9
サジナイルの顔が曇っている。面倒な時に面倒な事が起きた、とでも言いたそうな気だるげな顔だった。立場もそうだが、サジナイルは現時点で四隊長――もう三人になってしまったが――のうちの最年長だ。こんな事でも見て見ぬ振りは出来ないのだろう。
その場で野次馬達を追い払い始める。『風』隊長の言ともなれば、聞かない訳には行かず野次馬は散り散りになった。
「んで、何やらかしたんだコイツ」
一通り野次馬を追い払ったサジナイルは、まるで汚物でも見るかのような視線を地に転がったままの仕官に向けた。緩慢な動作で胸から煙草を取り出し、その場で火をつける。小気味良いマッチの音がアルギンの耳にまで届いた。
「………アタシが」
「……あぁ? 声小せぇ」
「アタシが、隊長に任命されたのは、他の隊長を咥え込んだからだって」
「ハッ……。こんな食いでのない女なんざ誰が摘まみ食いするかよ」
「ネリッタ隊長がアタシを側に置いてたのも、好色もいい所だ、って」
「…………あー……」
サジナイルが煙を吸ったのは、ほんの一回だった。その場で煙草を地面に投げて、火を踏んで消す。
勿体ないな、と、喫煙癖がないアルギンでもその時思った。しかしサジナイルは、煙草に未練がないとでもいうように、仕官の側まで歩いて行って―――
鈍い、音。
「………え……?」
「もうさぁ、いっそついでにコイツも燃やしてネリッタん所送ろうぜ」
「ちょっ……サジ、ナイル、様?」
サジナイルが、仕官を蹴り飛ばしていた。重い体はそこまで飛ぶわけでもなかったが、地を二・三回は転がったように見える。既に気を失っているのか、男は動きもしなかった。―――生きているだろうか。
仕官の胸倉を掴んだサジナイルが、その呼吸を確かめる。血まみれの顔、折れた歯が見える口から僅かに呼吸音が聞こえた。それを聞くだけ聞いて、遠くから怪我人の為に走って近づいてきている医療部隊の面々に投げつけるように捨てる。
「俺に任せときゃ、ソルビットも懲罰房なんか行かずに済んだろうにな」
頭に血が上りやすい性質ではあるサジナイルだが、アルギンの知っている限り、弱ったものに更に制裁を加えるような男ではなかった。……ネリッタの名を聞いてから様子が変わったのを見るに、やはりこの男も引きずっているのだろう。
「ま、ソルビットもよくやった! って感じではあるけどなぁ」
「……アタシが、本当なら懲罰房行きだった筈なのに」
「ああ? そんなに懲罰房行きたかったのかよ、お前。変態だな」
「あぁ?」
「ああ?」
二人が睨み合う。サジナイルとアルギンは波長が合うのか、それ以上喧嘩腰になる事はなかった。昨日の件が特別なだけで。
サジナイルは舌打ちをしながら、もう一本の煙草を取り出した。「ん」と鼻で言いながらアルギンにそれを差し出す。
「……サジナイル様、いいの? 高い奴じゃん」
「要らねぇの? そういやお前って、飲むけど吸わないっけ」
「……まぁ、うん。でも、貰います」
指で摘まんで、他隊の隊長から火を借りる。吸い方は知っている。実践は今日が初めてだ。
口に咥えて、煙草越しに、吸うように空気を取り込んで。それから肺に―――、と、いった所で喉が拒否した。
「っ……んぐ、ゴホ! ゲホッ!」
「あーあー、無理すんな。お前って本当真面目だよな、酒しか覚えてこなかった訳?」
「……そんなの、……覚える時間もなかったよ」
もう一回煙草を咥えた。吸ってはみるが、喉を通る煙の違和感に再び咳き込んでしまう。
見かねたサジナイルがそれを取り上げた。そしてそのまま捨てるかと思いきや―――それは、彼の口に運ばれていった。
「!!?!?!?!!!!?」
「あー、うっせー。別にいいだろお前みてぇな処女なんざ女として見るより最早娘だ」
「どっちが変態だよ信じらんねぇ!! 娘の煙草とかだったとしても吸ったら気持ち悪ぃだけだろ!?」
「うっせーうっせー。俺に女として見てほしかったら誰かに抱いてもらってからにしろ」
「はああああああああああ!!!? サジナイル様、幾ら隊長だからってアタシに対する横暴と軽視が酷すぎやしませんかね!?」
「………」
アルギンの言葉はちゃんと聞こえているようだが、煙草をふかしている間サジナイルは無言だった。その間もキーキー吠えるアルギンを視線だけで迷惑そうにしながら、やがて紫煙を吐き出しながらアルギンに顔を向け。
「俺、もうすぐ隊長じゃなくなるから宜しくな」
「………へ……?」
「まぁ、そろそろ潮時とは思ってたがな。ダーリャもいない、カザラフも辞めた。同期のネリッタは……まぁ、ある意味俺のせいで死んだからな」
「え、な、なに、それ。なんでそれが、サジナイル様のせいになるの?」
「あの場で隊長としての実戦経験が多いのは俺とネリッタだったろ。……実際、落石くらいは予測できていた。なのに強行したのは俺とカリオンで、しかもカリオンはまだ隊長に就任してから日が浅い。俺としての責任の取り方は、これくらいしか無いんだよ」
「辞めないって責任の取り方は」
「無ぇよ。……いや、無いって訳じゃねぇが。でもよぉ、俺もそろそろいい歳なんだわ。歳ばっかり若いお前たちと混ざって早い時間に執務とか、そろそろしんどい」
サジナイルの煙草はどんどん短くなっていく。まるでそれが、二人の会話の制限時間のような気がして。
「俺も、まぁ既婚者だしな。今のうちに騎士辞めて、ちょっと嫁さんとゆっくりしたいってのも本音だ。……ネリッタを近くで見てたからな、嫁はいるうちに大事にしねぇと」
「それで、ネリッタ隊長をダシにして辞めるっての」
「人聞きが悪いんだよ、ばぁか。後任をいつまでも待たせるってのも悪いだろ。……次の隊長は、エンダだからな。虐めてやるなよ」
まだ、煙草の火は消えない。まだ話していられる。そう思っていたアルギンの目の前で、煙草が地に落ちる。
サジナイルの爪先が、その日を踏んで消す。躙る音が、アルギンの耳に届いた。
「……なー、サジナイル様」
「あん?」
これが最後である気がしていた。この男は、物事を決めたら変えない男だ。軽く振舞っているが、同期のネリッタを喪った事は、彼の心に暗い影を落としている。
「ネリッタ様が大天幕で言ったこと覚えてますか」
「大天幕? ……ああ、礼がどうとかいうアレか?」
煙草を持っていた方の手で、サジナイルが頭を掻く。今の今まで忘れていた顔だ。
「……礼、って。俺には出来ることは少ないぞ? ネリッタから別口で頼まれてたことも、もう俺には出来そうにない」
「今のサジナイル様しか叶えられない事なんだよ。……隊長から別口?」
「お前の恋路の手伝いしてやれ、って」
「ぼぇ!!?」
一瞬でアルギンが羞恥に噴火する。隊長に知られてる恋路なんて、絶賛片思い中のあの話しかない。
首を振って全否定する。ネリッタが居なくなってすぐさま恋愛に浮つけるような薄情ではなかった。
だから、この話を最大限未来の為に利用する。
「そうじゃねぇよ!!」
「違うのか」
「アタシを何だと思ってんだよサジナイル様。……そうじゃなくて、さ」
その場で出した提案に、サジナイルは眉を顰める。「お前、マジか」と、心底嫌そうな声が聞こえた。「マジだよ」と、返したアルギンにサジナイルは考える素振りを見せて。
「……俺、その話飲むとエンダに一生恨まれそうなんだが」
「そう? だとしても一番の恨みの矛先はアタシだな。まぁ一緒に恨まれましょうやサジナイル様」
「勘弁してくれ、右腕だった男から怨嗟の声なんぞ聞きたくねぇぞ俺はよ」
アルギンは笑ってサジナイルの背を叩く。苛ついた顔で見返されたが、それを無視して歩き出す。
本当に、彼は最後までアルギンを心配してくれていた。それが分かっただけでも嬉しかった。
「ま、それが受け入れられるかはアイツの心持ち次第ですからねぇ」
「……まぁな」
他隊の隊長を連れて、向かう先が出来た。数歩先を軽い足取りで歩きながら、回転するように振り返る。
まだ複雑そうな顔をしているサジナイルは、黙ってその後ろをついて歩く。もうアルギンの不遜な態度など慣れたものだ。
二人が向かう先は既に決まっている。―――城仕えの者の殆どがその存在に怯える、懲罰房。アルギンは役職を持たなかった時代に、何回も世話になっていた。もうその中に何年入っていないだろう。
今でもその頃の事を思い返すと冷や汗が出る。けれど、行かなければ。
懲罰房の中で俯いているであろうその人物の姿を思い浮かべながら、二人が先に進んでいった。
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