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 アルギンの『花』副隊長就任から二年が経った。

 初めはアルギンの就任に異を唱える者も多く前途多難であったが、ネリッタはアルギンをよく使った。どうすればアルギンの執務が効率よくなるか、どうやればアルギンの機嫌が悪い時でも執務に向かわせることが出来るか。二人は上司と部下という関係でありながら、まるで親子や姉妹のような振る舞いで協力してきた。

 二人の仲を親密すぎるとして穿った見方をする者もいれば、上下関係の在り方として不適切とする者もいる。しかし、その声は『鳥』隊長カザラフの退任と共に減少していく。同時に新しい隊長として就任したカリオンは、執務を効率よく回せる二人の関係を肯定していた。カザラフの事をクソだなんだと酷評していたネリッタも、カリオンには信頼を寄せていたようだった。

 新体制で行う執務は快適で、それが日常になってきたある日。

 停戦から開戦へ。


 以前より悶着のあった帝国との情勢が悪くなった。城の者は戦場へ往く事になる。

 それはアルギンとて例外ではなく、『花』の副隊長として何回も戦地に赴いた。

 開戦、交戦、膠着、停戦、そして開戦、交戦、膠着。

 ひとときの停戦の直後、更に『月』隊長が一人、旅に出るために騎士を辞めた。

 そしてそれは何度目の膠着の時だったろうか。アルギンが戦線から城に帰った時の話である。




「……隊長ー……?」


 大多数の者が戦線に向かって、配備が手薄になった城の中。誰もいない廊下の真ん中に立って、アルギンは困惑していた。

 執務時間だというのに、隊長であるネリッタがいなかった。一緒に城に帰ってきている筈なのに、どこを探しても彼がいない。よく考えたら、戦場からの帰城直後から姿は見えなかった。

 戦況報告の書類の束を抱えて途方に暮れていた。これは自分だけで処理できるものではあるが、隊長に目を通してもらわないといけないもの。前線にいる訳でもないので急ぎの仕事という訳でもないのだが、ネリッタの居場所を把握できないという状況は困ったものだ。


「今までこんな事なかったのになぁ、おかしいなぁ」

「どうしましたか?」


 アルギンの独り言に、女性の声で聞き返す声があった。


「んー、いや、ネリッタ隊長見なかっ……た……?」


 それを女従か何かだと思って答えるアルギン。その人物の顔を見た時、アルギンが声量を下げた。


「……なぁんだ、ソルビット……お前さんかぁ……」

「なんだ、って何ですか」


 明らかに気落ちした様子のアルギンに、ソルビットは憮然とした様子だ。

 ソルビットもアルギン達の帰城と時を同じくして、『風』副隊長であるエンダと共に戻ってきていたのだ。ソルビットから少し離れた場所から、エンダが近寄ってくる。


「どうしたよ、アルギン。こんな所で右往左往か? 道にでも迷ったか」

「御冗談。なぁエンダ、ネリッタ隊長見てない? 朝からどこにもいないんだが」

「あ? ……お前、聞いてないの」

「え、何をだよ。こっち戻ってきてから全然顔合わせてねぇんだよ」

「……そうか」


 エンダとソルビットが視線を合わせた。何かを視線だけで会話している様子だ。暫くの後にその視線は離され、ソルビットの重い唇が開きかける。


「アルギン様、ネリッタ様は―――」

「呼んだ?」


 ソルビットの声に重ねるように、聞きなれた声が聞こえた。

 アルギンが声がした方を振り向くと、そこにいたのは見慣れない姿。

 化粧っ気が一切なく、ベリーショートの髪を撫でつけ、上から下まで黒の正装に身を包んでいる。

 え、とアルギンが息を飲んだ。その姿は、まるで。


「アンちゃんが執務室にいないから焦っちゃったわ。アタシを探してくれてたのね、アリガト」

「……隊長、?」

「さ、行きましょ。仕事仕事。んじゃお疲れ、エンダ」


 アルギンの背を押すようにしながら、その場を離れることを急かすネリッタ。もし、これでネリッタがいつも通りの格好をしていたなら、天敵とも言えるソルビットがいるから逃げようとしているように見えただろう。

 しかし二人の側から離れようとするネリッタの声の様子がおかしい。突き抜けるような明るさが無い。アルギンの胸に嫌な予感が過る。

 ネリッタはアルギンの背中を押し続け、そのまま執務室へ。ネリッタは部屋に入ると、アルギンから書類を受け取ると上着を脱ぎながら自分の机に向かう。腰を下ろした椅子が、ネリッタの重さに悲鳴を上げるように軋む。


「いやー、疲れちゃったわ。仕事してないのにおかしい話よね。アンちゃん、ちょっと今日も飲みに付き合ってくれる?」

「……隊長、今まで、どちらにいらしたんですか」

「イヤン、そんな私情も聞いちゃう? アンちゃんになら話してもいいけど、高くつくわよ?」

「隊長」


 ネリッタの瞳が、赤い。

 目の下には隈がある。


「何が、あったんです」


 まるで生気の無いその瞳の違いに気付けないほど、抜けた副隊長ではない。語気を強めて問いかけると、ネリッタは盛大に溜息を吐いた。


「……これまでずっと、アタシはアンちゃんを副隊長に据えて良かったとしか思わなかったけど。今日初めて、その観察眼を呪ったわ」


 呪った、とは物騒な言葉だ。しかし、その表情はどこか諦めがついた顔。

 何を言おうか、どう言おうか。まるでそう逡巡するような沈黙が続く。


「奥さん、死んじゃってたの」

「―――。」

「知ってたのよ。危篤だって、一報が向こうにまで届いてたからね。アタシも間に合うか分からなくて、他の隊長達に無理言って、帰らせてもらって。死に目には間に合わなかったわ。最期まで、アタシに逢いたいって、言ってくれてたって」


 語るネリッタの表情は無い。これまで散々泣いた顔をしていた。


「……情けないわ。アタシ、あの人を守るって、寂しくさせないって約束してたの。最期の最期に一緒にいないなんて、約束破りもいいとこだわ。責められた方が楽だったけど、お義父さん泣いて感謝してくれた。最期まで、あの人の心にいてくれてありがとう、って。アタシがいたから、あの人は一人にならずに済んだって」


 声が、低い。


「……なんでよ」


 ネリッタの瞳が、涙に沈む。


「違うの。アタシは、そんな約束、あの人の為にしたんじゃないの。アタシがあの人を守りたかった。あの人と一緒にいたかった。アタシはアタシの事しか考えてなかった。そんな風にありがとうなんて言われたくなかった。だってアタシは、あの人と最期まで一緒にいたかったの。その一番最後の願いを、アタシは果たせてない」

「……でも、奥様は幸せだったのでは」


 涙は落ちる事は無い。けれど代わりに、その唇が自嘲に歪む。


「最期までアタシの名前を呼んでたのよ。その声を、アタシは一番近くで聞きたかった。一番大好きなあの人の声は、もう聞けない」

「―――……」

「最期まで一緒にいて、次も迎えに行くからって、言いたかった。それが出来なかったんですもの、アタシは、自分の願いも、あの人の望みも、叶えられなかったの」


 言葉に出ないまでも、ネリッタの声には後悔が感じられる。体の弱い妻の死に目に遭うことは、きっと彼の一番の願いだったはずだ。

 机に両肘をついたネリッタは、手を組んで額を預けた。


「……苦しい」


 素直な、ネリッタの弱音。


「どうすればいいかしら。後添いなんて貰う気はないけど、アタシ寂しくて辛くて悲しい。半身を喪うってこういうことなんだ、って、今なら分かるの。あの人は、ユティスはアタシの半身だった。アタシ、傷がないのに血が止まらないの」


 絞り出すような声は、苦痛に溢れて。アルギンは俯いてその声を、ただ聞いていた。ここまで弱ってしまった上司に、掛ける言葉が見つからない。

 それでも、誰かを喪って傷ついた心の痛みは少しだけでも理解できる。


「隊長」


 側に寄り添って、組まれている手に触れる。大きな骨ばった手を両手で包んだ。ネリッタは、驚いた顔をしている。


「血は、止まりません。大事な人の形に傷がついたまま、多分、永遠に流れ続けます」


 アルギンも両親やギルドメンバーを喪っている。自己防衛の為か昔の事は忘れてしまった。けれど、両親の事を考えようとすると、決まって胸が痛む。ネリッタが妻を喪った、この痛みよりは軽いかもしれないけれど。


「でも、奥様との楽しかった思い出を苦しい今の記憶で塗りつぶさないでください。楽しかった頃の思い出は、笑顔で思い出してください。でないと奥様は、隊長を悲しませることしか出来ないと気に病まれます」

「……アンちゃん」

「アタシでいいなら、お酒付き合います。無理に笑え、とは言いませんが、隊長の事を心配している奴がここにもいるってことは覚えてて貰わないと困り、―――」


 ネリッタの腕がアルギンの胴に回る。強い力で抱きしめられて身動きが出来ない。


「ごめん、泣かせて」

「隊長」

「ごめん、無理。そうよ、楽しかったわぁ。あの人と一緒にいられて、きっと、アタシが一番楽しかった、嬉しかった、幸せだった。誰よりも愛してた。もういないなんて信じたくない、けれど泣いてばかりだとあの人もアンちゃんも悲しむわぁ」


 アルギンの服が涙で濡れる。ネリッタの声が震えている。アルギンは抱きしめ返すこともせず、ただ、されるがまま。

 次第にネリッタの声は大きさを増していく。鼓膜が痺れる程の慟哭を、アルギンは初めて聞いた。この悲しみは生涯尽きることは無いのだろうと思うと、アルギンの瞳にも僅かに涙が浮かんだ。

 ネリッタの嗚咽は暫く止まらなかった。堰を切ったように溢れた涙は、殆どすべてをアルギンが受け止める。


 それがアルギンが見た、最初で最後のネリッタの涙だった。


 

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