case6『橋本佐一78歳・皐月76歳#1』

 

━━あなたの届けたい想いを届けます、お代は一切頂きません。━━



その日「Angel」の扉の前に立っていたのは1組の夫婦だった。

 結婚して50年を過ぎた橋本 佐一と妻の皐月。

 しっかりと繋がれた手からは、長い間一緒に歩んできた強い絆を感じる。


 二人が出会ったのは九州の田舎町幼なじみだった二人は恋をした。


 身分の違いこそあれ、二人はその思いを貫いた。

「さっちゃん良い店だね」皐月に向かって声を掛けたが、返事はなく佐一は肩を落とす。


 この数年は認知症で自分のことさえ分からなくなっている妻の皐月を介護する毎日だった。

 夜、床に入る時、皐月の左手と自分の右手を繋いだ小さな紐には小さな鈴が付けられている。

 夜中に徘徊する皐月を知らせる命の赤い糸のようだと佐一はいつも思っている。


 手を離せば皐月は永遠に知らないところへと行くのではないかと眠りも浅くなる毎日だった。


 いつしか自分のことも夫だと認識出来なくなって、毎日遠い目をしている皐月に伝えたいことがある。


 古びた扉は軋みながら開かれた。


「いらっしゃいませ」


 冬夜は窓際の席へと、二人を誘った。


「あら、初めまして」

 皐月は挨拶をした「新しい担任の先生ですね」

 どうやら皐月は中学生の頃へと戻っているようだ。


「すみません、妻はこのところいつもこんなで……意識が混濁しています」


 中学生の頃の佐一と皐月は初めて思いを伝えあった。

 その頃の懐かしい記憶だけが残っている、それは甘く優しい思い出だったのだろう。


 佐一のことは父親であると思っている。


 父親というのは、家族を捨てて町を出たはずで楽しい思い出は少なかったと聞いている、どうして自分のことを父親だと思っているのかは佐一は分からなかった。

 記憶の中で、僅かに残っている微かな小さな思い出が忘れられずにいるのだろう。


「ご注文は何にされますか?」

 冬夜の言葉に返事をしたのは皐月だった。


「ホットケーキとミックスジュースがいい、お父さんいいでしょう?」

 隣にいる佐一に向いた皐月は幼い子どものようにあどけない澄んだ瞳をしていた。


 その姿に優しくうなづいて佐一は口を開いた。


「じゃあ、それをお願いします、私は温かいコーヒーを……」


「かしこまりました」


 メニューを下げて冬夜はカウンターの中へと入って行く

 いつも右のポケットに入っている小さな石がほんのりと温かさを伝えてきた。


 自宅で介護をしていた佐一だったが、今年の春に病気だと言うことを告げられた。

 余命半年

 皐月と一緒に過ごせる優しい時間に期限があることを知った。


 二人には子どもはいない、正確には三十年前に授かったが流行病で幼い命を落とした。


「妻に……意識が混濁してしまっている皐月に約束したいのです」


 初めは途切れ途切れだった記憶が消えかけていることに佐一は戸惑っていた。

 自分がもし早く逝ったら皐月はどうするのだろう。


 生涯面倒を見てもらえるように老人ホームにはたくさんのお金をつぎ込んでいる。

 自分が看取ることはもはや不可能だということも既に分かっている。


「奥さんに何を伝えたいのですか?」


 佐一は冬夜の瞳を見つめながら声を出した。


「あの世での待ち合わせ場所です、いくら夫婦でもあの世でもう一度めぐり逢うことは少ないと聞いています、でも私は次の世でも皐月といたい」


 ぎこちなくナイフとフォークを使いながらキラキラとした目で皐月は佐一の方を向いた。


「お父さん、美味しい」

 たっぷりとシロップをかけた小さな一切れを頬張りながら皐月は笑っている。



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