第172話


 痒い。

 痒い。痛い。

 痒い。痛い。痒い。

 痒い。痛い。痒い。痛い。

 痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。

 痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。

 痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。

 痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。

 痒い。痛い。痒い。痛い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。

 痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。


 痛い。

 痛い。痒い。

 痛い。痒い。痛い。

 痛い。痒い。痛い。痒い。

 痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。

 痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。

 痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。

 痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。

 痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。

 痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。痛い。痒い。


 痛い。

 室内で泣き続ける女がいた。その体を抱きしめて、沈痛な表情を隠さない男がいた。

 痛みと痒みが同時に襲ってくる体を掻き毟る為の爪はもう剥がれている。指先から、ぼろぼろと崩れて散らばる皮膚は花弁のよう。肌の色は白と黒が斑に斑点になっていて、元が何色だったのかも分からなくなっている。

 その部屋だけは植物からの侵蝕から免れていた。白が基調の壁紙に、白いベッド。床に敷かれた絨毯は薄桃色。クローゼットや椅子、テーブルなども白だ。

 女を抱きしめる男の顔にも、白と黒の斑点が見られる。しかし、その頬にある菊の文様をした葉緑斑だけは色を変えずそこにあった。

 痛い。

 女が呻いた。その体を抱きしめる腕から、僅かに力を抜いた男。

 寒い。

 女が呟いた。それを聞いて、男は抱きしめる腕に力を込め直した。


「紫廉」


 男が名を呼ぶ。腕の中の女―――かつてはマゼンタという名で生きていた者の名前だ。

 紫廉と呼ばれた女は、その顔を上げる事は無い。その紫色の双眸は、ただ男の胸元に注がれていた。


「顔を、見せてください」

「……いや、嫌よ。私、こんな醜い姿になっちゃった。貴方に病気を移しちゃった。私、もう、生きてられない」

「貴女が」


 約束を破ったから。

 酒場を見に行ってしまったから。

 男―――ロベリアの口から、その言葉が出る事は無かった。代わりに、その体を抱きしめる腕に力を更に籠める。

 こうなる事を恐れていた。ロベリアはその未来が少しだけ見えていたのだ。イキモノとしての人格を歪めるような教育を受けたマゼンタは、自分より弱い者の存在が、自分に勝てる訳はないと思っていたから。

 ロベリアは知っている。傲慢な者の短命さを。足元が見えていない短絡的な者の死は、いつも誰かに掬われて終わる。一人の愚か者の死が目の前にあるだけだが、ロベリアにとってはそれだけじゃない。

 自分を。

 自分を無条件で肯定してくれた、大切な女の死だ。


「……貴女がどんな姿になっても、僕は貴女を愛していますよ」


 だから、せめてその死が少しでも優しいものになるように、ロベリアは言葉をかけ続ける。病気が移って、それが自身の死を招くと知っていても、抱きしめ続ける。

 この病気は厄介だった。もとよりプロフェス・ヒュムネは強靭な体をしている。植物特有の疫病など、殆ど罹らないと言ってもいい。しかし、いざ罹るとなると話は違う。この疫病は、前例がないのだ。それが、もう手遅れなほどに進行している。


「僕は、貴女に居なくなられると嫌なんです。最期まで、あの世まで、ご一緒します」

「……ロベリア、ロベリアぁ……。痛いよ、痒いよ、痛い、痛い……」


 泣き続ける紫廉と同じ痛みを感じているのはロベリアもだ。既に、その指先からは皮膚が剥がれかけている。進行が遅いのは、紫廉と違い直接傷口から疫病を受けたわけでは無いからと、半分はヒューマンの血が流れているからで。けれど、その皮膚の下に流れている赤い血が、二人のいる寝台を汚している。


「愛しています、愛してるんです、紫廉。貴女を救えなくて、ごめんなさい」

「ロベリア、……ロベリア」


 その時だった。扉が開く音をさせる。ロベリアは反射的に、その扉の方角を見た。

 現れたのは、二人にとっての災厄。

 アルギン・S=エステルだった。




「……お邪魔しちゃったかねぇ」


 扉に凭れ掛かるようにしながら、まるで汚物を見るような視線を投げかける。既に二人にはいつか見たような美しさは無い。疫病に罹っていることを知っているから、プロフェス・ヒュムネの二人は廊下に置いてきていた。

 寝台の上の一人は、もう戦意もないようだ。ただ、ロベリアだけは寝台を降りる。手には薄いカード状の何かを持っている。それは薄暗い室内の中でも分かるほどに無機質な光を放っていた。そのカードが、みるみるうちに血で汚れる。血はカードを伝って、絨毯の桃色を緋色へと斑に染めた。


「ご機嫌はどう、マゼンタ。ユイルアルトの特別製の心地は天にも昇る気分だろ?」


 今言われたくない言葉を、アルギンはそうと分かっていて言い放つ。そして、その腰の剣を引き抜いた。血に塗れた、という意味ではこの剣も相当数の血を吸い、首を狩った。勿論それはアルギンの手によるものではないけれど。

 重い剣だ。けれどその重さは誰かを殺すものの重さだ。命なんて、この剣とは比べ物にならないと分かっている。

 震えているマゼンタの姿は、つい最近見たそれより随分と変わってしまっていた。その姿にアルギンが興ざめしたような顔を向けた。


「……黙って、こちらを出て行ってくださいませんか。マスター・アルギン」

「それは出来ない。討ち漏らして生き延びられたら事だからな、すまんが死んでくれ。……アタシの兄の仇だ」

「僕たちは死を待つだけの命です。この時間を、貴女に奪われたくはない」

「アルギン、止めてやれ」


 二人のやり取りの後ろで、ミュゼが声を掛けた。


「どうせ助からないよ、その二人。無駄に時間を使ってる暇なんて無い。殺すのは反対するね」

「ミュゼ、お前さんはいっつもそれだなぁ? この期に及んで不殺が成立するなんて思うな」


 アルギンはもうミュゼの話も聞かず、一歩を踏み出す。その一歩に合わせて、ロベリアがアルギンに手の中のカードを投げつけた。

 空を裂いて飛んでくるそれを、アルギンはただ二歩動くだけで躱す。カードは標的を失い、勢いよく絨毯に突き刺さった。


「っく……!!」


 ロベリアが苛立ちに呻く。次のカードを手に掴んだ際、それは自身の血液で滑って落ちた。


「っあ、あああああっ!!」


 それを身逃すミュゼではない。アルギンがロベリアの元へ到達するより早く、その腕に向かって槍を振るう。穂先が肉を抉り、カードが床に散乱した。よろめく体を、ミュゼは遠慮なく蹴飛ばし床に転がす。


「ロベリアぁ!!」


 マゼンタの声だ。悲愴な声はアルギンの鼓膜に響く。愛しい者を呼ぶ女の声だ。同じような声を、アルギンも出した覚えがある。けれど今この声で呼び覚まされるのは怒りだけだ。


「アルギン、これで戦意喪失だ。心置きなく二人だけで死なせてやれ」

「お前さんのお人好しには反吐が出そうになるよ。……まぁいい、別にアタシもそこまで鬼じゃない」


 アルギンも渋々だが剣を鞘にしまう。ミュゼが出てきたのは意外ではあったが、目的は達成したようなものだ。アルギンはただ、マゼンタに聞きたいことがあったから。


「マゼンタ、……オルキデから聞いたぞ。兄さんは処刑って名目で殺されたんだな?」

「姉様っ……? マスター、姉様は!? どうなったの!!」

「さてな。最期はアタシの盾になるってんで、今一階でドンパチやってるよ。いやぁ、まさか今更あんな忠義心出されても困るっての」

「そんな、姉様……、まさか、マスターに……言っちゃうなんて」

「オルキデに聞き損ねたことがあってな。兄さんがアタシを巻き込まないようにって処刑されたってんなら、アタシはどうして二代目引き継がされた」


 ロベリアが、体を引きずって寝台に近づく。その姿を横目に、ミュゼが廊下に向かって歩き出す。

 マゼンタは―――悲しそうに、笑っていた。


「そんなの。……分かっていて、聞いてるんでしょう?」

「……そうか」


 それが、答えだ。


「今までご苦労だった、これでお前さんたちへの怒りも帳消しにしてやる。代わりにお前さんたちの姉に全部背負ってもらおう」


 アルギンはそれを最後に廊下に向かう。苛立ちも失望もすべて限界値を通り越して無感情だ。

 骨の髄まで利用されていた。それを、改めて突き付けられた。

 部屋の扉は閉まり、再び二人きりの世界になる。マゼンタが、もう既に殆ど機能していない腕をロベリアに伸ばす。ロベリアはその手を取ることもせず、ただ曖昧に笑って見せた。立ち上がったロベリアだが、その体は力なく寝台に倒れる。指先から流れるそれとは桁違いの血液が寝台を汚した。


「ロベリア、……ロベリア」

「……紫廉、すみません、ありがとうございます」


 二人とも、もう枯れるだけの命だ。それを知っていて、アルギンは見逃した。


「ろべりあ」

「……すみません、紫廉。僕はもう、疲れてしまいました。休んでも、いいでしょうか」

「……こわいの。こわいよ、ろべりあ。おねがい、こわいの」

「紫廉」

「さいごにみるのは、あなたがいい。おねがい、もっとちかくにきて」

「……はい。貴女が望むままに」


 二人が寝台に隣り合って横になる。ロベリアの体は、もう自分の体ではない程に重く感じている。

 魔女の呪いだった。こうしてゆるゆると命を削り取られていく。ロベリアは、マゼンタを怖がらせないよう笑顔を浮かべた。


「僕も、そう思っていました。最期に見るのは貴女の笑顔がいい。……だから、笑ってください」

「……ろべりあ」


 ありがとう。

 そう言って、マゼンタは―――紫廉は、笑った。

 それと同時だった。

 その喉元を、ロベリアの持つカードが掻き切ったのは。

 痙攣して、苦悶の声を上げる紫廉をロベリアは抱き続けた。


 そしてその痙攣が終わる頃、同じカードが次はロベリアの喉を裂いていた。


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