鷲崎総一郎という男

過去と星空

　


　どこからか聞こえてくるブラスバンドの演奏、球を打ち返す金属バットの快音、そしてそこにいる生徒たちの声。遠くから聞こえる音たちは、いっそうこの場所が静かで孤独だと認識させる。


　誰もいない教室で、鷲崎総一郎は放課後の音色に耳を傾けていた。


　暗い教室に差しこむ夕陽が床に紅い四角形をえがく。


　雑巾をしぼり、持ち主がいなくなった机を磨いていく。右端にあった落書きを見つけ、指でなぞってから消すことを思い留まる。理由は確かにある。しかしそれをうまく言語化できなかった。


　椅子を逆さに乗せ、机と一緒に持ち上げる。使わくなった机と椅子を備品倉庫に運ばねばならない。この学校へ来て、もう何回目だったか？ 　正確にはもうわからない。


「また机が減ったね」


　視線を上げると入口の扉に身体をあずけている浅倉雪の姿があった。掛けたメガネのレンズが夕陽を反射し、彼女の心情を汲みとることができない。


「いたのかよ」


「さっきからね」


　総一郎は呟いてから、机と椅子を床におろす。


「お前の情報、役に立ったよ」


　少しの間。


「あなたの内申もこれでまた上がったんじゃない？」


「うるせえよ」


　別に内申のためにしているわけじゃない。そんなことは互いにわかっている。雪のいつもの皮肉だった。


「それで、一年女子のほうは？」


　コトリと雪は首をかしげる。


「停学になった」


「そう、さぞ落ち込んでいるわねきっと」と目を伏せる。


「あ～、そんなタマじゃないと思うぞ」


　総一郎は首をコキコキ鳴らす。


「なにか言われたの？」


　雪は少し興味が引かれたように声のトーンをあげた。


「ひっぱたかれた」


　思い出しながら、総一郎は左ほおを撫でる。


「停学にされた恨み？」


「いや、自分は停学で大北が退学になったのが納得できなかったらしい」


　叩かれた時のこと思い出して、わざとヘラヘラと笑ってみせる。痛みよりも、涙を滲ませた瞳のほうが印象に焼き付いていた。


「辛そうな顔するのね……」


　作った笑いが止まる。自分ではそんなつもりじゃないが、指摘されると否定できない。長い付き合いだけあって、たぶん自分自身よりも彼女のほうが総一郎のことを理解しているのかもしれない。


「もう慣れた……」


　雪はもたれかかった扉から身を離す。角度が変わりメガネから夕陽の輝きが消える。暗い教室に浮かんだ彼女の瞳は、どこか寂しそうな笑みを浮かべていた。


「じゃあ、あたしは帰るわ」


「おう、気を付けてな」


「そっちは？」


「ちょっとだけ校則委員会に寄って、それからバイト」


「そう……じゃあバイバイ」


　ひらひらと小さく手を振る。子供の頃から何も変わってない仕草、あの頃の夕暮れが思い浮かび、総一郎は懐かしさに頰をゆるませる。


「ああ、バイバイな」


　雪はいつもの無表情な顔で、両手をポケットに入れて教室を出て行った。


「さてと……」


　また机と椅子を持ち直し、倉庫まで運ぶ。


　鷲崎総一郎は、今日またクラスメイトを一人減らした。




　総一郎は週三、焼肉屋でアルバイトをしている。


　学費を払うため学園に許可をとり、金土日と週末の夜はバイトに励む。平日とはいえ、やはり週末前の金曜日の焼肉屋は混んでいた。


　フロアには女子大生中心のアルバイト達が、忙しくも笑顔を振りまきながらも注文を取り料理を運んでいる。その奥の厨房では男子のバイト達が料理を作って準備していく。そのさらに奥の流し場が総一郎の作業場だった。


　テーブルから引きあげてきた食器が山のように流し場に運ばれてくる。それらの食器をひたすら洗っていくのが彼の役割である。自動食洗機があるとはいえ、地味で辛い作業だが特に不満はなかった。


「よろしくねー」


　またテーブルを片した女子のバイト達が皿やグラスを積み上げていく。単純な作業だがひたすらそれに没頭していると、あっという間に時間が過ぎていく。午後五時から十時までの五時間、もしかしたら一番集中している時間なのかもしれない。


「もう上がっていいぞ」


　十時になりシフトの時間を向かえ、店長に声を掛けられる。まだ最後の客から引き上げた食器が残っていた。五分もかからずに終わるので、それだけやってしまいたかった。


「――あ」


「ダメだ。上がれ」


　ヒゲ顔の店長は総一郎の言おうとしたことを察し、先に制止する。


　最近は労基関係が厳しいらしく、ちょっとしたことでも時間外労働だと騒がれる。以前も好意で手伝っていたら叱られたことがあった。本人が良いなら問題ないだろうと学生である総一郎は思うが、大人のルールはそうもいかないらしい。


「お、お疲れさまです」


　頭を下げ厨房から出ると、疲労がため息として表れた。


　店の営業は十時に終わるが、これから閉店作業があるため店長やフロアリーダーたちは、まだ一時間くらい仕事をするのだろう。大変だな、と思いながらロッカーを開けて着替えていく。


　総一郎が更衣室から出てくると、女子バイトの一人である柚木さんから声を掛けられる。バイトのなかでも割りと古参の人だった。


「お疲れー」


「お疲れ様です」


　年上の大学生だ。明るめに染めた髪の色が年上の異性を意識させた。


「鷲崎くんコーヒー飲む？」


　従業員用の自販機にお金を入れようとする彼女を止める。


「いや、いいですいいです」


「え、じゃあコーンスープね」


　制止も聞かずに自販機はガタンゴトンッと缶を吐き出した。はい、と手渡されるが受け取る気になれなかった。


「もう買ったんだから、はい」


「どうも……ありがとうございます」


　覚えもない施しを受けると、居心地が悪くなる。


「飲む気分じゃなかったら、懐に入れときなよ。バイクなら寒いでしょ」


　確かに春の夜はまだ寒い。ありがたいと言えばありがたかった。


「今度みんなで飲みに行くんだけど、来なよ」


　革ジャンの内ポケットに缶を入れると、そんな誘いを受ける。


「未成年っすよ、俺」


「飲まなきゃいいじゃん。バイトの仲間の交流も大事だよ？」


　想像してみると、自然と顔が引きつる。


　ほとんど年上、しかも陽気な大学生の集まりに参加する自分を想像してみる。どう転んでも楽しくなんて過ごせそうになかった。悪い人たちではないことは理解しているが、合わない人種だともわかっている。


　とにかく好意的ではない顔が浮かんだのだろう。


「苦手なのはわかるけどさ、一応バイトの輪のなかにいるんだからさ。付き合いもあると思うけどね～」


　これも社会の掟、みたいなものなのだろうか。


「じゃあ予定があえば」


　いつもの断り文句。適当に学生だから試験だとか門限がとか言ってればいいだろう。しかし総一郎がそう返してくると予想していたのか、彼女はスマホを取りだす。


「ならライン交換」


　スマホを掲げられる。


「ラインしてないんす」


　嘘ではなく本当だった。


「うそ、珍しい。学校の友達とかどうしてんの？」


「直接やりとりしてます」


「ふうん。キャリアが違ったらメールもお金掛かるじゃないの？」


　よく知らないが、たぶんそうなのだろう。


「ラインならタダだよ。みんな一斉にメールできるしさ、写真も――」


「そういうの苦手なんですよ」


　柚木さんがニヘラと笑い、「なんかキミ面倒臭いね」と呆れられた。


「すいません」


　向こうも面倒になったのかスマホをしまう。


「じゃあ、お疲れさまです」


　柚木さんは、ふりふりと手を振る。


　店を出て、原チャリにまたがる。寒い空気のなか、懐に入れたコーンスープの熱が心地良かった。そう実感すると改めて感謝の気持ちが沸く。


　中古で買ったズーマーが機嫌よく走り、二十分ほどで家の近くのコンビニへ到着する。バイト帰りに総一郎は必ず杏仁豆腐を二個買う。杏仁豆腐の控えめな甘さが、疲労を癒してくれるからだ。妹のぶんも買うが、また無視されるだろう。バイクの元へ戻ると、見知った顔と出くわしお互いに「あっ」と声を漏らす。


「バイト帰り？」


「お、おう」


　岩越宝はジャージ姿で犬を連れていた。


「こんな時間に散歩かよ、危ないぞ」


「食べた後、運動しないと太るしさ。この子もいるし大丈夫でしょ」


　まかせろ、と連れているハスキー犬が鳴く。確かに迫力のある大型犬を連れている女性を襲うのは、暴漢も気が退けるだろう。


「リンダ、元気かこの野郎」


　しゃがみ込んで両頬をぐりぐりしてやると身体を摺り寄せてくる、可愛い奴だ。デカイからいまだにちょっと怖いが、賢い奴なのでむだに吠えたりしないし噛まれる心配もない。


「ちょっと水買ってくるから、見ててね」


　そう言われてリードを渡される。リンダは大人しく座って、総一郎を見上げてくるのでひたすら撫でてやる。ご無沙汰だったな、という感じでリンダが甘えてくるのが心地よかった。


　犬というかリンダ飼いてえ、そんなことを思う総一郎。


　そうこうするうちに水を買って出てきた宝は、ペットボトルを三分の二ほど豪快に飲み干す。


「はあ、おいし」


　残った水を手のひらに溜めてリンダ与え始める。


「すげー飲むのな」


　リンダに対しての感想だったが、宝は勘違いしたのか苦笑いする。


「最近がんばってんの。彼氏にちょっと太ったって言われたからさー」


　彼女の言葉に、総一郎はギュッと心臓を掴まれた気がした。こういうことがあるから宝とは、あまり顔を合わせたくない。ちょっとしたことで、心がざわめく。


「でも散歩くらいで痩せるか？」


　無理やり話を続ける。


　もうなにもかも過去のことだ。今さら、ちょっとしたことで動揺してもしょうがない。


「うん？　いいや、この子元気だからランニングなっちゃうのよ。あたしもダイエットにいいから付き合っているけど」


　なんでも運動量の多い犬は適度に走らせないとストレスが溜まるらしい。


「朝、お父さんなんかはロードバイクでいつもこの子と走っている」


　岩越家の健康を保っているのはリンダのおかげだ、と宝はにんまりと笑う。


「そりゃあ、リンダ様様だな」


　またリンダを撫でてやると、そうだろ、言った感じで短く鳴く。


「総もバイトばっかりじゃなくて、少しは運動しなさいよ。もう柔道もしてないんだし」


　パンチ、と宝は優しく総一郎の胸をポカリと殴る。


「はいはい、わかってるよ」


　バイクを押しながらなんとなく一緒に歩き始める。


「いいの？　こんなとこ見られたらよくないんじゃない？」


　学校の校則のことを言っているのだろう。高校へ上がって、宝とは別の学校になったが、それでも総一郎の学校のことは有名だ。


「そうだな。でも、いちおう夜道を女子一人ってのもな。まあ、俺なんかより頼りになる奴連れているけどな」


　リンダに投げかけると、歩きながら顔だけこちらに振り返って笑う。本当に賢い奴だ。


「そう？　昔から総はわたしのこと助けてくれるじゃん。結構頼りにしてたよ」


　頼りにしてた……か、総一郎の内心がまたざわめく。


「そうか」


「うん」


　昔、好きだった女の子と見上げた夜空の星は、オリオン座くらいしかわからなかった。

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