耳に入れる
放課後を迎えると、状況は一変した。
「星さん、朝はごめんなさい」
ホームルームが終わると、高林由美のほうから頭を下げてきた。今日一日、ずっと謝罪できずにやきもきしていたのがまるで嘘のようだった。今朝のような不機嫌そうな気配はせず、いつも通りそばかすが似合う大人しそうな少女に戻っている。
「あ、ああ。こっちこそ、ごめんね」
思わず戸惑ってしまい、うまく言葉が出てこない。
「あのよかったら、一緒に帰っても……?」
「も、もちろんだよっ!」
ぶんぶん、と首を縦に振る。
詳しい事情を聞きたかったし、こちらの事情も弁明したかった。
ふたりで連れ立って教室を後にし、廊下を進んで玄関口をでる。そして校門には向かわずに、なんとなく学園の敷地内をあてもなく歩いてゆく。どこかゆっくりと話ができる場所がないか無意識に探していた。
学園の外れでベンチを見つけ、二人並んで腰かける。適度な自然がある落ち着いた場所だった。今は雨こそ降っていないが、空には雲が覆われていて風も吹いている。
時折、揺られる木々がサワサワと音を立てた。
「その……朝はひどい態度とっちゃってごめんなさい」
由美はもう一度、すまなそうに海子に頭を下げた。
「いやこっちこそ、ごめんなさい。わたしのせいだよね? それ」
由美の左頬に貼ってあるシップに視線をうつす。彼女は苦笑いをしながら、頬を掌で押さえた。
「あはは……絶交されちゃった……」
力なく笑った声は、どこまでも乾いている。
「ほんと、ごめん」
昨日のことを思いだし、海子は前髪をかき混ぜる。無力感と罪悪感に押しつぶされそうだった。自分のせいで他人に迷惑をかけた時ほど、みじめなことはない。
「ううん、自業自得だよ。なんでか喧嘩になっちゃって、ゆかりにひどいこと言っちゃったから、叩かれても当然かも」
大人しそうな彼女からは想像できなかったが、それだけ必死だったのだろう。
「でも……叩くなんて……」
経緯はわからないが、それでも暴力をふるうことは許されない行為だ。
「あはは……許せないよね? わたしもすっごく腹が立った。でもね? それでも止めたいの、だって友達だし」
そう健気に語った彼女の横顔を見つめ、海子は昨日聞いた堀江ゆかりの言葉を思い浮かべる。彼女は由美のことを、友達なんかじゃないと否定した。
一方は親友だと口にし、もう一方は友達ですらない、と言う。こんな悲しい事実を前に、海子はたまらなく胸が痛んだ。大切な想いが無下にされているのなんて、見たくもない事実がつきつけられる。
堀江ゆかりがなんて言っていたか、伝えようと頭によぎったが、なんとか思いとどまる。きっと彼女を傷つけるだけに違いない。
「そっか」
だから海子は弱々しく、そう呟くしかできなかった。
「だから、わたしも本気……」
「――え?」
「もう説得しても無駄だと思う。だから、どんなことをしてもゆかりのことを止める。たとえ絶交されてても、あの子が退学になったらやっぱり後悔すると思う」
由美の瞳には強い決意が宿っていた。
「どうするつもり?」
「不純異性交遊として委員会に訴えるよ」
それは親友を追いつめることになるかもしれない。交際をしていなかったとしても、なんらかの処罰を受ける可能性はある。そしてそれは、絶対に重い罰にならないとは言い切れないのだ。罰則はあくまで状況で変化する。
「あの堀江って子が、もしもう付き合ってたら? 高林さんに嘘ついて」
その可能性も高いと海子は考えていた。昨日会った堀江ゆかりという人間は、平気で友達にも嘘をつくように思えたからだ。そうなると停学になることは必至だ。
「それは――」
由美は言葉を詰まらせる。
「例え停学になったとしても、あの子の自業自得だし。それでも反省せずに退学なっちゃったら、わたしは仕方ないと思う」
暗い瞳で彼女はそう言い切った。
説得に応じないのなら、学校へ訴える。処罰が下れば堀江ゆかりも反省して、不純異性交遊を改めるに違いない。それでも反省をせずに、さらに重い罰を受けるなら構わないと。高林由美は確かにそう宣言した。
雰囲気と口調から彼女の怒りが見てとれる。昨日の喧嘩はそうとうやり合ったに違いない。心配する相手から、手をあげられたのだ。当然だと海子は思う。
「あの子のためになるなら、甘いことなんて言ってられないよ」
力ずくで堀江ゆかりを止めるつもりだ。
「また星さんの力を貸してほしい」
「わ、わかった」
彼女のいきおいに少し圧されてしまう。
正直、海子としては、堀江ゆかりと関わらないほうがいいとさえ思ったが、由美の親友を思う気持ちには力になってやりたいとも思った。
そして彼女は、ある人物の名前をあげた。海子の頭は、ぽかんと白くなる。
「だから二年の、鷲崎先輩を紹介して欲しいの」
両手を強く握られ、懇願される。
強く風が吹き、手の甲に雨の感触がした。本格的に降り出すかもしれない。海子はどこかぼんやりと、そんなことを思った。
すぐにでも会いたいと高林由美は、総一郎との面会を希望していた。
協力すると言った手前、断ることもできずに海子はスマホを取り出す。気は乗らなかったが電話をすると、いつものとおり自分の教室にいるという。奴ほど教室を私物化して使用している人間を海子は知らない。
一連の流れを説明すると、「べつにいいぞ」と無愛想な応えが返ってきた。いっそ断ってくれと願ったが、思い通りにはいかない。仕方なく、今からそちらへ向かう旨を伝える。
「オーケーだって」
「ありがとう」
海子が告げると、由美は少し強ばった顔をして頷く。
「あのさ、鷲崎先輩ってやっぱり怖い人なの?」
そんな質問に対して、あの男のことを思い浮かべる。
「うん、まあ」
思った通りに伝えると、彼女は怯んだ挙動をした。異性の先輩というだけで、少し抵抗があるのだろう。しかもその相手は、あの悪名高い校則委員の鷲崎総一郎なのだ。
「やめとく?」
「ううん。大丈夫だよ」
彼女はゆっくりと深呼吸をして決意を固める。前回のことといい、割と行動派の人間のようだ。ぽつぽつと降り出した雨に急かされるように、また校舎へ戻っていった。
さすがに校内にはもう人の気配はない。
雨のせいか校舎の中はいつもよりも薄暗く、不気味だった。先へと続く廊下は、暗くてなにも見えない。海子は少し恐かったが、由美の手前そういう態度を見せるわけにもいかない。毅然とした姿勢を意識し、キビキビと先へと進んでいく。
高い音を踏み鳴らす自分たちの足音を聞きながら、思考がぐるぐると回っていく。
とうとう堀江ゆかりを校則委員会に報告する事態になってしまった。校則委員会、とくに鷲崎総一郎の耳に入るのなら事は冗談では済まなくなる。なんらかの形で、しっかりと決着がついてしまうだろう。
親友を助けるためとはいえ、それは諸刃の剣だ。
きっとあの男ならば、交際の事実が無くても有ることにして、停学ないし退学に持っていくに違いない。それだけの熱意を、不純異性交遊を取り締まることに込めている。
それは堀江ゆかりを助けることに繋がるのだろうか? ひどく間違った答えを導く結果になってしまいそうな気分になる。
暗い廊下を進むたび、どんどんと不安が積もってゆく。
「……星さん?」
気づけば海子は立ち止まっていた。そして降り返り、由美の両肩を強くつかむ。
「ほんっとうに、いいの? もう一度だけ彼女と話してみたほうがいいと思う。わたしも一緒についていくから。二人で話せばわかってくれるかもしれない、ね?」
強く由美の身体をゆすると、彼女はどこか冷めた瞳で海子を見返す。
「いいの、もう。こうでもしないとゆかりは、わかんないよ。もし停学なったら、さすがに反省するでしょ」
なにをいまさら、そんな思考が透けて見えた。
「そう……」
なぜか急に、複雑な心境に陥る。堀江ゆかりに対して、不憫という感情が生まれていた。いまさら迷うなんて、たしかに覚悟が足りないのかもしれない。
学友を売るという覚悟が、海子にはまだできていない。
「はやくいこうよ」
由美はそのまま暗い廊下をものともせず進んでいった。
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