第2話
五年前、中学二年生の俺は今の乃耶と同じようにクラスメイトからいじめを受けていた。
中学入学前に俺は親の仕事の都合でこの町に引っ越した。地域ははみ出たものを良しとしない、出る杭打たれるような場所だった。
周りよりもあからさまに白い俺の髪は、同級生は愚か、教師たちからも奇怪な目で見られた。
何度も黒く染めなおしたが、どういうわけか色が入ってもグレーがかった銀髪にしかならなかった。俺は目立たないように黒いフードを日中つけて中学生活を過ごした。
だがそれも周囲からは陰キャ呼ばわりされ、しまいにはいじめの対象となってしまった。
また中学二年生は第二成長期を迎え、体の大きくなる生徒が増える時期だ。残念ながら俺の成長期は高校に入ってからだったため、周囲の男子とはすっかり差が開いてしまった。
体の小さな俺は、よく運動部の部活終わりに空き教室へ呼び出されることがあった。
先輩にかけられるストレスを憂さ晴らしのために加えられる暴力。その日もまた十人ほどの野球部に取り囲まれ、殴られ続けていた。
こういう時に誰もが見て見ぬふりをするのも学校の特色だった。俺はただ全員が気分爽快に帰宅するのを待つばかりだった。
教室が静まりかえったことを確認し、辺りを見渡す。床には血しぶきが散っていた。
俺はどうにか立ち上がり、カバンを、今にも悲鳴を上げそうな肩にかけた。
すっかり顔は腫れあがり、歩くのすらままならない状態で、どうにか近所の公園まで辿り着いた。時刻は午後八時を回っていた。
公園を抜けたら、あと五百メートルほどで帰宅できる。
安心感から、ついに俺は公園のベンチで倒れこんでしまった。
そんな俺を優しくさする手があった。体が揺れるたびに全身が破裂しそうに痛むため、初めは小さな手が幻かと思った。
「ねぇ、大丈夫?」
蚊の鳴くような声が聞こえて、ゆっくり目を開ける。そこにいたのは、右頬に大きなやけどを負った五、六歳の女の子だった。
俺は瞬時にこの子が普通の家庭環境に置かれていないことを悟った。
「おまえ……今の時間分かっているのか?」
女の子は屈託のない表情で首を横に振った。
「分かんない!」
「そうか。でも、少なくともお前みたいなガキが外に出ていい時間じゃない。帰れ」
「やだ!」
女の子は頬に空気をいっぱいに膨らませて抗議した。しかし患部が刺激されたようで、すぐに悲痛に顔をゆがませた。
「何その傷。親にでも傷つけられたのか?」
「違うよ!私がカップラーメン作ろうとしたときに、お湯をかぶっちゃったの」
真っすぐこちらを見つめる瞳に、嘘は感じられなかった。だとしても、親の監督責任とかあるんじゃないのか?
俺はますますこの子の闇を除いてしまいそうなことに抵抗感を覚えた。
「まぁ……そういうことだな。うん。でも、どっちにしてもこんなところにいるのはどうかと思う。さっさと帰りな」
「やだ!」
女の子はやはり聞く耳を持とうとしない。
俺は面倒くさくなり、立ち上がった。
「お前が帰らないなら、俺が帰る」
「やだ」
「しつこい!」
軋んで、空回りしそうな足取りで再び俺は帰路につく。
後ろから飛びつく、人のぬくもり。
腹立たしくて、それすら振り払おうとした。
でも、結果的にできなかった。
離れてはくれなかった。
「どうしてそんなに寂しそうなの?」
そういう女の子の方がよっぽど心細そうで、放っておくことができなかった。
「な……何言ってんだよ」
「だって、こんなに傷だらけで、どうしてどこに帰ろうとするの?」
「家だよ」
「それでは、寂しさは埋まらないよ」
女の子の腕に力がこもる。まるで切腹でもしたかのような痛みが、少女の腕の形に沿ってに走る。でも、俺はそれが不快に感じなかった。
「ねぇ、あなた、なまえ、なんていうの?」
「……小川、菜白(なしろ)だ」
「なしろ――シロ!髪の毛とぴったりだ!」
「あ……」
俺は頭を両手で確認した。一心不乱に前進していたせいで、いつの間にかフードが脱げてしまっていたことに気が付いていなかった。
「おまえ、俺の髪見て怖いとか思わないのか?」
「なんで?きれいだよ」
迷いがない、真っすぐな言葉。
引っ越す前ですら言われたことがなかった。
みんな、何かに気遣うような、あえて触れずに接してくれる。そんな人間関係しか築いたことがなかった。
「……有難う」
本当に感謝してしまうような気持ちは、こんなに稀でなかなか巡り合い難いものであることを、この時初めて知った。
「お兄ちゃん、泣いているの?」
女の子がおずおずと俺の顔を覗き込む。
「別に、泣いてねぇよ」
「そっか!白い人は強いから泣かないんだね」
なんだよ、その設定。
俺は思わず吹き出しそうになってしまった。
「まぁ、そうかもしれないな」
鼻をすすりながら空を仰ぐと、街灯に数匹の夜光虫が群がっていた。白熱灯が危険であることも知らずに飛び回る奴らに目も当てられず、俺はすぐさま視線を外す。
その時、瞳から垂れた雫は、俺の中でなかったことにした。
「ねぇ、シロ!」
「誰だよ、それ。まさか俺のことか?」
「うん!」
女の子は自信満々といった様子でうなずく。
「変な名前つけるな」
「だって、かっこいいじゃん」
「あほか。まるで犬みてぇだ」
「じゃあ、かっこいいも、かわいいも持ってるから、よりいいね」
さっきの感動はいったい何だったのだろう。
俺は大きくため息をついた。口元だけがやけににやけているのがなぜなのか、ただただ不思議だった。
「……いいよ。おまえがつけてくれた名前なら。――ところで、おまえは?」
「なにが?」
「名前だよ。俺、まだあんたの名前訊いてないんだけど」
「あ、そっか!忘れてた!私はね……」
女の子は公園の端に設置されていた滑り台まで走り寄る。時折転びそうになりながら階段を昇り、頂上に来たところで大きく胸を張った。
「私は、斎藤乃耶!六歳!あなたのお友達!」
……何かのアニメの見過ぎだろうか。
という突っ込みは脳内に収めながら、俺は苦笑を浮かべた。
「そうか、乃耶ちゃんか。俺の友達になってくれるのか」
乃耶は滑り台の支柱を昇り棒のように伝って降りてくる。やっぱりこいつ、絶対戦隊ものの番組を見ていそうだ。
乃耶はまるで野兎のように駆け寄り、俺の身体に正面から飛びついた。
「うわっ」
「へへっ!シロ、私のお友達になって!」
温もりが、体の芯まで入り込む。
初めての感覚にむせかえりそうになる。けれども、まるで吸い付けられているかのように離れがたい。
「……初めてなんだ。俺のこと、友達って呼んでくれる人」
「ほんとう?」
乃耶の表情が月明かりに照らされ、ぱっと明るく輝いた。
「うん。すごく……嬉しい。だから、どうかこれからも……」
だが、そこまで言いかけて、のどの奥がぎゅっと締め付けられるような感覚に陥った。
「シロ……。どうしたの?」
「いや、何でもない」
何でもないわけがなかった。だが、それ以上彼女に心の奥まで踏み入らせてしまうことに危険を感じたのだ。
「……もう、本当に帰ろう」
切実な俺の声が届いたのか、ようやく乃耶は身体から離れてくれた。
俺たちはそれぞれ反対方向にヨロヨロと歩いて行った。もう、さほど痛みはなかった。それよりも、胸の奥で『お友達』という単語が執拗に踊り狂っていた。そっちの方が不快にすら感じた。
かくして『乃耶』という存在を認知した俺は、公園を通って帰宅することをやめた。彼女が俺の周囲に取り巻く人間関係に巻き込まれる可能性を、とにかく避けたい一心だった。
中学を卒業するまでは――。
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