3-2
アルギンが小さく息を飲む。
ネリッタが他人に対して攻撃的になったり、怒気を露わにするのを見るのは初めてではなかった。ただ、その対象が自分だという事態は初めてだった。
明らかに顔色を青ざめさせているアルギンを見て、数秒の後にネリッタがはっと気付いたような顔をする。あからさまに視線を逸らして、苦々しげに表情を歪めた。
「っ……あ、……違う、違うの、アンちゃん。違うの、アタシ、貴女に怒ってる訳じゃない、の」
それはアルギンを怖がらせた罪悪感かもしれない。突然の事にアルギンは事態を理解出来ていないが、怒りの対象が自分でないことに僅かながら安堵した。
息が止まった気がした。まるで刃物を首元に押し付けられたような感覚。アルギンがまだ続く首の違和感に、そっと肌を自分で撫でて異常がないかを確認した。
「……ったく、あの雌猫……なんていうタイミングで伝言残すのよ……」
「雌、猫?」
「知らなかったわ、アンちゃん。あの子と仲が良いの? ……雌猫ってアレよ、ソルビットの事よ。アタシ、駄目なの」
まるで忌々しいものを呼ぶかのように吐き捨てる様子は、普段温厚なネリッタの姿とは一致しなくて。
アルギンが呆気にとられている間も、ネリッタが話を続けた。
「駄目なのよ、アタシ。あの子。気付いたら個人情報全部抜かれてた事があってね、それからもう受け付けなくなったわぁ」
「個人情報?」
「そう、個人情報。……アタシだって知られたくない事のひとつやふたつあるわよぉ。それを難なく調べ上げられたのよ。もう信じらんない。仕事の腕は認めるけど、だからってどうしてアタシなのよぉ」
嫌な顔をしながら首を振るネリッタ。流石のネリッタでも苦手なものはあったんだな、とアルギンが改めて思う。珍妙な隊長の新しい一面を見た気分だ。
怯えた表情じゃなくなったアルギンに安堵したように、ネリッタが微笑む。その表情はもう怖くない。
「……ごめんなさいね、アンちゃん。怖がらせちゃった」
「い、いえ。アタシは大丈夫です。そうとは知らず名前を出したアタシのせいですし」
「んーん。これはアタシが未熟なせいよ。駄目ねぇ、ちょっと色々あったからってアンちゃんに八つ当たりしてるようじゃ、アタシもまだまだね」
再び机の上の書類に目を通し始めるネリッタ。面倒そうな動きではあったものの、必要な箇所に署名を書いていく。暫くは、そのままで時間は進んだ。
書類の枚数が半分程度になった頃、ネリッタが手を止める。夕日の光に照らされたネリッタの顔が、アルギンに向いた。
「ねぇ、アンちゃん」
「はい?」
「聞かないのね」
「何を、ですか?」
急な言葉には、アルギンは戸惑いを見せるだけで。その様子にネリッタは悪い気はしないらしく、再び口許に笑みを湛える。
「アタシの隠し事の話よぉ」
「……隠したいから隠し事でしょう? それって聞いちゃいけない奴じゃないですか」
「アンちゃんのそういう真面目でおとぼけなところ、本当大好き。貴女を副隊長にして本当に良かった」
「……? 褒めて貰えてます? なんか違う気がする……」
「褒めてる褒めてる。貴女もいずれ分かるわ、こんな地位にいるとね、蹴落とそうって奴らばっかり群がってくるのよ」
ネリッタの話に、アルギンは複雑そうな顔をしている。実際アルギンが出世してから寄ってくるのは面と向かって嫉妬にまみれた言葉を投げてくる者ばかりで、あれらは蹴落とそうとしているのか微妙なところだ。
アルギンが何とも言えない顔で考えていると、耐えきれないといった様子でネリッタが噴き出した。肩を揺らして前屈みになって笑っている。
「……本当、貴女が副隊長で良かったわ」
「はぁ……」
「アタシね、貴女に嘘吐いたの。本当はね、アタシ動物は好きなのよ。今日の猫とかちょっとだけ触りたかったわぁ」
急なネリッタの告白に、アルギンが目を丸くした。朝の冷たい表情などは、本当に動物が好きだったら出来ない表情だと思ったからだ。
そんなアルギンの考えを見抜いてか、ネリッタは言葉を続けた。
「触れない理由があるのよ。貴女にも、まだ話せてない」
「……そう、ですか」
言われた言葉に、少しの寂しさを感じたものの、アルギンは瞳を伏せてそう答えた。
誰にだって知られたくないことはある。それはネリッタもそうだと言っていた。アルギンだって同じだ、だから、敢えて聞かない。
けれど。
「……貴女に信頼してほしいって、あれだけ言ったアタシが、貴女に話せてないことがあるなんて不誠実な話よね」
「それは仕方ないです。アタシだって、そんな無理に聞きたいなんて―――」
「アタシに子供がいないって話、したことあるわよね」
突然別の方から話を切り出されて、アルギンの言葉が止まる。返事が声にならず、頷きで返した。
「アタシの奥さんがね、体弱くて。赤ちゃん出来たらその赤ちゃんと一緒に死んでしまう、ってまで言われてたのよ。いつどんな理由で熱を出すかも分からなくて、だから、結婚する前から家より病院にいる方が長かったわ。……結婚した時だって、医療費が嵩んだお義父さんに、金に物を言わせて攫うようにお嫁さんにしたんだけれど。一昨日だって体調悪そうにしてて、何でもないって言ってたけど病院に連れて行ったら……そのまま入院になっちゃって」
「入、院?」
「やっと今月病院から帰ってきたばかりだったのよぉ。アタシだって毎日見舞いに行ける訳ないわぁ。なのに、あの人、『私は大丈夫だから心配しないで』なんて」
それはネリッタが、アルギンに初めて見せた弱みだ。
今までのネリッタに抱いていた人物像が、緩やかに変わっていく。それはいい変化なのか悪い変化なのか、今の時点では断言できないものだった。ネリッタの言葉選びはいつものものだ。けれど、声色が明らかに違う。明るさも朗らかさもかなぐり捨てた、素のネリッタだ。
「……だから、ですか」
伏せがちな瞼の隊長に、アルギンが問いかける。
「猫を触らなかったのは、奥様の為、ですか」
「……そうね」
聞いてから、何を当たり前なことを聞いたんだと後悔した。話を聞いていれば分かるだろうことを。
けれどネリッタは嫌な顔なんて見せなかった。
「猫には失礼な事かも知れないけどね。もし、アタシが猫を触った事が原因で病気を奥さんに運んだとしたら、アタシ後悔してもしきれないわぁ。冗談抜きで、何があの人の事を―――」
ネリッタが言葉を止める。その先は、口に出すだけでも不吉な言葉なのだとアルギンは気付いてしまった。言いかけた言葉を喉奥に押し込めるように、ネリッタが目元を抑えて苦虫を噛み潰す。
「……怖い、のよ。アタシは、アタシが無頓着にした何かで、あの人に何かが起きることが。それがこの先も続いていく。望んだことだし、それに関しては何の後悔もないんだけど……、時々、とっても、辛くなるの」
「それが毎日なら無理のないことです。それだけ、隊長は奥様を愛してらっしゃるんですね」
「勿論よ。生まれ変わってもあの人がいいわぁ。そしたらアタシ、どこにいてもあの人見つけて何度だってお嫁さんにするんだから。……でも、そうね。次はあの人も健康な体でいて欲しいわ」
そう語るネリッタの表情は、落ち着いたものになった。
ころころと表情の変わる直属の上司は、愛する者を語るだけその表情を変えていく。アルギンにとって、それが羨ましく思えた。
アルギンにとって今一番大事な人は引き取ってくれた兄だ。兄は一人の自立した存在だから故に、ネリッタのように大事な者へ心を砕くという経験がない。
「その時は……今度こそ、結婚式……したいわねぇ。旅行にも連れて行ってあげたいし、一回くらいはお酒だって飲ませてみたいわぁ。動物を飼うのもいいかも知れないけれど、やっぱり子供が欲しいわ。外見はあの人に似て美人になってほしいけど、中身はアンちゃんみたいな子だったらアタシ凄く嬉しい」
「アタシを買い被りすぎですよ、隊長は」
「そんなことない。アタシあの人に言ってるもの、アタシが、………」
今度のネリッタの言葉の切り方は先ほどと違った。アルギンの方を見て意地の悪い笑みを唇で描いている。
「……やっぱり言わなぁい」
「えー」
「これ以上言ったらアンちゃん有頂天になっちゃうから。調子に乗って居丈高に振舞うアンちゃんなんていやよぉ、アタシ」
ころころと笑うネリッタに、不満そうに唇を尖らせるアルギン。
それでも言葉から察するに、何かしら褒められている内容なんだということは伝わった。それだけで嬉しくなる。
「ねぇアンちゃん、今日残業する仕事残ってる?」
「いえ、急ぎの分は終わらせましたので」
「じゃあ今日お酒付き合いなさい。エイスさんのところでいいから」
「え……奥様へのお見舞いは大丈夫なのですか?」
それは単純に心配して聞いただけなのだが。
「暫くは面会も出来ないのよぉ」
ネリッタは直ぐに、笑顔で返答する。
アルギンはまた後悔した。この言葉一つに、上司の悲しみが滲み出ているような気がしたから。
それを言わせたのは自分だった。自分はまた、この人を悲しませることしか言わない。
「さて、今日は何がお勧めなのかしらぁ。エイスさんのお勧めにハズレが無いのが凄いわよね、アタシの好み見破られてるわぁ」
「明日も大変なんですから、飲みすぎないでくださいよ」
「それはこっちの台詞だわぁ!? アンちゃん、アタシがおぶって帰ったのって何回あるか覚えててぇ!?」
喚きながら書類仕事を終わらせていくネリッタに、アルギンは生暖かい笑みを浮かべたまま耳を塞ぎ「聞こえなーい」ととぼける。
二人のやり取りに、こんなお遊びが増えてきた。二人の仲は良好で、隊の雰囲気は活発で。
そのまま、二年が過ぎた。
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