8

 副隊長を指名しない事には表立って隊長に就任できない。就任式を後回しにするということは、そういうことだ。

 アルギンはぼんやりと、執務室の来客用のソファに座って天井を見上げていた。

 なにが、どうして、こうなった。落ち込んで底に這いつくばっていた気分は多少は浮上したものの、疑問で一杯一杯だ。

 隊長に任命と聞いた瞬間、言葉の意味が理解できなかった。その言葉を幾度も幾度も反芻し、自分なりに分かりやすい答えに辿り着く。

 誰かアルギンを推挙した人物がいたらしい。それも強く。……強く推挙とはどういう意味なのだろう?

 書類仕事も整理できていない。机に積もる一方の書類は、風でもあったなら一撃で飛んでいくだろう。

 気分が落ち着かないのを、隊長就任の報を受けたせいだと考え直す。何かのせいにすることで、思考も纏まってくれるかもしれない。……どちらにせよ、もう今日は仕事なんて出来そうになかったから。


 書類を放置し、執務室を出て、外の風に当たりに行った。

 昨日の今日で、城の中は静かだ。元から馬鹿騒ぎが許されているわけでもないが、まるで消沈したような空気が漂っている。

 ぼんやりと中庭に出る。見上げると各隊長の執務室が東西南北に見えた。この景色も見慣れたものだが、今日は何か意味合いが違って見える。

 その中の一室が、自分のものになる、と。

 それはつまり、隊長執務室を持つ者達の同僚になるということだ。

 凄く名誉あることだと思っている。孤児出身としては身に余るほどに。


「……」


 嬉しい。でも確かに荷が重い。けれど、これは大出世だ。育ててくれた兄が聞けばお祝いのひとつでもしてくれるだろう。

 なのにアルギンは途方に暮れていた。突然、ネリッタを喪ったのだ。

 もう、これからは自分が頑張っていかなければならない。これまであった後ろ盾がない状態で。

 これまで副隊長として上手くやってこれたのはネリッタがいたから。ソルビットに言ったそれに、嘘はない。いや、真実しかない。こんなに急に、隊長になれと言われて、そして自分には副隊長が付く?

 それを、自分が指名しなければならない。

 ……身震いした。


「あ、アルギン副隊長!」


 突然、声が掛かる。聞き覚えのある男の声だった。名を呼ばれた方を向くと、『花』所属の仕官がいた。ああ、と気のない返事を返すと、仕官は側まで近寄ってくる。身長はアルギンの頭一つ分高い。


「全軍に通達がありました。隊長就任、おめでとうございます。流石はアルギン副隊長です」

「……」


 顔は覚えている。声も、覚えている。あまり関わりの無かった奴だが、その姿を忘れはしない。

 ………覚えざるを得なかったからだ。

 陰で、アルギンの事を中傷していたうちの一人だったから。


「ネリッタ隊長の意志を告げるのは、副隊長しかいないと思っていました。だから俺、今回の事は自分の事みたいに嬉しいです」

「………」


 白々しい。

 お前はネリッタ隊長の事も「気持ち悪い」とか言ってたじゃねぇか。元々は『風』配属希望だったとか?

 アルギンの心中に黒いものが渦巻く。見え透いたお世辞を苦笑で聞き流し、中身のない相槌を繰り返した。それに相手は気付いているのかいないのか、話を続ける。


「俺、……本当はずっと前から、アルギン副隊長のお力になりたいと、思ってました」


 切り出された話に、アルギンが鼻白む。ああ、本題はこっちなんだな、と。一瞬で不愉快さが増大したが、聞かない訳には行かなかった。


「俺が、貴女を支えます。ですから、俺を副隊長に指名してください!」


 へらへら笑いながら、「女が上司とかやってらんねぇよな。顔は良くてもそれ以外が最悪」とか言ってたのはどこのどいつだ。目の前の男と、そんな陰口を叩いていた男の顔が一致して勝手に眉間に皺が寄る。

 話の内容にはさして大きな差はないが、アルギンはソルビットの言葉を思い返していた。ソルビットの言葉には嫌悪感を感じなかったのは、それが彼女が『風』として任務を遂行するにあたって身に着けた言葉選びなのだろうか、と思った。今にして思えばソルビットは、アルギンには害を与えてこなかった。……ネリッタが受けた仕打ちに関していえば、恐ろしい諜報員なのだが。

 隊長任命直前のソルビットの青褪めた顔を思い出したら、この仕官の前だというのに自然と笑みが零れてしまった。アルギンの破顔を見た仕官は、自分の言葉に対する了承だと思ったらしくどこかいやらしい笑みを浮かべていたが。


「すまん、無理」


 アルギンの一言で、笑みは凍り付く。


「お前さんさ、アタシやネリッタ隊長に関して陰で何か言ってただろ。知らないとでも思ってたの?」

「っあ、そ、それは」

「上司に不満持っててもいいけどさぁ。それを本人に聞かれちゃー……駄目だろぉ。別にそれに関しちゃ処罰とか考えてないけど、次からは気をつけろよ? ……あ、でもさ」


 言い訳を重ねようとした仕官が唇を震わせる。その隙を与えないように、遮るように。


「……『おめでとう』って、何。お前さん、ネリッタ隊長が死んでそんなにめでたいって思ってる訳?」

「―――あ」

「ちょっと、お前とは価値観が合わないかな。無理。すまん」


 もし、この男が。

 もし、最初に、アルギンの気持ちを汲みながら喋る気遣いが見られる男だったら、副隊長に指名することも、少しだけなら考えたかもしれない。まぁ、本当に考えるだけだったろうが。

 男の言葉の安っぽさが鼻につく。この男の舌の根はそんなに乾きやすいものなのか? 対して、ソルビットの言葉はどれだけ輝いて聞こえたものか。それが本当に媚びから来る言葉だったとしても、どれだけ慰めになったか。


「っあ、アルギン副隊長」

「んじゃな。その熱意別の場所で生かせ。あ、折角だからお前さんにゃ『風』への異動でも進言しといてやるよ」


 ―――もう、その顔も見たくねぇしな。

 それは吐き捨てなかった。なんとか堪えて言葉を飲み込む。しかし、我慢できなかったのは向こうのようで。


「っ……、その顔と貧相な体使うだけで隊長になれる女は違うよなぁ!?」


 大声が、中庭に響いた。

 息が止まる。何を言われたか分からなくて、振り返った。


「どうせ他の隊長も咥え込んだんだろ、この阿婆擦れ! お前なんか『女』ってだけで股開けば優遇されるんだから良いよな! ネリッタ隊長も、嫁がいるとかなんとか言ってた割にはお前みたいなの側に置いて、好色もいい所だったぜ!!」

「―――」

「お綺麗な顔して、やる事は商売女と同じか! そんな奴らが命令すんじゃねぇ、気色悪いんだよ!」


 何を言われているか、理解したくないだけだった。侮辱されている事だけは即座に分かったが、その内容がネリッタとどうしても結びつかなかった。

 あんなに細君想いで、アルギンの事を想ってくれて、だから側で仕えたいと思っていて。

 そんな彼を侮辱されていると気づいて、アルギンは気付いたら拳を固めて走り出していた。

 男の表情が変わる。曲がりなりにも副隊長まで上り詰めて戦場にも出る騎士の拳だ。その顔が変わるまでぶん殴ってやる―――、そう、思っていた。


 鈍い音がする。


「―――あ」

「………」


 仕官とアルギンの間に入って、拳を遮った人物がいた。アルギンの拳は、アルギンのそれと同じくらいの大きさの手で包まれている。しかし、勢いを殺しきれず、手はその持ち主の頬にめり込んだ。

 見知った茶の髪だ。癖の強い毛先は落ち着きがなく、四方を向いている。

 痛いだろう。彼女の口端から血が流れている。口を切ったようだった。


「そる、びっ……と……」


 アルギンの声が震えた。まさか彼女が仲裁するなんて、と思った。

 ソルビットは無言で、アルギンの手を解放する。その瞬間のアルギンの心は大きく揺らいだ。

 なんで。なんで邪魔するんだ。お前さんは、アタシの味方だろ。

 縋った自分がいることに、アルギンは再び動揺する。味方なんて、誰もいないと思っていた筈だ。それが、ソルビットを目の前にして揺らいだ自分に、ただ驚いた。


「―――食いしばれ」


 ソルビットは、アルギンを見なかった。代わりに、アルギンに背中を向けて、仕官に拳を振り上げる。

 鈍い音が再び聞こえた。顔面を狙った拳が、仕官の鼻っ柱を折った。

 え、と声が漏れる。アルギンが自分の目を疑った。その間にも、二発、三発と、拳が仕官の顔に命中する。

 やめろ、と、声にならない掠れた音でソルビットの肩を掴んだ。けれどソルビットは、それを振り払って再度仕官を殴りつける。地に倒れた仕官の胸倉を掴んででも、空いている方の手で引っ張り上げてまで。


「っだ」


 それはアルギンがやりたい事だった。私刑と言われても、処罰を受けても、それでも構わないと思えるほどの侮辱だった。

 なのにそれを実行しているのはソルビットで。ソルビットは無関係のはずで。肩で息をしているソルビットの肩を再度掴んだ。


「だめ、だ……! もう、もう止めろ!!」

「………」


 アルギンの懇願を受けて、ソルビットが仕官を地に投げ捨てる。気付いたら、周りには人が集まってきていた。

 見られていた。アルギンの血の気が引く。ソルビットは『宝石』と呼ばれる美貌の口元から流れる血を、流れるような指先の動きで優雅に拭き取って、アルギンを見返した。


「……アルギン様こそ、駄目ですよ。あんなの殴ったら、貴女の手が痛んでしまいます」

「―――」

「私、言ったでしょ。誰にどんな事したっていい。この体で役に立つなら、貴女を引き留められるなら。私、なんだってする」


 言葉の意味を、本気にしていない訳では無かった。

 けれど言葉の裏の意味は、それまでアルギンが聞いてきた何よりも、重くて。


「私を娼婦、とか。売女、とか。『宝石』なんて耳障りのいい呼び名で呼ばれても、全然嬉しくなかった。貴女が私を呼んでくれる名前が、一番好きだった」

「だから、って、こんな、懲罰対称な事」

「死ぬ訳じゃないですから。……それに、もう、貴女は隊長になる人だから。だから、こんなつまらないことで処罰とか……受けないでくださいよ」


 次第に周囲の者が近づいてくる。あ、駄目だ、『風』の別の仕官だ。ソルビットよりも階級が高い。

 ソルビットの顔は、覚悟している者のそれだった。


「ま、て」

「……アルギン様、失礼します」


 後から来た『風』の仕官が、ソルビットを連れて行った。乱暴に腕を引いている。


「ちょっ……ソルビット……!!」

「……あちゃー」


 それを呼び止めようとしたが、背後から聞こえた声に振り返る。呼び止めても止まらないことは知っていたからだ。


「おーおー、全くうちのお姫様がこんな荒事するなんてねぇ」

「っ……」


 振り返ると、そこにいたのはサジナイルだった。肩までの赤毛が揺れている。

 軽薄、とまでは言わないがネリッタとは別の方向性を持つ隊長だ。殴られて踏まれたのは昨日だったか、とアルギンがぼんやり思う。それまで気にならなかった後頭部のコブが鈍く疼いた気さえした。


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