6/20 「雑記バラン」

「やっぱり、業者さんが見るのは上のギザギザの数だね。少なすぎても多すぎても、安く叩かれちまう。出芽時期の温度管理を1度間違うだけで、収入が2割減っちまうぐらいさ」


 バランを栽培して40年、バラン農家の植野うえの氏は記者に対し笑いながらそう答えた。取材を行っている畑の敷地内、植野氏の後ろにあるビニールハウス。その中では、青々とその葉先を鋭利に尖らせ、まるで剣山のようにバランが茂っていた。


 バラン。「寿司を買うと入ってる、緑色の仕切りみたいなアレ」とも言われるその存在は、私達の生活にとって最早無くては生きていけないものとなっている。


 グローバル化が進み石油が輸入されるようになった近代以降、「バラン」と呼ばれるそれらは工場で人工的に作られたものがほとんどだ。数字でいえば、市場の約97%を人工バランが占めている。最近では本物のバランを見た事がない人の割合が圧倒的に多いだろう。かつて田舎で見られたバラン畑も、人工バランの登場によってすっかり過去の風景と化してしまった。日本でバランを栽培する農家は、今回取材させてもらっている植野氏を含めてもなお、全国で50件に満たないという。そんな衰退の一途を辿るバランだが、その歴史は意外にも長い。


 日本人とバランの出会いは、何と弥生時代まで遡る。

 それまでの日本人――いわゆる縄文人は、土器に美的感性を発揮した。料理に美を彩ることが器の役目。そんな信念の下、彼らは縄を用い、己がセンスをその粘土の表面に刻み込んだのだ。

 しかし弥生時代になると、技術の向上ともに土器は薄くなる。それにより縄文土器に比べその姿は実用的――あえて否定的な言葉でいえば簡素なものとなった。

 この土器の遷移については学界で様々な仮説が提唱されてきたが、昨年6月、国際信州学院大学の教授がとある論文を発表した。この変化には、とある大きなファクターが存在していることを発見したのである。


 ――そう、バランである。


 弥生時代の遺跡、ゴミなどを捨てていた場所からバランが出土したのである。これまで日本史におけるバランの登場は奈良時代だと思われていたために、これは大きな発見であった。

 残された僅かな植物体から採取したDNAを解析した結果、そのバランは同年代の大陸にも見られる野生種のものだと判明した。弥生時代渡来人によって海を渡ったのは、農耕だけではなかったのだ。


 これがどうして土器の変化に結びつくのか、説明するまでもないだろう。土器に求めていた美意識が、器の上のバランに遷移したからだ。

 かくして日本人の食における美意識は器だけでなく、その上で彩る名脇役にまで広がり、今の形を得たのである。


 因みに当時日本に渡ってきた野生種のバランは、今でも春先の山陰地方などで見つけることが出来る。現在の栽培種と違い葉先は丸く草丈も最大2メートルと非常に大きくなるが、プラスチック特有の光沢や透明感、全てが平行に走る葉脈から簡単にバランだと分かるだろう。因みに特別天然記念物に指定されているので、採取したら問答無用で捕まる。


 以降長い間日本の食を彩るだけに注力していたバランであるが、その状況が一転するのは平安時代に入ってからである。この時代になって突如、葉先の尖ったバランが出現するのだ。

 当時の文献を調べてみると、平安京に住んでいた貴族、須子根田内すしのねたないの家屋の庭先にて、勝手に生えていたバランの中に葉先を尖らせたものがあったという記述が残っている。どうにも、ここでバランに突然変異が起きたようだ。

 その姿に魅了されてか、バランは当時の貴族達にとってそれ単体を愛でる存在にもなった。当時の人達がバランに抱いていた思いは、古今和歌集に収められた和歌の中にも見られる。


 朝露を はじきてゆるる 若葉蘭

 あをに透くるを 君と思へば

(訳:朝露を弾いて、バランの若い芽が跳ねる。青く透ける様は美しく、私はどうしてもそこに君の姿を思い浮かべてしまうよ。)


 この句の中での「若葉蘭わかはらん」というのが、芽を出したばかりのバランを指す。当時貴族の間ではバランはその花を付ける蘭のような見た目から「葉蘭はらん」と呼ばれており、それが変化して現在の「バラン」になったというのが今のところ最も有力な由来である(※葉蘭という言葉が由来というとこだけホントです)。バランに思い人の姿を重ねてしまう程、平安の貴族はバランに美を見出したのだ。


 かくして貴族の鑑賞植物としての地位を確固としたバランだが、庶民への普及については江戸時代まで待つことになる。これについては江戸前寿司の存在が大きいとされており、産地としては水戸藩がその大半を占めていたという。

 そして江戸時代のバランで何より忘れてはいけないのが、変化バランだろう。従来のギザギザ……いわゆる山型バランにとどまらない多種多様なバランが、この時代愛好家の交配により生まれたわけである。松の葉のような形状だったり、魚を象ったようなもの、あるいは現在は潰えた赤色のバランが存在して、江戸っ子の目を楽しませていた。


 江戸っ子の粋で生まれた数々の変化バランだが、その多くは大政奉還とその後の戦争により失われることになる。最も広く普及し野生化もしていた山型バランが主だって現代に残るのはそういう経緯からである。やがて石油製品が普及する過程で、バランもまた人工のものにその立場を奪われてしまった。今日では人工でないバランは、高級な寿司屋か料亭でしか見る機会はない。農家の後継者不足も叫ばれている以上、日本人とバランの関係に一つの区切りが訪れるのも近いのかもしれない。


 なのでもし、あなたに人工でないバランを見る機会が訪れたのなら。

 その時は少しだけ、思い出してほしい。弥生時代より連綿と続く文化のことを。情熱を注いだ江戸の愛好家達の情熱を。

 そして現在誇りをもって栽培する、農家達のことを。

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