赤点対策


 テストが終わると、クラスメイトたちは速やかに教室を出て帰宅していく。


 明日からも試験は続くのだ。二年生ともなると、試験に向き合う姿勢も違う。危機感を持って、各個人がやるべきことを理解している。普通の学校とは違い、友人たちと感想を言い合うこともしない。いまは一分一秒も時間を無駄にできない。


 教室の戸締りは委員長の総一郎が行い、職員室に鍵を返す。つまり放課後の教室は、総一郎が好きに使用することができた。校則委員会の仕事や日々の勉強も、たいていは放課後のこの教室を利用している。これも校則委員の特権のひとつだと言えた。


 誰もいない広い空間は、より集中することができる。


 さっそくノートと参考書を広げ、試験勉強を始める。明日のテスト科目よりも、明後日の英語のテストの対策をする。なによりも苦手な科目で不安だったからだ。


 今はどこの部活も休止中で、校舎内はより静かだった。人の気配を感じない校舎の雰囲気は、より勉強を進めさせてくれる。


「試験どうだった?」


 鈴のような声に顔をあげると、いつものように雪が教室の扉に寄りかかっていた。


 放課後は大抵ここいるので、二人が落ち合うのはいつも放課後の教室だった。人目につかないし、誰かがやって来れば音でわかるので聞かれたくない話もここなら安心だった。


「相変わらず、ギリギリって感じだな」


 鉛筆の先で、ガリガリと頭をかく。


「赤点は大丈夫でしょうね?」


「まあ一年の時ほどヤバクはない。お前は?」


「平均は超えたかな」


 互いにこの学校では成績は良いほうではない。ほとんどが国立の有名な大学へ行くような人間が集まっているだから、仕方がないのかもしれない。


「すごいな。予備校行きだして、順位も上がってるんだろ?」


「まあ親との約束もあるし」


 地元から離れた学校、しかも学費も高い。雪は親からもっと近い普通の公立でよかったんじゃないかと言われたが、勉強をがんばりたいと説得して入学した。


 嘘ではあったが、嘘をついた責任くらいは果たさないといけない。雪は入学当初から、かなり成績を伸ばして今までがんばってきた。もしかしたら本当に、受験の時期には誰にでも誇れる大学に進学するかもしれない。


「俺はとりあえず、卒業しないとな」


 そう告げて、ノートに視線を落とす。


 あまり楽しくお喋りしている余裕はない。長い付き合いの雪もそれを察して、いつもなら立ち去るのだが、今日は違った。ぼそりと言葉を漏らす。


「あの一年の子、試験やばかったんじゃない?」


 思わず視線を上げて、目で問いかけてしまう。


「さっき廊下で見かけたとき、青い顔してたわよ。洗礼を受けたんでしょうね」


 高校に上がると勉強が難しくなる。とくにこの学校では、一気にレベルが跳ね上がり、中学の時と同じように考えている連中は軒並み、痛い目をみる。


「この学園じゃ、珍しいことじゃない」


 この時期の風物詩といってもいいくらいのことだ。懲りたら、期末に向けて心を入れ替えるだろう。学校側もそれが狙いだったりする。


「でも本人には辛いでしょうね」


「お互い、痛い目にみたよな」


 二人とも中学時代は試験で困ったことはない。受験のときは確かに苦労したが、やはり最初の中間テストは想像とは違い。唖然としたものだ。


「しょうじき、家で泣いたわ」


 わりと真面目に生きてきた二人にとって、ほとんどの科目で赤点というのはショックな記憶として今も残っている。自分は馬鹿なんだと思い知らされ、この学園でやっていける自信を失くし落ち込んだ。


「泣き虫はあいかわらずだな」


「うるさい」


 ぴしゃりと言われ、総一郎は苦笑いを浮かべる。


 雪は飽きた猫のように、プイと立ち去ろうとする。


「ちょっと待て、それで俺にどうしろってんだよ?」


「別に……、ちょっと気になったから口にしただけ」


 そう言い残して、雪は立ち去っていった。


 星海子が赤点をどれだけ取ろうが、総一郎には知ったこっちゃない。そもそも他人を気遣う余裕なんかあるわけがない。自分を助けてくれるのは、自分でしかないのだ。


「知るか」


 もう一度、机に向かい勉強に取り掛かる。始めるが、さっきのように集中できない。気がつくとさきほどのことが頭を埋め尽くし、手が止まってしまう。舌打ちをしてから、スマホを取り出す。


「なんで俺が……」


 ブツブツと悪態を付きながら、星海子を呼び出す。結局、理に叶った行動がとれない。その時々の生まれる感情に支配されて、動いてしまう。


 鷲崎総一郎とはそういう人間だった。





「――なにか用ですか?」


 呼び出された海子は力の無い声で、ぼそぼそと口を動かす。いつものような反抗的な態度もなりを潜め、暗い顔をしている。相当弱っているようだった。


「テスト、あとなんの教科が残ってんだ?」


「なんでそんなこと先輩に言わないといけないんですか。……今日はちょっと疲れているんで、帰えらせてください」


 マジトーンで拒絶されると、怯みそうになるが総一郎も伊達に修羅場をくぐっていない。


「いいから答えろ」


 海子はダルそうに一応答える。


「そのなかで得意な科目はどれだ?」


「ちょっと、ほんとになんなんですか? 早く帰って勉強したいんですけど」


 声に苛立ちが混じっている。本当に今は余裕がないのだろう。海子には、総一郎がなにをしたいのか、さっぱりわからない。遠まわしな嫌がらせにしか思えなかった。


「テストダメだったんだろ?」


 そう告げると、ようやくこちらに視線を合わせる。


「だ、だったらなんだっていうですか?」


「言っとくが、一夜漬けでどうにかなるほどうちの試験は甘くないぞ」


 総一郎自身もそれは苦い記憶として刻まれている。闇雲に勉強をしても、試験の点数にはなんの足しにもならない。


「うるさいなっ! ほっといてください!」


 海子がヒステリックな声を荒げる。根拠もなく大丈夫だと自分に言い聞かせていたが、他人に否定されると一気に不安があふれ出す。その圧力に耐えきれず、叫び出してしまった。


「関係ないですよね? 先輩には! なんなんですかいったい? 人が苦しむ姿がそんなに楽しいんですか?」


 まるで嘔吐するように言葉を吐き出す。苦しくて痛く、そして楽になっていく。


 やはり目の前の男はそういう奴なのだ。人の幸せを壊して満足し、人が苦しんでいる姿を嘲笑する。そんな蛇みたいな人間なのだ。


 知っていた、知っているはずなのに。思い知ったはずなのに。そう強く思っても、なんの足しにもならない。


 悔しくて涙が溢れてくる。


「楽しいわけあるか……」


 しかし総一郎から返ってきた言葉は、海子の想像とは違った。


「え?」


「困ってんだろう? アドバイスくらいならできるぞ」


 滲んだ涙をぬぐうと、ただいつもの無愛想な顔がそこにはあった。イヤらしく嗤った顔でもなく、見下した瞳もしていない。何を考えているかわからない、見慣れた顔だ。


「どうなんだ? 一人でなんとかなるのか?」


「……ちょっと厳しいと思います」


 総一郎の感情が見えない分、訊かれたことに素直に答えてしまう。


「ならちょっとそこに坐れ」


 引かれた椅子に海子は、ちょこんと座る。なぜか今はもう不安はなりをひそめ、視界と頭がクリアになっている気がした。


「いいか、よく聞け」


 そう言って話し始めた総一郎の声が頭に入ってくる。


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