第3話

 乃耶は想像していた以上によくなつき、結局中古車に移動するまで手を離さない始末だった。

 俺がボロの中古車に案内しても、すんなりついてきた。まるで疑うということを知らないようだった。

「もしかして、実は俺のこと覚えてんじゃねぇの?」

 俺は運転席でシートベルトを締めながら訪ねた。返事は、やはりなかった。

 乃耶が人と言葉を交わせなくなった原因を俺は知っている――かもしれない。

「乃耶ちゃん。今から動くよ?」

 俺は仮面の下に表情を隠すように、無表情を装い訊ねた。

 乃耶も操り人形のようにぎこちなくうなずいた。

 車内に満ちてゆく沈黙にどっぷりつかってゆく中で、もう後戻りはできないということを悟った。だからこそ、このガラス細工のように繊細な少女をどこまで導いてゆけるのか、試してみたい気持ちも募りつつあった。

「じゃあ、行こうか」

 黒い鍵がひねられ、腕から順に古めかしい振動が伝わってくる。不自然なほど横揺れしながら。胸の中で勘とやらがささやいてくる。

 はめられたな、と。

 では、人込みあふれる電車や徒歩で移動するというのか。もし、この車に何かが仕組まれているとして、すでに奴にマークされている可能性の方が高い。徒歩や、足が付きやすい公共交通機関の利用の方がリスクがある。

「……賭けだな」

 俺は右足を強く踏み入れた。


 厚く張られた雲は、日が長くなった六月の空をも真っ黒に染め上げてしまっていた。

 相変わらず揺れが激しいボロ車は、舗装された道路にいちゃもんをつけるかのように騒がしく走行していた。対して隣に座る少女は傷だらけの赤いランドセルに顔をうずめ、前方の景色の身をその済んだ瞳に映しているようだった。

「疲れたかい?もうすぐ家に着く」

 俺はと言えば、相も変わらず執拗なまでに平常を装うとしていた。その実、百メートル、また自宅に近づいていくことへの興奮を隠せずにいた。どうしても上ずってしまう声に羞恥心と憤りすら感じてしまう。様々な思惑を重ねたところで、ここは男らしく無口でいることに限るという結論に落ち着いた。

 自宅まで残り約五百メートル。緊張感と興奮との戦いだったにもかかわらず、随分と早い帰宅だったものだ。なに、中古車のエンジン音一つであんなに不安がることはなかった。俺は鷹揚と交差点の信号で停車した。

 そっと乃耶の顔を見やる。やはり美しかった。凍り付いた陶器のような姿は、ビスクドールを彷彿させた。このおとぎ話の挿絵から抜き出したような子が今、隣に座りで息をしている。

 やはり興奮せずにはいられないだろう!

 俺は糸に引っ張られるように乃耶の頬に触れた。乃耶はその手に食いつくように握りしめた。

ゴトリと重々しい音を立ててランドセルが落ちる。

「乃耶ちゃん?」

 乃屋の指先から、ただならぬ不穏な振動が伝わってくる。呼応するように乃屋は首を横に振っている。これ以上の前進は危険であると警告しているようだ。

 パチリと信号が青に変わる。信号と少女の視線に板挟みになりながら、俺はアクセルを思いきり踏んだ。

 ……が、どうしたものか。車は不吉な破裂音を鳴らしたきり、微動だにしなかった。

「くそっ!なぜだ!」

 あざ笑うかの如く鳴り響くクラクション。発信源は真後ろの……。

「あの車は……!」

 ルームミラーに映るのは、車種にこだわらない俺がわざわざ目に焼き付けていたあの、丸っこいボディー。間違いない。奴だ。

 戦々恐々とルームミラーのさらに奥を見つめてみる。そこにはさながら悪魔のごとく見つめる黒いスーツ姿の男が一人いた。

「乃耶ちゃん、逃げるよ」

 現状にせっつかれながらも、二人分のシートベルトを解除し、俺は勢いよくドアを開いた。一歩遅れて乃耶も外へ飛び出した。

「小川菜白!」

 背後で低音のがなり声が炸裂する。俺がこれまで乃耶のことを追いかけていたように、『奴』も俺のことを調べていたことは明白だった。

「斎藤め……」

 苦虫を噛み潰すというのはこのことを言うのだろう。とにかく今は乃耶を安全な場所まで連れていくことが最優先だ。子供連れで走っていたら、確実に追いつかれてしまう。

「乃耶ちゃん、俺におぶさって!」

 俺は歩道で腰をかがめて指示を出した。そうこうしている間にも奴はどんどんと間合いを詰めてくる。迫真の表情は、力ずくでも乃耶を取り戻そうとしていることが伝わった。

 乃耶は立ちすくみ、迷いを見せている。しかしすぐに我に返り、俺の背中にその身を任せた。

「乃耶!」

 斎藤が乃耶の首根っこを引こうとした刹那、どうにか俺は駆けだし、どうにか逃走することができた。華奢な小学生とはいえ、立ち上がりと同時にずんとした重みが伝わってくる。その重みすら乃耶がそこにいるという事実だけで高揚感に変わった。

「しっかり摑まれよ!」

 このあたりまでくれば、おそらく俺の方が土地感がある。俺はすぐ左の細い路地に入り込み、迷路のような道という道を潜り抜けた。成人男性がギリギリ通れるかどうかといった道幅が幾メートルも続いている。乃耶の足に傷が行かないよう細心の注意を払いながら脱兎のごとく駆け巡った。

 功を奏してか、あんなに近くに感じていた斎藤の気配は次第に薄れ、ついには見当たらなくなった。

「……良かった。もう大丈夫そうだ」

 俺は息せき切らせながら、乃耶を背中から降ろしてやった。乃耶は無表情のまま俺の顔を覗き込み、背中をさすってくれた。

「ありがとう。少し休めるところまで歩こうか。おいで」

 手を引かれるまま歩いてゆく乃耶。やはり従順な少女は可愛らしい。だが、一抹の不安がぬぐい切れなかった。

「どうして、乃耶ちゃんはこんなに俺と一緒に来てくれるんだ?」

 やはり言葉としての返事はなかった。だが俺の手を握る力がわずかに強まる。信頼をしてくれるにしても、乃耶からすれば俺は初対面も同然だ。やはり違和感は払しょくできなかった。

「あそこだ。あそこに行こう」

 俺は目前に迫る曲がり角を指さした。ここを左折すれば、腰かけられるスペースにたどり着く。

 この後のことはどうしようか。それも、いったんこの荒くなった呼吸を落ち着かせてからの方がめどもたてやすいだろう。なんといっても、目的は乃耶を確実に連れて帰るということだ。

 角がすぐそこまで迫っている。俺は安堵の域をもらしながら左折した。

「乃耶ちゃん、ほら……」

「待っていたよ」

 開けた路地にうずたかく積まれた、ブラウン管テレビやらドラム缶やらの粗大ごみ。その頂上に足を組み見下ろす人影。俺はただ目を剥き底にたたずむしかなかった。

「斎藤……。どうしてここに」

 俺はとっさに乃耶を背後に回し隠そうとする。一方で斎藤の方は余裕綽々といった様子で俺たちのことをしたり顔で見下ろしていた。

「お前がここを目指すことくらいお見通しさ。それにしても、随分と時間がかかったようだね。すっかり待ちくたびれたよ」

「俺たちの動向はすべてお前の予想通りだったってわけか。悔しいね」

「僕は君たちよりも長く生きているから、読まれてしまうのは仕方ないことさ。君こそ、僕のこと、ちょっとばかりなめてかかっていたんじゃない?だって、僕とのゲームを中断して休憩しようとしてたんだろう?」

 図星を突かれて、俺は言葉が詰まり、のどが鳴る。

 斎藤は大げさに肩をすくめながら嘲笑した。やがて大真面目な表情に戻り、こう言った。

「さて、本題に入ろう。単刀直入に言う。うちの娘を返せ」

 俺は背後に隠れる少女の姿に視線を向けた。彼女は子供とは思えないほどに座った目で正面の父を見つめていた。俺はそのまなざしに押されるように声を振り絞った。

「娘が帰りたくないと言ったら?」

「乃耶が口をきけないことは知っているだろう。何を根拠としているか知らんが、大した度胸だな。親として、娘を力ずくでも取り戻すに決まっている。それに……」

 斎藤は一呼吸おき、口を開いた。口角の上がり方が、さながら悪魔であった。

「乃耶は賢い子だ。真実を知ったら、おまえとともにしてはいけないことくらい瞬時に理解するはずだ」

 斎藤はスーツの懐からライターを取り出し、片手で火を灯した。

 俺は固唾をのんでひるんだ。事はすべて『大人たち』によって抹消されたはずだった。

「何を知っている」

 表情から悟られないように、心を読まれないように。

 だがそう思えば思うほど、俺の声帯や背筋は震えるばかりであった。

「別に?大したことは知らないさ。お前が投げた、たった一つの炎で俺たちの人生がめちゃくちゃになったってこと以外はね」

 ぞくり、と全身に悪寒が駆け巡る。同時に、腹の奥からすさまじい熱を帯びた塊がこみ上げてきた。

「……あんたの家は、元から崩壊寸前だっただろ」

 俺はわなわなと熱の塊を放出するように口を動かす。視界にあるのはひび割れたアスファルトばかりであった。

「は?何言ってんだ。どこまでも僕たちを愚弄する気か」

 斎藤は相も変わらず落ち着きを払っている。だが、憤慨していることは一目瞭然だった。

「俺は、あの日確かに放火に加担した」

 ゆっくりと顔を上げる。先には会心の笑みを浮かべる斎藤の姿があった。

「あんたがどんな情報網を駆使して俺のことを探ったのかは分からない。だけど、中途半端な情報だけで恨まれてしまうのは、こちらとしてもはた迷惑だ。それに、ここには乃耶ちゃんがいる。――真実を語ろう」

 何かが吹っ切れたように、俺は滔々と話を始めた。

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