聞きたくないこと
総一郎は、朝五時に起きる。
自分と妹の分の弁当を準備をするのと、混んでいる電車を避けるためである。空いている電車でゆったりと座り、英語の単語帳を見ながら学校へと向かう。
運動部が朝練をしているので学校はすでに開門されており、誰もいない教室で勉強することを日課としている。総一郎にとって偏差値が高い学校へ入ったため、時間を見つけては勉強しないと試験で赤点を取りかねない。
上履きに履き替え人の気配がない渡り廊下を歩いていると、ふと柔道場が目に入る。
特に用事はないが、近づいて武道場を眺める。独特の匂いを懐かしみ、そして柔らかくなり始めた自分の手のひらに視線をおとす。
「――なんか用か?」
掛けられた声に振り向くと、柔道部の花田がいた。
「おお、朝練か」
とくべつ仲が良いわけでもないが、一応昔からの顔見知りである。小学校のときは柔道教室、中学のときは部活が一緒だった。総一郎は高校に入って柔道を辞めてしまったが、花田は今もこうして柔の道を突き進んでいる。
「辞めた人間がなんの用だ?」
花田の言葉はどこか刺々しい。決して仲が悪かったわけじゃないのにな、と総一郎は首をひねる。
「まあ……なんとなくだ。意味なんてねえよ」
確かに柔道を続けている人間からすれば、途中で投げ出した人間など心よくは思えないのかもしれない。
「今年から主将をまかせられるんだろ?」
三年が引退したら、花田が主将を務める。そんな話を何度か耳にした。
「別に決まっていない。ただの噂だ」
しかしその噂は真実なのだろう。昔からこの花田は柔道の強さは飛び抜けていたし、中学の時は主将を務めていた。総一郎は一度だってこの男に勝てた試しがない。
「お前らしいな。まあ、がんばれよ」
邪魔しちゃ悪い。両手をポケットに突っ込み、寒さに肩をすくめながら去っていく。その背中に花田から声が掛けられる。
「鷲崎! たまにやりたくなったら、相手してやるよ!」
振り返って笑ってみせるが、冗談じゃなかった。
■■■
辛い午前中の授業が終わると、待ちに待った昼休みがやってくる。
昼休みというのはどこの学校も騒がしい。
特に人がいちばん集まる学食は、人混みに比例して騒音が飽和している。総一郎は男子では数少ない弁当派だが、いつも一緒に食べる友人二人に付き合い今日も学食で食事を取っていた。
八木と萩。二人ともメガネを掛け、ダブルメガネなんてクラス内では呼ばれている。クラスでよく思われていない総一郎と唯一接点がある二人だ。
「あ~、やっぱマズい。学食のカレー蕎麦はマズいわ」
八木が顔をしかめながら麺をすすっている。かけている眼鏡は真っ白に曇っていて、食べづらそうだった。
「なら食うなよ。マズいマズい言うくせに、毎回食ってんじゃん」
萩はカレーを食べながら、八木を批判する。
「他に食うものがないんだよ」
「八木はそばが好きなの? カレーが好きなの?」
「どっちも嫌いかな」
「なら他のやつ頼めよ」
相変わらず八木と萩が馬鹿な話をしている。
「俺はね、学食のカレーが一番最高なの」
「ええ! ホントに? すげえ安っぽいじゃん!」
「いや、そこがいいのよ」
おしゃべりの二人はいつでもどこでも、くだらないことをずっと喋っている。聞いていて飽きないから、総一郎はこの二人のことをわりと気に入っているのだった。
「なあ! 総! ここのカレー八十点くらいあるだろ?」
黙って家から作ってきた弁当をつまむ総一郎に、萩が声を掛ける。
「いや……お前さっき最高って言ってなかったか?」なら百点だろうと総一郎は指摘する。
「それはあれじゃん! 食いもん食べて美味しかったら、最高っていうじゃん」
萩はカレーをすくいながら続ける。
「ああ、これ美味しい! 八十点だね! とは言わないだろ?」
「まあ……そうか。でもあれでしょ? 学食という低いハードルででしょ? 普通の店でこんなカレー出されたら怒るレベルでしょ?」
八木が口を挟む。
「そんなことないよ! 普通に美味しいよ! 八木は嫌なこと言うよなー」
「いやいや、マズイマズイ。食えたもんじゃないから」
「だから食べてんじゃん! いつもいつも」
「ええー、じゃあ総、ちょっと食べてみてよ。不味いからさ」
八木がカレー蕎麦を総一郎の前へ押しだしてくる。箸を借りてゾゾゾッと掃除機のように麺を吸いこんでいく。長身の総一郎にとって用意した弁当では少なく、空腹というスパイスによって何でも美味に思えてしまう。
「おいおいおい! 食いすぎだぞ! ちょっと! 総!」
「あははは、だからマズイなら、いいじゃん!」
いいかげんしろ、と頭を八木に叩かれカレー蕎麦を返す。
「うまいぞ」
「うるせえよ! ああ、もう全然ないじゃん」
八木は哀しそうにまた不味い不味いと、また蕎麦を啜り始めた。
「あれほら、森澤たちだ」
萩がカレーのスプーンで同じクラスの女子たちを指す。
「ああ、ほんとだね」
八木も曇った眼鏡で、そちらに視線をやった。
「やっぱ目立つなあ、あいつら」
「ツラがいいからな、森澤」
「確かになあ、体型もモデル並みだしなあ。でも恐そうなんだよなあ」
「いやあいつは実際、恐いでしょ」
うちのクラスの女子で一番力のあるグループだ。校則が厳しいので、髪や化粧は派手ではないがにじみ出ている華やかさがある。またグループ五人全員が美人なので学年でもなにかと注目の的だった。
「俺は、浅倉がいいなあ」
そして浅倉雪も実はこのグループの末席だった。
学年でも目立つ森澤、が中心となった森澤レベルの容姿と人気を持った四人。クラスの女子ではトップのグループなのはもちろんだが、男子にも顔が利く。つまり今の二年では、かなり大きな影響力を持ったグループの一つであった。
「クール女子最高でしょ」
萩が小さく声を弾ませる。
「ええ、そう? 浅倉も怖そうじゃん」
「いやクールと怖いは違うからね。八木はわかってないなあ。あいつはなんか儚いなんだよなあ」
うっとりとした顔をして萩は遠くの浅倉雪を眺めた。
「総は同じ中学だったんだろ?」
「え、ああ……」
あえて見ないように食事に集中していたが無視するわけにもいかない。
「昔から、あんな感じだったの?」
「さあ、あんまり喋ったことなかったからな」
宝と自分の後ろをひょこひょこついてくる雪の姿が思い浮かんだ。あの頃は泣き虫だったし、よく笑っていた気がする。今みたいなクールな印象とは程遠い、それでも――
「変わんねえな……」
思わず呟いていた。
「え、なんか言った?」
「なんでもねえ」
興味ないふりをして弁当のちくわを口に運ぶ。
萩はまだ向こうを見ながら、口を開く。
「まあ、この学校だから付き合えることはないけど、あっちもフリーってのが夢があっていいよなあ」
八木が追従する。
「そうだなあ。それはいいな。クソみたいな男と付き合ってたら、幻滅しちゃうもんな」
「俺たちみたいな、モテ偏差値が低い男には救いだな」
「ああ、そうだな」
「それにしても、イイ女だよ浅倉は」
萩の呟きに、あの幼かった少女が異性として成長していることを実感して総一郎は少し寂しい気持ちになった。
一瞬だけ視線をやると、雪と目が合い慌てて視線を外す。
■■■
この学校では、各クラスの委員長が校則委員会に所属しクラスの風紀を管理するよう定められている。特に異性間の乱れはご法度で、学校を挙げて徹底されていた。つまり男女交際は認められてはいない。
各委員長はクラスから違反者を出さないため、目を光らせなければならない。しかし一人でクラス全体の事情全てを把握することなどできはしない。そのため一般の生徒には内密で、クラスから協力者を設けていた。そんな協力者のことを、校則委員会内ではコラボレーターと呼んで利用しているのだった。
クラスでも誰も存在を知らないコラボレーターは、非常に有用であり実績が認められている。
2Cの委員長は鷲崎総一郎であり、そのコラボレーターは浅倉雪であった。
委員長とその協力者に、学校側もそれなりのメリットを用意しているが、誰も彼もが総一郎のように委員長にはなりたがらない。まずクラスでの立ち位置は悪くなるし、怠慢が発覚すればペナルティを科せられるからだ。毎年度、どのクラスも委員長を選別するのには一苦労だった。二年連続代わることなく、委員長をやり続けている総一郎はある意味で有名人でもあった。
いつも賑やかな委員会室は人払いがされており、校則委員会顧問の篠崎と総一郎が机をはさんで向かい合っている。
「いやあ、今年も期待しているよ。鷲崎くん」
篠崎は機嫌よさそうに、総一郎に笑いかける。やたら長い前髪が、陰湿なイメージを与える人物だった。
「ああ、どうも」
まだ若い教師だが、自分から校長に掛け合って校則委員会の顧問についた男だった。総一郎と同じくらい、いやそれ以上に男女交際に五月蠅い。いや憎んでいるといってもいいほどの執念を感じることもある。
「浅倉くんだっけ? 彼女も相当優秀だねぇ」
レポートに目を通しながら篠崎は目を細めた。先日クラスから出た退学者、その経緯が記載されたものだった。
「情報通って言うのかな? 学年でも一目を置かれている人たちだから。色んな話が集まるんだろうねえ。君らみたいに意欲的に動いてくれる校則委員がいて、なんとか体裁を保つことができてるよ」
篠崎は大袈裟に手を広げ、総一郎を称える。
「君は一年の時から熱心に取り締まってくれて本当に有望だよ。他の委員長たちも、君みたいにもっと本気で取り締まってほしいよ」
大袈裟に肩をすくめて、ため息をつく。
「先生が甘いからじゃないですか? 舐められてるんですよ」
しれっと総一郎は言い放つ。
「あはははっ、いいねいいね。それくらいじゃないと」
総一郎の生意気な態度を篠崎は気に入ってもいた。
「鷲崎くん、君のクラスにいま現在露見していないカップルは何人いると思う?」
「ゼロです。いないですね」
「さすが! そう自信を持って答えてもらわないと」
篠崎はいやらしく口角をあげる。
「2Aの鈴木くんなんか、わかりませんとか言うんだよ。そんな曖昧な答えしかできない奴に、不純異性交遊を取り締まれるわけないのにね。調査中のクラスメイトのことも、確証が取れない取れないとずっと引き延ばしてね。痺れを切らしてその生徒をここに呼んで、怒鳴りつけてやったらすぐに白状したよ」
こんなご時世によくやる、内心で総一郎はそう辟易した。
「A組のなんて奴ですか?」
「ああ、三木くんって子。知ってるのかい?」
「ああ、噂くらいは」
「さすがだね。君も一年の時みたいに、違うクラスでも学年が違ってもどんどん取り締まってくれていいからね。僕がなんとかするからさ」
じっ、と目を覗き込まれる。
「わかってます。それで、委員長の鈴木はなんて言ってるんですか?」
「さあ?」
篠崎は心底興味を失ったように、熱のない声を出す。
「彼には校則委員会を辞めてもらったよ。まあ内申は期待できないから、進学する際は大変だろうねえ。あははは」
この男と会話していて総一郎はいつも思う。なんだコイツ、と。心の底から好きになれそうにない、そういう人種だった。
■■■
放課後も、時間を見つけては勉強するようにしている。
県内でもトップクラスの進学校だけあって、成績に関してもかなり厳しい。中間、期末ともに容赦ない難問が出題され赤点を出す者も多い。そして一年の終わりには容赦なく成績の悪い生徒に退学が言い渡される。
病気などの理由以外では、基本的に留年というものを認められていなかった。
実際に毎年何人かの生徒は泣いてきている。常日頃から勉強する習慣がない者はとてもついていけないレベルだ。
総一郎も忙しいなか、時間を割いて勉強に取り組むようにしている。朝はもちろんだが、放課後は時間が少しでも空くと教室で参考書を開く。それでも割といつも赤点ギリギリなので余裕はない。
校則員なので内申点などは恩恵を与えられるが、テストの赤点はどうにもならない。一年を通して赤点を十八回取れば、留年が決定する。明らかに自分のレベルとは合っていない学園に来てしまったのだった。
家ではついつい別のことをしてしまうので、教室で数学の予習をしている。問題を解いている途中で、マナーにしている携帯が震えた。誰もいない教室だが、いちおう人がいないか見渡す。
「はい、鷲崎」
「ちょっと聞いて欲しいんだけど……」
スピーカーの向こうから冷淡な口調が聞こえてくる。
「なんだよ」
声の主は浅野雪だった。
そのまま雪は家に出たゴキブリの話をしだした。壮絶なる戦いの末、逃がしてしまったらしい。
「なんでいつもフリートークを始めるんだよ」
つかの間の無言。
「どうだった?」
「微妙、採用はされないな」
雪はとある深夜ラジオのリスナーで、毎週かかさずにコーナーにメールを送り採用を狙っている。打率は残念ながら一割以下らしい。
「そう。ところで、今日学食でわたしのこと見てたでしょ?」
「いや見てたわけじゃない。一瞬、見かけただけだ」
「そう」
嘘をついたわけじゃないのに、わずかな罪悪感が総一郎の胸に滲む。
「そんなことを話すために電話したわけじゃないんだろう?」
「花田悟」
雪はどこか宣告するようにぴしゃりと告げる。
「あいつがどうしたんだよ?」
今日の朝、柔道部で出会ったことを思い出す。
電話の向こうで雪は、はぁと溜息をつき「校則の三条に抵触してる」と告げた。
校則三条、つまり不純異性交遊に関する校則違反。何度も聞いてきた雪からの報告。慣れているはずなのに、ぎくりと心臓がひきつる。
「……確かなのか?」
「いいえ。まだ噂を耳にしただけ、確実じゃない」
でも、と彼女は続ける。
「たぶん、本当だと思う」
手に持っているスマホが軋んだ。
「どうするの?」
雪に問われる。
「そんなの決まっている。俺は校則委員だぞ」
「でも花田くんは他のクラス。あなたの管轄じゃない。聞かなかったことにしても問題にならない、でしょ?」
雪の言った通り、校則委員は各クラスの委員長が兼任する。その管轄と責任はあくまで同クラスの生徒達。他のクラスのことまででしゃばる必要は本来はない。
しかし篠崎に言われたからではないが、校則違反を他のクラスだからといって見逃すのも違うのだ。校則とは全生徒が守るべきルールとして定められているのだ。
このあいだ退学になったクラスメイトの顔と、その恋人に頰を叩かれた記憶が脳裏に浮かぶ。
「そういうわけにもいかないだろ」
ましてや顔なじみに情をかけるなんて、冗談にもならない。
「でも嫌なんでしょ?」
とっさに返す言葉がなく、歯を噛みしめた音が頭に響く。
「恋だの愛だのにうつつをぬかす奴に、同情なんてしない」
何度も言い聞かせてきた言葉だ。いまさら変えるつもりなんてない。
「あなたがそうしたいなら」
恋愛なんて、人も自分も傷つけて得るものなんてなにもない。他人を傷つけてまで誰かを大切に想うなんて、狂っている。
「花田のクラスの委員長は、吉田だったな」
「そうね」
とりあえずは担当の校則委員に報告して、調査をしてもらう。それが正しい選択だ。頭のなかで何度もそう反芻する。
勉強を切り上げて帰るとき、寄り道をして柔道場を覗く。
人一倍大きな身体で大きな声を出している花田を見つける。ひたすら柔道に打ち込むその姿は、男として憧れすら抱いてしまった。昔からかっこいい奴なのだ。
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