原点



「ほんっとうに、ごめん!」


 登校してくる高林由美を下駄箱で待っていた海子は、その姿を見つけると駆け寄って頭を下げた。謝って済むことではないが、とにかく頭をさげる。しかし、反応は返ってこない。


「どうしたのそれ?」


 顔を上げると、そばかすが浮かんでいる由美の左頬にはシップが張られていた。


「なんでもない」


 不機嫌な顔と声。


「え、でもそれ」


 戸惑う海子に、由美は目も合わせずに教室へ向かっていった。


 彼女が怒るのは当然だったし、左頬にこさえたシップも原因はおそらく海子にある。危惧していたとおりに、二人の友情にヒビを入れてしまったようだ。


 しでかしてしまったことに対して、後悔する気持ちはもちろんあった。と同時に、堀江ゆかりが彼女に手を上げたことを許せないと思った。しかし堀江ゆかりにクレームを入れても何も解決しない、それどころがさらに悪化させてしまう。どうすればいいか、海子にはわからなかった。


 とりあえず今できることは、しっかりと由美に謝って許してもらうことだ。気を取りなおすように、短く息を吐き、海子も教室へ向かう。


 もう一度あやまろうと教室内を見渡すと、由美はいつも一緒にいるメンバーと談笑してる。さきほどのことなどなかったように振る舞っていた。


 そこに割って入るほど、状況が見えないわけではない。


「どうしたの? ほっし」


 席に座りぼんやりと由美たちの方を眺めていると、陸上部の松本良子が声を掛けてくる。少し疎遠になっているとはいえ、こうしてひとりでいる海子を気遣って時おり声をかけてくれるのだ。


「いやあ、やらかしちゃったなーって」


「ああ、テスト? しょうがないよ。期末がんばればいいじゃん」


「いや別件」


「なになにどうしたの?」


 誰かに相談したい気分ではあったが、委員会業務のことは第三者には洩らせない。それを除いてもデリケートな話題のため、由美のことを考えると話せる内容ではない。


「ごめん。校則委員会関係のこと」


「あ、そっか」


 良子もそのことを知っているので、あっさりと引き下がった。こういうちょっとした出来事も、二人の仲を微妙な距離にしている原因でもあった。


「それより一限目、体育だよ」


 気を取り直すように良子は声のトーンを上げる。なんだか張り切っているようだ。


「なんかテンション高いね」


「だって今日、記録測るからね。陸上部の目立つチャンスじゃん」


「ああそっか、がんばって」


「いやいや、前回一位はほっしじゃん」


 確かに入学当初に記録を測ったときはそうだった。あれからあまり時間は経過していないのに、なんだかすごく昔のように思えた。


 あの頃は部活をして、友達がいて、そして恋愛をしていた。そう考えると確かに、不純異性交遊という禁を犯して、海子はすべてを失ったのかもしれない。


 後悔はしていないはずなのに、馬鹿なことをしたのかもという気持ちにグラついてしまう。日々悩みと不安は尽きることはない。モヤモヤとした感情が、自分のなかで大きくなっているのを自覚する。


 なんだか今は、思いきり走りたい気分に駆られる。



 ホームルームが終わり、着替えて運動場に出る。


 さっそく五十メートル走のタイムを計ることになった。二人ずつ並んでスタートしていく。どこの学校でも当たりまえにある光景。みんな嫌がりながらも、いざ順番がくれば真面目に走った。運動部とそうじゃない生徒では顕著に差がでている。


 そして海子の番がやってくる。


 教室では浮いていしまっている海子だが、やはり注目を集めた。クラス内では海子が一番足が速いということは、周知の事実だった。


 わずかに緊張している自分が可笑しかった。スタートの合図と共に走りだす。最初の二歩で横に並んだ女生徒を置き去りにする。しかし身体は重く、足も跳ねない。力めば力むほど遅くなっていく感覚に海子はとらわれた。


 ゴールすると、他の女子から「やっぱり早いね」と感想が漏れたが、海子には届かなかった。ドクドクドクと鳴る鼓動がうるさくて何も聞こえない。ただ得体の知れない焦燥感に、追い詰められそうだった。


 そして後ろで、歓声があがる。


 振り向くと松本良子がスタートしていた。誰が見るでもなく、彼女が一番速く駆けていた。ゴールしタイムが告げられると、そのタイムは海子のベストタイムよりも速かった。


 悔しさを表すように海子の膝が震える。良子はクラスメイトたちに囲まれ、賞賛を浴びていた。もしかしたら海子に勝ったことを、みな嬉しがってるのかもしれない。


 ――べつにもういいじゃんか、陸上は辞めたんだし。


 泣きそうになると、すぐにもう一人の自分がそう言った。入学当初はたしかに海子のほうが速かったかもしれない。だけど何か月もトレーニングをしていない人間が、毎日走り込んでいる人間に勝つなんてありえない。これはあたりまえの結果なのだ。


 ――でもあの子、あんたのベストタイムより早く走ったよ。


 そしてまた別の自分が、そう告げる。ショックを受ける必要も資格も、いまの海子にはないはずなのに。この整理しきれないマイナスな感情はなんなのか。


「はぁ、はぁ、はぁ……ほっし」


 松本良子がクラスの輪から外れ、海子のほうへやってきた。その表情はなんだか微妙な感情が浮かんでいる。


「すごい……あんなにタイム縮めたんだね」


 嫌味もなく海子は、思ったことを告げる。


「うん、ありがとう」


 やっと彼女は嬉しそうな顔をして笑った。その顔を見て、初めて海子はなにか喪失感のようなものを自覚した。そして同時に、なぜ彼女は陸上をしているんだろうと海子のなかで、そんな問いかけが生まれる。


 そしてなぜ自分が、陸上を辞めたのだろう? 明確な答えを持っていなかったことに、いまさら気がついた。








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