第5話
翌日の午後十時。俺は約束通り、乃耶の家まで三人を案内した。この日は、なぜか後ろめたさから、タンスにしまいっぱなしだった黒いフード付きのパーカーをぴっちりと着用した。三人からはますます犯罪者らしい出で立ちになったと馬鹿にされた。
「案内したところでどうするつもりだ」
ぶっきらぼうに訊ねる俺に対し、竹中はしたり顔で答えた。
「それはね……」
竹中が懐から取り出したのは銀色のライターだった。同時に乃耶の家の庭で水を撒くような湿った音が響く。
「これでお前の服に火をつけろ」
「は?そんなことするわけ……」
「しないのなら、こっちの家に二人が火を放つ」
僅かにガス臭いにおいが鼻についた。まさかと思い、俺は乃耶の家の塀を昇った。
そこには、小太りの男子と、昨日俺をバットで殴った男子が灯油を入れるタンクをさかさまにしていた。タンクからは液体が滴り、地面の草木を濡らしていた。
「おい、まさか……」
焦燥にかられる俺を竹中は押し、突き落としてきた。
俺はどうにか着地すると、状況を把握しようと周囲を見渡した。
竹中の手下ともいえる二人の男子は俺のことを脅さんとじりじりこちらに滲みよってくる。一方、隣にそびえる平屋からは、かすかだが人の声がしてきた。甲高く、少し舌足らずな少女の声が一方的に聞こえる。おそらく、乃耶が一人でしゃべっているのだろう。随分と機嫌がいい。今日は母親が在宅なのかもしれない。
小太りの方がタンクを投げ捨て、俺の背後を指さしてくる。
「後ろにライターがある。さっさと拾え」
俺が自身のかかと辺りを見下ろすと、果たしてさっき竹中が手にしていたあの銀色のライターが落ちていた。視界に入れるだけでいらだってしまいそうな高価な見た目のものだった。俺は手に取るのも嫌で、ライターを丁度男子二人の後ろめがけて蹴飛ばした。
「なにしてる!さっさと火をつけろ」
細身の方が狂った獣のごとく俺に向かって突進してきた。仕方なしに俺はそいつを力の流れに沿って倒した。もっとも、冷静を欠いた奴の行動ほど単純明快なものはないのだ。いくらひ弱な俺でも、この時ばかりは負ける気がしなかった。
興奮収まらない細身の男子に、俺は馬乗りになり二発、三発と顔面を殴りつけてやった。
これに恐れをなしたのが、あの小太りの方だ。奴は気が動転したのか、足元に転がっていたライターを俺に発火せんと背後から襲い掛かってきた。
俺は素早くそいつの動きを読み取り、横にずれて交わした。奴からしたら、俺は瞬間に消えてしまったように錯覚したことだろう。重たい図体は、ライターに火をともしたまま前のめりに倒れてしまった。
刹那、灯がガソリンに濡れた草に燃え移り、鳥が翼を広げたように広がった。
「離れろ!」
俺の絶呼に我に返ったのか、二人の男子高校生は脱兎の勢いで門扉まで走っていった。
灯は巨大な炎と化し、ガソリンが巻かれていたこともあって、猛威を振るいながら俺や乃耶の家を包み込もうとした。
俺はたまたま庭の隅にあったバケツの水を目深にかぶったフードの上からかぶった。雨水の泥臭いにおいやら、ガソリンやらで鼻いよいよもげそうになった。だが、おのれの感覚に惑わされていたら、乃耶の命が燃え立ってしまう。乃耶の苦しむ姿を想像しただけで、俺は心が急き立てられた。
炎はついに俺の足元まで到達していた。草がびっしり生い茂るこの土地では、二秒数える間にさっきの想像が現実になってしまう。
「待っていろよ。今助けてやる」
俺は素早く家の正面に回り込み、薄いガラスをかかとで蹴り割った。
「おうい!火事だ。早く逃げろ」
驚いたことに、その日、親子は割られたガラスの破片を全身に浴びながらそこにいた。
家の明かりも、物音すら立てずに古びた日本家屋でうずくまっていたのだ。俺は忍ぶように居間に入っていった。
シャリリと心地の良いガラスの音がスニーカーごしに伝わってくる。
薄暗がりの中、空っぽの表情をした女性がこちらを見ていた。何かを訴えたいようで、その内容すら思いつかない。そんな様子だった。この女性こそ、恐らく乃耶の母親だろう。
一方、女性からわずかに距離を置くように、後ろの柱で三角座りをしているのは、ほぼ毎日目にしていた乃耶の姿だった。ただし、一人公園や道路沿いで無邪気に一人遊びをするいつもの様子はなかった。彼女の天真爛漫さは奥底に押し込めるように、膝の中に顔をうずめて、俺を見つめていた。
俺は久しぶりに乃耶と目が合ったことに舞い上がりそうになった。だが、すぐに現実を思い出し、血相を変えたように口を開いた。
「なにしているのですか!二人とも、早く立ってください!もうすぐそこまで火が迫っているのですよ!」
パチパチと至近距離で焚火の音が聞こえる。次の瞬間、激しい熱風が空気を凪いだ。のどの奥が焦げるような痛みを帯びる。
さすがに生命の危機を感じたのか、母親ものろりと重たい腰を浮かした。乃耶は恐怖と熱に身体を支配されたようで、ガタガタと体を震わせ始める。
「の……や……」
かすれた声で名前を呼び、手を伸ばすのは、愛しいあの子に似た、真っ黒で絹糸のように細い長髪を垂らした母親。生気を失い、のろのろ歩く姿は御礼の姿を想起させた。
名前を呼ばれた乃耶は、少しばかり戸惑った表情をした後、小走りで母親のもとへ行こうとした。こんな風貌でも、乃耶にとって目の前の人物は紛うことなく母親なのだ。
「だめだ!」
俺はとっさに長袖のパーカーを脱ぎ、乃耶に背中からかぶせた。そのまま彼女の異様に細い体を抱きとめた。
「そっちに行くと、乃耶ちゃんも燃えてしまうよ。さぁ、早く逃げるんだ」
俺はがっと右足を後ろに蹴った。細く固い棒にぶち当たったような気がしたが、あいにく背後まで目が行き届かなかった。
古びたドアが軋むような断末魔が追いかけてくる。
「早く!」
窓の向こうでは消防車のサイレンがけたたましく鳴り渡る。消防隊を呼んだのは、近隣の住人か。はたまたあの頭が悪そうな高校生男子三人組か。誰でもよいが丁度良いタイミングだった。
家はみるみるうちに炎に飲まれてゆく。とにかく今は非難しないと最悪の事態に陥る。
俺は乃耶の肩を掴み、無理やり、破壊された窓から非難するように促した。乃耶は抵抗しながらも、燃えてゆく家と俺の気迫に圧倒されてか、最後には従った。けれども瞳は母親と同様――いや、それよりもずっと美しく光を遮断し、顔色も雪のように白くなっていった。形容するなれば、まさに洞窟に眠る宝石そのものの輝きすら感じられた。
俺は思わず彼女の美しさに目を奪われそうになった。だがすぐ我に返り、乃耶の背中を強く押した。
「走れ!」
のどがただれ、もはや叫んでいるのかもわからないような声になっていた。ただ乃耶が生き延びることだけを願っていた。
体を突き放された乃耶は、少し戸惑うような表情を見せたが、やがて襲い掛かる炎におびえるように逃げていった。
安堵した俺は、消えたばかりの命を一瞥し誰にも気づかれないように斎藤家を後にした。
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