第6話
「……ずっと、疑問に思っていた」
俺の話を聞き終えた斎藤は、口をつくように言葉をもらした。
「あの日、乃耶は一人でふらりと轟轟と燃えさかる家の中から出てきた。それも無傷で。妻が乃耶だけを逃がしたのかも考えたが……どうもそれは考えづらかった」
「やっぱり、あの母親は病んでいたのか」
俺の脳裏に、あの幽霊のようなやせ細った女性の姿が思い出される。対面したのは一度だけだったが、生気を吸い込まれそうな、それでいて本人にはまるで生きている気配を感じさせない雰囲気が醸し出されていた。今も、背筋が凍りそうになる。
「なあ、斎藤……」
俺はいたたまれない胸の内を明かそうと口を開いた。
斎藤は突然俺から呼び捨てされたことにムッとしたように顔をしかめた。
「白状するよ。俺は中学のころ、乃耶に出会ってからずっとこの子のことを追いかけていた。だからこそ分かるんだ。お前では乃耶のことを幸せになんかできない」
斎藤は無表情でうなずき、まっすぐに俺のことを見つめていた。おそらくここまで来てなお、奴にとって俺はその辺にいるガキと同じような扱いなのだろう。結局こいつも自分が崇高な大人であるという自尊心がどこかにあるのだ。
「あんな、子どもを育てることは愚か、自分が生きるすべすら忘れてしまったような母親のもとで過ごしていた乃耶ちゃんのことをどう思う?そして、人の車――しかも娘が乗車しているにもかかわらず平然と内部を爆破させてしまうような父親がこれから幸せな家庭を築けるのか?」
「なら、五年もストーカーを続けていて、挙句家を放火させ、誘拐未遂まで起こすような人間とともに生きることこそが、乃耶の幸せとでも思っているのか!」
斎藤は廃材の山から地面にすらりと降り立った。改めて同じ地で対峙する彼の姿は、細身にしてとてつもない威圧を放っていた。
「……俺は、ただ乃耶ちゃんのことを守りたかっただけだ」
背中に感じる乃耶の体温はあの頃より少し冷たくなったような気がした。だが、それは単に今の状況におびえさせているだけなのかもしれない。
早く終わらせなければ。
俺はぐいと乃耶の体を俺の前に回し、背後から抱きしめた。懐から小型のナイフを取り出し、彼女の首元に突き立てる。
「動くなよ!俺でも乃耶ちゃんを幸せにできないというのなら、今ここでこの子の息の根を止めてやる!」
目配せしてくる乃耶の顔はひどく青ざめていた。まるで、あの日の母親そのものだ。
道の先では、衝動的に凶器をかざす俺を憐れむような顔をした斎藤がいた。
娘の命がさらされていようと、一向に焦りを見せない彼に、むしろ俺の胸の奥が冷ややかに固まった。
「殺したいなら、殺せよ。少年」
「な、なにを……!」
ついに俺は身体を砕かれたように身動きができなくなった。こわばった拍子にナイフの刃先が乃耶の柔らかい首筋に当たる。乃耶は小さく吐息をもらし、顔をゆがめた。
一筋の血が、真っ白な襟に吸い込まれ、ジワリとはびこる。
それでも斎藤はやれやれとため息をつくばかりであった。
「乃耶の声が出なくなったのは、火事から逃れてきたその瞬間だった。おそらく、母親が焼け焦げたところを見たからか、放火した輩の一人を目撃したからか。まあ、何らかのショックによるものだろう」
斎藤は両手を、血が滲まんばかりに強く握りしめる。こんな男でも、少しばかりは答えていることがうかがえた。
「それまでの俺は仕事ばかりでろくに家にも帰らなかった。あの日も残業帰りの事件だった。金を稼ぐだけのことで、妻の命と娘の声を失った。こんな愚かなことがあろうか。残念ながら、犯人である高校生三人のうち一人が大手企業の社長だったため、事件はうやむやにされてしまった。だから、罪滅ぼしのためにも、もう一人いたであろう加害者は、俺の手で見つけ出す。そう決めていた」
「そうして見つけたのが俺だった、というわけか」
「もともと乃耶のストーカーであったから、お前の身元はすぐに割れた。まさか本当に事件にかかわっていたとは思っていなかったが」
「俺だって、お前みたいな狂人相手でなければこのまま何事もなくやり過ごす手はずだったさ」
今回については、乃耶の方が俺についてきたということもあるが。
「けど、それだけ執念深く娘の声を奪った犯人を捜していたんだろう?いまさら乃耶ちゃんの命を見捨てる理由にはならないんじゃないか?」
乃耶の命を滅ぼすことを宣言した身でありながら、それを快諾する父親を諭そうとする実態。俺は自身のお人よしさが滑稽に思えてならなかった。斎藤も同じことを感じているのだろう。奴は失笑まじりにこう言った。
「今だからこそ、気が付いたんだ。俺は乃耶の声奪った犯人探しをするという名目のもと、その実、妻子を守れなかった自分を正当化するためにあがいていただけに過ぎなかったのではないかと」
「正当化?」
「犯人探しは一種の罪滅ぼしであり、自分は娘を守ろうとしていることに恰好つけていただけだったのかもしれない。お前の言うとおりだ。俺は人の命を守ることなんてできないのかもしれない。かわいそうな乃耶。だから、お前が殺すというなら、止める理由はない」
「そんなこと……!」
俺の、ナイフを持つ手が乃耶からわずかに離れる。
斎藤はその瞬間を見逃しはしなかった。
「あるわけないだろう」
人の拳よりも小さく、鋭い激痛が、俺の右肩で炸裂する。見ると、木の柄が付いた俺が持つものと同じくらいのナイフが突き刺さっていた。
「乃耶!来い!」
乃耶は時が止まったように俺の傷口を、大きな瞳をさらに見開き凝視していた。だが、やがて我に返ったのか、俺の手からナイフを奪い、真っすぐに父親のもとへ駆け寄った。
ぎゅっと力強く正面から斎藤にしがみつく小さな背中。俺は足の先から崩れるような浮遊感に襲われていた。
よし、よしと斎藤のことは勝ち誇ったように娘のことを抱きしめた。
「この世に、娘のことを捨てようとする親がどこにいる」
力強い斎藤の声は、俺の存在意義をも真っ向から切り捨てるようだった。奴の言葉に納得している自分がいるから余計だろう。
なにより、乃耶は父親を選んだ。俺はあの、儚げに母親のそばで震える少女一人救う権利さえなかったのだ。
真っ白な外見の内面は、欲望にまみれて真っ黒だ。
「俺は、もう……」
生きている価値がない。
そう言いかけた時、斎藤の短いうめき声とともに、親子が立つ地面に鮮血が散った。
一体何が起こったのか。一瞬の出来事であったため、俺は理解が追い付かなかった。
だが気が付くと斎藤は崩れ落ち、腹には俺のナイフが深く突き刺さっていた。
父親を冷酷に見下ろすのは言葉も、感情をも失ったはずの乃耶。斎藤の返り血を浴び、その表情はたぎっているようにすら映った。
乃耶はふっと息を吸い込み、小さく口を開いた。
「――それでも、私はあなたのことが嫌いだ」
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