case7『風間 茜・主婦26歳#1』

━━あなたの届けたい想いを届けます、お代は一切頂きません。━━


ある朝


 何もかも捨てて家を出ようと思った。

 ベビーベッドには娘の栞がぐっすり眠ってる。

 夫が書斎だった部屋に1人で寝ると言い出したのは栞がまだ3ヶ月の頃だった。

 この家出は彼が寝不足になるからと部屋を出たあの日からずっと考えていたのかもしれない。


「私だって泣きたくなる」

 夜中にぐずる時も、一生懸命作った離乳食を食べてくれない時も泣きながら栞を抱きしめていた。


 茜は独身の頃着ていたワンピースとハイヒールを履いて日が昇ってすぐの街へと向かう。


「離乳食は冷蔵庫に作ってあります、オムツはこまめに替えてください」

 そう書いただけの手紙をみたら彼は何と思うのだろうか。

 途方に暮れるのだろうか。


 8月とはいえまだ夜が明けたらばかりの風は少し涼しい。


 3年ぶりに履いたハイヒールはグレーのお気に入りだったものだったけど、久しぶりだとやっぱり痛くてすぐに脱いだ。


 昔観た映画のヒロインのように両手に持ってアスファルトの上を歩く、ただそれだけなのに清々しい気分になれた。


 ベビーカーを押さずに歩くことがこんなにも楽だったなんて思ってもみなかった。


 コンビニの中から、怪訝な顔で自分を見ていている人がいても、全然平気なのも不思議なことだと茜は思った。


 いつもベビーカーを押して歩く散歩道、モーニングと書いた看板を表に出している喫茶店が目に入った。

 入り口にはオープンの小さなプレートがある。


「Angel」

いつも通る道なのに気づかなかった。

(世間に取り残されているんだ)

店の前でハイヒールを履きベルが付けられたドアを開ける。

 軋んだギイと音がなり店内へと入る。


「いらっしゃいませ」


 カウンターの中から顔を上げた若い男性は多分自分と同じ位なのだろうと思った。


「モーニングをお願いします、ホットコーヒーで」


「かしこまりました、良かったら窓際の席へどうぞ、ひまわりの花が良く見えますよ」


 窓際の席はその店の小さな庭が見渡せる、ひまわりの花がたくさん植えられていて、花盛りのものやたくさんの種を付けたものなどが見える、近ごろの自分は花見る余裕なんてなかったのだと思い知る。


「お待たせしました」

 テーブルに乗せられたトーストにはバターとブルーベリージャムが添えられている。


 深煎りのコーヒーはキリッとした味と香りがする。

「美味しい」思わず声が出た。

 娘を妊娠してからコーヒーを飲むのもやめていた、出産した後も授乳のためにカフェインもアルコールも絶っていることを思い出した。

 好きだったコーヒーを辞めることも、お腹にいる子どもへの愛情だと思っていた。

 なのに、毎朝、旦那のためにコーヒーを淹れるのだ。

 そんな生活にも疲れてしまっている。


鏡の中で疲れた顔を見るのが嫌で結婚した時に揃えたドレッサーにもずっと座らずに洗面所で軽く化粧をする。


そんな日々から逃げ出したい。


一流企業に勤める夫と可愛い子どもがいるのにそう思うのは自分の我儘なのだろうか。

いちばん逃げ出したいのは自分自身からなのかもしれない。


店を出た後に、街を歩いた。

足には靴擦れも出来た、商店街の靴屋でぺたんこの靴を買い履き替える。


「履いてらっしゃった靴を袋にお入れしますね」という店員さんには「捨ててください」と伝えて店を後にした。

今の自分にはきっと似合わない。


気がつけば夜になっていた、スマホの電源は一日中落としたままで、家へ帰った。


玄関先で泣き疲れて寝てしまった栞を抱いた夫が出迎えてくれた。


責めることもせずに「お帰り」と言った夫に目を背けながら「ただいま」と答えるのが精一杯で栞を抱きしめた。


茜はその夜、夢を見た。

あの喫茶店「Angel」でコーヒーを飲んでいる夢だった。







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