吉田君は、私の右肩の二番目の腕をみた。そして私に見るように促したので、私も自分の右腕をみた。――なにかついていた。


「あぁ、犬の霊っすね。うわ、……見てください。コイツ虐待されてたっぽいっすよ、傷だらけ……」


 身体は黒く溶けており、傷だらけで目が真っ赤で、その眼から血の涙を流す大型犬の幽霊は私の腕に噛みついて離さない。


「うわ、なにか先輩! あそこあそこ! あいつっすよ」


 吉田君の指さす方を見てみると、容の酷く崩れた女性の容姿を持つ幽霊がこちらに近づいてきている。非常に珍しい、というか初めて会った。私に敵意を向けて向かってくる幽霊だった。

 吉田君の場合初めて出会ったときは、私が歩いている時にお尻の部分を執拗に触ってくる痴漢と言われる人間のような幽霊だったが、敵意は感じなかった。しかし今向かってきている幽霊は違う。明らかに敵意を感じ取れる。


「ダメダメダメダメダメダメダメダメダメ、ワタシ、ヨシッテイッテナイ、シツケ、シツケシツケシナクチャ、シツケ。ダメダメダメダメダメ」


 私は初めての敵意にびっくりして怖くて体が動けなかったが、吉田君の絶叫で体が動いた。


「キメェ――――ッ!!」


 吉田君は向かってくる怖ろしいモノに『キメェ』といって叫ぶと、私の後ろに下がってからボソボソと耳打ちをしてきた。


「俺はギリやれますけど、先輩ならあんな動物虐待女の幽霊なんてなんでもないっすよ。挨拶してやりましょう! ご近所付き合いってやつっすよこれが! 」


 私は怖かったので、そう言う吉田君を向かってくる幽霊に向かって投げつけた。


「え? 」


 吉田君は真顔で幽霊に飛んで行ったが、私に噛みついていた犬の霊が吉田君の軌道をずらした。弾き飛ばされた吉田君は家の壁にぶつかると思ったが、流石は幽霊すり抜けた。

 動物虐待をしていた女の幽霊とされる怖ろしい存在は、ブツブツとなにやら『ダメダメ』といいながらこちらに向かってきている。するとどうだ、いきなり走って襲い掛かってきた。手には皮のベルトを持ち、振り回して私を襲う。


 恐怖のあまり私は目を瞑って手をはらったが、なにかに当たる感触があった。


「ダメダメダメダメ、コンナノダメ、ダメダメ――」


 私のはらった手は、目の前の幽霊を引き裂いていた。


「なにか先輩酷いっすよ、痛いっす」


 吉田君が建物をすり抜けて歩いて来ると、先ほど吉田君とぶつかった犬の霊が吉田君を走り抜けて、私に襲い掛かってきた。――、いや、微妙に違う。私ではなく、目の前の引き裂かれた幽霊に襲い掛かろうとしている。

 目の前の幽霊は残った片腕で犬を制そうとしたが、どうやら彼女の命令には限界だったらしい。犬は元の飼い主をむさぼった。


「ア、ダメダメダめだめだめ、いたい。いたいー! ごめん、ごめんねってぇぇええ! えさあげないよおおおおおおおお。糞ぉぉおおおおどいつもこいつもおおおおお!! 」


 犬の霊は元飼主の霊を喰い尽くすと、身体がみるみる大きくなり、私の身長をこした。幽霊は怨念が強いほど、そして思いが強いほど強力になると吉田君は言っていたが、この犬の霊はどうなってしまったのだろう。飼い犬の世界は狭い、基本的には飼い主が飼い犬の全てだ。その世界に何を想ってこの犬は怨霊となったのだろうか。

 喰われた飼主の霊がもっていた皮のベルトには犬の毛が多く挟まっていた。犬は傷だらけで惨い姿だ。やはり虐待なのだ。おそらく犬は、飼主に希望を持っていたが、度重なる虐待で希望は絶望に変わり、いつしか飼主を恨んで死んでいったのだろう。しかし、その飼い主がいなくなった後はどうする。向かう場所の無い怨念は増大し、私に牙を剥いた。


「ちょw 先輩! コレは俺死にますわw なにか先輩お願いしますよ! 」


 吉田君はそう言って私の背後に回って、少し遠目で見守り始めている。そして前を見ると、私を喰いちぎろうとする黒くて大きくて、おぞましい姿の怨霊犬がそこにいた。

 怯える私に犬は激しく噛みつくが、痛くない。目を開けてみると、犬は私から口を離しており、何故か牙が折れて口が崩壊して絶叫している。


「先輩! やっちゃえ! 」


 吉田君はそうやって叫びながら走って近づいてきた。

 やっちゃえと言っても、恐いし、かわいそうと私は考えたが、犬の止まらない血の涙を見てなにか分からない心のようなモノが湧いてきた。


「先輩、その子、辛いんすよ。消滅させた方がこの子のためかもしれないっすよ」


 しばらく考えたが、吉田君のいうことに私も賛同できた。このまま永遠に消えない恨みを抱いたままさ迷い歩く運命ならば、だったらいっそ、ここでこの子を終わらせた方が、幸せなのではないかと。

 私は急にこの哀れな霊が愛おしくなり、涙を流した。


「先輩、魂の消滅は魂を喰らわないといけないっす。この子のためにも、この子食べちゃってくださいよ」


 吉田君の言葉に頷くと、血の涙を流す犬の瞳を暫く見つめて、その魂を喰らった。


「あの子も本当の意味で逝きましたよ先輩。ほら、泣かないで」


 吉田君は私の頭を撫でて慰めてくれたが、私のお腹からさっきの犬が現れて吉田を唸った。

 私は驚いて自分のお腹を見るが、さっきの黒い犬の頭が私のお腹から生えてきている。私が生えてきた犬の頭を撫でてやると、犬は満足そうに頭を摺り寄せてきて再びお腹の中に消えていった。私は着ている物をめくってお腹を見てみるが、いつものお腹だ。


「喰ったモノは呼んだり警戒すると出てくるっす。そういうもんっす。慣れっす」


 吉田君はそう言うと私のお尻を触ってきたが、私のお尻から生えてきた犬の爪に引っかかれた。

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