3-1

「アンちゃん……」


 ネリッタの溜息。


「アタシ、確かに貴女に自由にしていいって言ったけどぉ……」


 立ったまま、頬に手を当てて困った顔をしている。


「まさか、ここまで自由にするなんて思わなかったわよぉ?」

「ご、誤解です!!」

「誤解にしては……ねぇ?」


 今の時間は始業の朝。この場所はネリッタとアルギンの執務室。厳密にいうと、騎士隊『花』の隊長であるネリッタの執務室ではあるのだが、その副隊長を勤めるアルギンの執務部屋でもある。

 だから、ネリッタがノックも無しに部屋に入ってくるのは当然の事でもあるのだが。

 誤解だ、と言ったアルギンの手には平皿があった。その中には、ミルク。アルギンは床に片膝をついている状態だった。

 そしてこの部屋を縦横無尽に動き回っているのは、生後そこまで経っていないであろう毛玉。

 猫、だ。灰色の毛並みを持つ、小さな生き物。


「ちゃーんとミルクまで用意してるあたり、どうも周到よね。アンちゃんって猫好きだったんだ?」

「べ、別にアタシはっ……! その、登城途中で懐かれてしまって。首輪もなくて、飼い猫じゃないみたいで……」

「ふぅん? それで連れてきちゃう?」


 ネリッタは子猫に視線を向けただけで、それだけでもう自分の机に歩を進める。どっかり座ったその様子は何かがいつもと違う。

 にゃあ、と鳴いた子猫は広い室内で遊び疲れたのか、アルギンの膝元に擦り寄ってきた。


「……貰い手は、もう決まってます。すぐに見つかりましたから、仕事終わりまでどうか、許していただければ……」

「構わないわよぉ。でも爪とぎとか粗相とかは遠慮してもらいたいかしらぁ。それが出来るなら大丈夫」

「あ、……ありがとうございます!!」


 隊長執務室の机の上には、新しい書類が数枚置かれている。それに目を通し始めるネリッタと、その様子がやはり普段の彼とは違って見えたアルギン。

 猫をそっと腕に抱きあげ、自分の隊長に向かって声を掛ける。


「あの……隊長?」

「ん、どうかした?」

「その、アタシ……何か、不手際でもしでかしてしまったでしょうか」


 いつもと態度が違うのが丸分かりだ。かといって、アルギンにはうっすらとその理由が分かっている。腕の中の、小さな命。

 ネリッタは背凭れに背中を預け、少し考えるように唸ってから。


「……ね、アンちゃんって、副隊長になってからどのくらい経つ?」

「は……。え、ええと、三か月……でしょうか」

「そう。……そうよねぇ、やだ、アタシったら。アンちゃんとは勝手に長い付き合いのような気がしてたわ。そうよね、ルノーツちゃんが辞めてからそんなに経ってないわよね」


 化粧はしていても、元が筋骨隆々の中年男性だ。笑顔が消えた顔には凄みが感じられる。

 アルギンの腕の中では猫が体を擦り寄せている。愛らしい猫の仕草、と人の目には映るだろう。そんな猫を、ネリッタは冷ややかな目で見ていた。


「アタシ、ルノーツちゃん以外の城の奴らには言ったことないわ。だから、アンちゃんも黙っててくれたら嬉しいんだけど」


 椅子の背凭れが軋む音。ネリッタは背凭れから体を起こし、アルギンは声に出さず、軽く頷いた。


「……生き物、駄目なのよ。アタシ。特に、ちいさいの」

「……え」

「あ、でも暴力振るったりとか、そんなのはしないから。別に、側に来ないならそれでいいの」


 意外な答えだった。慈愛に満ちたこの男の言葉とは思えないアルギンが目を丸くする。ネリッタは再度書類に目を通し始め、サインが必要な所にペンを走らせる。もう、アルギンの方も見ない。


「……そうとは知らず、失礼しました」

「いいのよぉ、こっちの問題だし。……それより、アンちゃん」

「はい?」

「腕」

「え」


 ふと気が付く、腕の生暖かさ。

 鼻腔を擽る不快な臭い。

 視線を腕まで下げると、子猫が腕の中で粗相をしていた。


「わーーーーーーー!!!?」

「何やってんのかしらねぇ……」


 慌てていると、ネリッタがその場を書類を持って立ち上がる。アルギンの隣をすれ違いざま、その頭を大きな掌で撫でてから、視線を合わせてきた。


「一旦隊舎に帰りなさい。猫の事が落ち着いてから仕事に戻ってらっしゃい、そのぶん今日は残業をお願いしようかしら」

「は……はい」

「んじゃ、アタシはカザラフの野郎のところに顔出してくるわぁ。他にもいろいろ仕事してくるから、戻りは夕方ごろになるかしら」

「承知しました、いってらっしゃいませ」

「はぁい」


 書類を持った手をひらひらさせながら、ネリッタが執務室を出ていく。後ろ姿に頭を下げていたが、扉が閉まると同時に顔を上げる。

 腕の中の子猫は不思議そうな顔をしていた。身動ぎすることなく粗相をするとかとんだ特技だ。

 頭を撫でてやる。気持ちよさそうに瞼を下した猫は小さく喉を鳴らした。




 アルギンが着替えの為に隊舎に戻り、猫を連れて城に戻ってきた昼頃、城門付近で知った顔を見つけた気がして足を止めた。

 その人物は疲れた顔をしている。あと少し歩けば城の敷地内だというのに、門の手前で止まっている。癖の強い茶色の髪は編み込まれて纏められ、整った横顔には化粧を施してある。着ている服は薄緑と濃い緑のツーピース。知っていなければ、或いは言わなければ、それが仕官だということに誰も気づかないだろう。

 声を掛けるのを憚られた。しかし、その人物は声を掛ける前にアルギンの視線に気づいてしまった。


「っあ―――」

「……よう、お疲れ」


 アルギンを見つけて言葉を失っている。振り向いた彼女の胸元は挑発的なまでに開かれている。そこから見える豊満な肉付きに、アルギンが無言で嫉妬する。

 騎士隊『風』隊員、諜報部隊所属のソルビットだ。


「アルギン、さま。お、おつ、お疲れ様です」

「任務帰りか? ……終わってすぐ戻ってくるのも忠義的でいいとは思うが、その服は少し他の奴らに刺激が強いかも知れねぇな」

「し、失礼致しました!!」


 猫を指先であやしながらのアルギンの言葉に、ソルビットが顔を赤らめながら胸元のボタンを掛け直す。何とか肌色を隠し終えた服だったが、その豊かな膨らみの形は崩れることはなかった。羨ましさに無意識に唇が尖る。


「別に、アタシは……失礼とか、思ってないけど。でも男たちから変な目で見られたりとかしないの。嫌じゃない?」

「そ、そんな事は! もう、慣れてしまいましたしっ……それに」


 ソルビットがどんな仕事をしているのかは、噂だけだが聞いたことがあった。輝く美貌と肢体を存分に活用した『宝石』。他国の要人に愛でられることを主な仕事としているせいで、頭の足りない者からは『娼婦』とまで蔑まれている。……そいつらと同じ頭の構造をしているような者どもが、ソルビットの標的であるのだが。

 アルギンの問いかけに両腕を振りながら否定するソルビット。言葉を続けようとしたらしいが、声は腕の動きと共に、ある瞬間から止まる。

 ソルビットの視線が、アルギンの腕の中の毛玉に向いた時だ。


「……ねこ」

「ん、猫」


 何故ここに? とでも言いたそうな顔だった。


「ちょっといろいろあってな。ある奴の仕事終わりまでアタシが預かってる形になってる」

「ある奴?」

「『花』の仕官でな。引き取り手探して声掛けたら二つ返事で了承してくれたんだよ」

「あ……、そうですか、仕官。……私はてっきり」


 ソルビットは姿勢を屈めて猫と視線を合わせた。手は、出そうとしない。


「ネリッタ様の事かと」

「あー……、隊長なぁ」


 『話すな』と言われたことが頭を過った。だから、ソルビットの言葉にどう返したものか思考を巡らせる。

 ソルビットは同じ姿勢のまま、視線だけを上げてアルギンの表情を窺うような顔をしていた。『宝石』と呼ばれている彼女の瞳は、そう呼ばれても不思議ではないほどの輝きを有している。これが女として磨き上げられた存在なのだと、自分との対比を思わせて何となく気恥ずかしい。


「隊長に話す前に、引き取り手は見つかったから」

「……へぇ? そうなんですね、残念がってたりしてませんでしたか?」

「そんな事はな、……あ、あぁ……まぁ……」


 何を答えていいのか。何を言っていいのか。それに戸惑ってアルギンが言葉を濁す。ソルビットの瞳が何かを探っているような目になっているような気がして、目を逸らした。

 ソルビットはアルギンの様子に気付いていながら、溜息を吐きながら姿勢を戻す。


「……さ、こんな所でアルギン様を足止めする訳には行きませんね。私も報告がありますし、これで失礼させていただきます」

「あ、お、おう。お疲れ。またな」

「そうそう、アルギン様」


 去り際のソルビットは、城門を潜る直前にアルギンを振り返る。


「ネリッタ様に、『奥様のお加減は如何ですか』とお伝えいただけたら幸いです」


 ソルビットはそれだけ言うと、もう振り返らずに歩いて行った。ヒールが石畳を叩く音が聞こえる。

 後ろ姿まで完璧な美しさだった。放心したように背中を見送り続けて、腕の中の猫が鳴くまでそのまま動けなかった。




 それから、夕方。

 窓から入る夕日の光は眩しくて、アルギンは一人で来客用で置いてある藍色のソファに座ったまま時間が過ぎるのを待っていた。

 猫は、もう引き取って貰った。これから飼い主になる男は少し前に愛猫を亡くして落ちこんでいたが、今回の猫を引き取る話を持ち掛けられてからは仕事中も猫の事ばかりを考えていたらしい。猫に考えていた名前を早速付けて、そのまま退勤していった。

 だから、もう、ここにいるのはアルギンしかいない。部屋の主が不在の室内は静かで、だからこそ仕事が捗ってしまい、残業するまでの書類はもう残っていない。

 ネリッタがいない空間に慣れなかった。ついこの間までは、この部屋の扉をノックするだけで緊張したものだ。そうして出迎えてくれるルノーツ副隊長と、ネリッタ隊長。その二人がいないこの執務室には違和感を覚える。ただひたすらに、居心地が悪い。


「アンちゃああああああああああああああああああああーーーーーん!!!!!」


 ……そう、こうして怒号と共に入ってくる上司がいなければ。

 ノック無しで入ってくる隊長を振り返る。年齢のせいで額に浮いている青筋は、彼の怒りをそのまま映しているようだ。彼ご自慢の高い化粧粉でも、夕方まで血管を隠し通すのは無理だったらしい。

 重めの足音が耳に届く。ネリッタはアルギンのすぐ側、二歩手前で足を止めて猿のように暴れ始めた。


「聞いてよアンちゃん!! クソザラフの野郎がまた嫌味言ってきたのよ!? あの生え際怪しいクソ野郎、少しはテメェん所の若いの見習って物腰柔らかくならないのぉ!!? ダーリャもダーリャよ、あんのクソザラフ相手に何へらへらしてんだか、ねちねち言われて殺意沸かないの!? どうなってんのあの神父! すき!! サジナイルがクソザラフに一発口でかましてくれなかったらアタシが殴ってた!! もー隊長会議とかうんざりよ!! アタシアンちゃんいなきゃもう会議行かない!! クソザラフの癖に調子乗りすぎよぉおおお!!!」

「た、隊長」

「アタシこんなに疲れてるのに! なんで!!」


 ネリッタはその場で地団駄を踏んだ。感情爆発しているネリッタにアルギンも引いている。


「今日はアンちゃんをぎゅーも出来ないの!! なんで!!!」

「え」

「あああんもう、今日は厄日よぉ!」


 散々喚き散らした後で、ネリッタは自分の執務机に座る。整頓された書類の束に手を付けて、一枚めくるごとに溜息を吐いていた。

 ここまで奇怪な行動をするネリッタを初めて見る。その姿形からして珍妙ではあるのだが。

 アルギンは立ち上がって、ネリッタの側に控えた。


「……仕事終わってんじゃない。アンちゃんのいけず」

「いけずって……。時間があったらそりゃ仕事するでしょう。今日もお疲れ様でした隊長」

「ありがと。アタシ生まれ変わったらアンちゃんの伯父になって貴女を甘やかしてあげるわ」


 そう語るネリッタの視線は部屋の中をぐるりと見渡していた。まるで、何かを探すように。

 やがて、その姿を認められないことを受け入れたネリッタはぽつりと呟き始める。


「猫、もういないのね」

「……え」

「ちょっと後悔したのよ。キツい言い方になっちゃったから」

「そんな事、ないです。そもそも猫を連れてきたアタシが悪いんですから」


 そう、と、ネリッタは微笑んだ。

 どことなく微妙な空気になってしまったのが嫌で、アルギンが無理矢理別の話題を振る。


「そういえば、ちょっとした伝言預かってました」

「なーに? 仕事の話とかもうイヤよぉ?」


 ネリッタは微笑んでいた。


「そんなんじゃないですよ。『風』所属のソルビットが、『奥様のお加減は如何ですか』って―――」


 その時には。否、名前を出した時には。

 もう、ネリッタは笑っていなかった。


「―――あ?」


 低く、凄みを聞かせた声。

 研ぎ澄まされた刃物のように鋭い視線。

 それらは、アルギンの一身に注がれていた。



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