第161話
「……そん、な……」
必要以上にベッドへ近寄らないことを条件に、入室だけは許されたフェヌグリーク。部屋の中は血で汚れた箇所が幾らかはまだそのままで、シーツにも血が付着している。片付ける余裕も人手も無いのかもしれない。シーツなどはアルカネットを動かせるようになるまではそのままだろう。
アルカネットはまだ寝ていた。目を覚まさない、といった方が正しいかもしれない。ベッドから起きない兄を見て、フェヌグリークが膝から崩れ落ちた。血による異臭がするこの室内、医者の二人はフェヌグリークを痛々しい顔で見ている。
「……兄は、どうなりますか。助かりますか」
「それは、アルカネットさん次第です」
「そんなに酷いんですかっ!?」
「大声は出さないでください。こちらのお願いを聞いていただけないのなら部屋から追い出します」
涙目のフェヌグリークに、ユイルアルトは同情していても容赦はない。追い出す、と突っぱねられたフェヌグリークは唇を引き結ぶしかなかった。医者二人がアルカネットの命を救うために努力していることは、部屋の隅に何枚も重ねられた、血で汚れた白衣を見れば分かる。
「なんで、こんな事に」
「……トーマスから聞いてないのか」
「話してくれませんでした……。ただ、兄が……斬られて、重傷で、それで、って」
「あの野郎」
「これって……、この酒場の仕事が原因なんじゃ、ないですか」
「はぁ?」
フェヌグリークの言葉はただの質問だったかもしれない。けれど今のアルギンには、その真意を汲み取るだけの心の余裕がなかった。苛立ちを混ぜた声を上げると、肩を揺らしてフェヌグリークが怯えた。
今更引っ込みがつかなくなって、舌打ちを一回。心の中では『やってしまった』と思っている。
「トーマスが自警団の仕事で呼びに来て、先に出て行った。後を追ったら、もう斬られてた」
「トーマスさん、が?」
「だから、聞いてないのかって言ったろ。一連の事を近くで見てたのはアイツだよ。アタシ達は後から話を聞いただけだ、寧ろこっちだって話を聞きたい側なんだよ」
「自警団の、仕事で、こんな……」
フェヌグリークとしては、まさか表の仕事でこんなことになるなんて考えてなかっただろう。正直なところ、アルカネットの体にある傷は表の仕事でついたもののほうが多い。それを知っているだろうか。
「なんで、斬られたんですか」
声には怒りが感じられる。
「誰が、斬ったんですか」
それを聞いてどうする。アルギンがその言葉を飲み込んだ。知らないから、知りたい。それだけの質問だ。
フェヌグリークが何か大事を起こしに行くような性格をしているとは思わない。だから、口にする。
「騎士隊『風』隊長、アールヴァリン王子」
「……騎士? 王子、って……」
「元、次期国王。昔はそんなことするような奴じゃないって思ってたんだがな、……って、おい?」
アルギンからそれを聞いたフェヌグリークは、体をふらつかせながらも立ち上がった。表情は消え、黒い前髪から覗く瞳は暗くて昏い。アルギンは再び、自分の口から言葉を出したことに後悔する。
「王子、アールヴァリン。わかりました、覚えました」
「……覚えて、何する気だ」
「それ、言う必要がありますか」
こんな表情をする者が次に何をするか、アルギンはよく知っていた。不安定な足取りが部屋の出口を目指し始めたのを見て、去ろうとしている腕を掴んだ。
肩越しに振り返った瞳は泣いた影響で赤い。頬には幾筋もの涙の跡が見える。
「どこ、行くつもりだ」
「……別に、どこにも」
「本当か? そんな顔をしている女はな、良からぬことを起こしに行くって相場が決まってんだよ」
「私の事なんて、貴女には関係ないじゃないですか!」
「関係あるから言ってんだよ、ふざけんな!!」
二人が大声を出した途端、ジャスミンがさっと近寄ってきて無言のまま二人を扉に向かって押し出した。突き飛ばされることはなかったが、ぐいぐいと押されて扉を開かれ、そのまま出されてしまう。二人の目の前で無情にも扉は閉まった。
「………。」
「……。」
大声に関する忠告を受けていた二人は、追い出されたことに放心はしても自分たちが悪かったと納得はしている。しかし、互いへの納得いかなさで、一瞬だけ視線を合わせはしたもののまたすぐに逸らす。
扉の前、まだフェヌグリークはここから動こうとする意志を止めていない。再び去ろうとするフェヌグリークを、アルギンは今度は肩を掴んで止めた。
「だから、どこ行こうってしてんだよ」
「そんなの、私の勝手じゃないですか」
「勝手だったとしても、お前さんに何かあったらアルカネットから怒られるのはこっちなんだぞ。アルカネットは言わないが、アイツはお前さんの事を大事な妹って思っ―――」
「だから!?」
声は廊下に響く。少し離れた場所で、赤ん坊の泣き声が聞こえた気がした。
「私は、アリィに怒れない。自警団の仕事でこうなっちゃったんだもの、寧ろアリィのしたことは立派だわ。人を守るために庇ったんでしょう?」
「……そーかい。アタシらの仕事の話知った時とはえらい違いだな」
「人を殺すことを止めて、真っ当に生きていてくれてる。私はそれが嬉しかった。アリィから受け取るお金を後ろめたく感じる必要もなくなるって、そう思ってた。なのに、人を殺す仕事を割り振っていた国が、そんな国の王子が、アリィをどうして傷つけたの?」
「それは」
「まさか貴女と王子が共謀してるんじゃないでしょうね!!」
「馬鹿か!!」
反射的に、アルギンが拳を振り上げる。その姿に怯えたように全身を震わせて、フェヌグリークが自分の頭を庇った。握りこんだ指への力を抜くこともせず、しかしそれを振り下ろすこともなく、アルギンが硬直する。
殴れなかった。相手はアルカネットの家族だ。それでなくても、女だ。その真っすぐな感情を押し付けてくる幼さは、罰が必要な罪にはならない。殴れない拳は逡巡し、暫くの後に指が開かれる。その手はフェヌグリークの頭の上に置かれた。
「え」
アルギンの手が、フェヌグリークの髪を雑に撫でつける。ここに来るまでに焦って、取り乱して、少しだけ髪型が崩れていたようだ。決して優しい手つきではないそれは、アルギンの怒りを隠しているもの。
怒っている。アルギンの瞳はフェヌグリークを睨みつけていた。
「……お前さんも。アルカネットも。気付いてくれよ」
小さな声はアルギンの悲痛な心を現したようで。
「アルカネットは、アタシの弟なんだよ。アイツ、最近になってやっとそう思ってくれたみたいだけど。……血は、確かに繋がってないけれど。そんなアイツの妹ってんなら、お前さんだってアタシの身内だよ」
「―――……。」
「分かる。分かってる。好きな男が傷つけられて死にかけてるんだから、正気でいられないことくらい、アタシだって分かる。でも、頼むよ。お前さんに何かあったら悲しむアイツの顔が目に見えてる。アイツにまた、大切な奴を喪う感覚を味あわせたくない」
未だ睨まれているフェヌグリークは、アルギンの言葉をうまく理解できないでいる。アルギン自身にはあまりいい印象がなかった。やがてアルギンの手は頭から離れていく。結局、今回もこの女に痛い思いをされてはいない。
兄だと思いたくない男を『弟』と呼ぶ女。初めて出会った時とはだいぶ印象が変わった。綺麗で、でも冷徹で、人の生き死ににまるで興味がなさそう。そんな女だと思っていたのに。
「……アリィに、また、って」
「アタシらの育ての親が死んだ話は、知ってるだろ」
「それは、前、アリィから聞きました」
「そっか。……じゃあ、分かるだろ。それ話した時のアイツの顔、どんな顔してた?」
そこまで聞いて、フェヌグリークは自分の過去の記憶を探る。彼が自分にその話をした時、いつもより元気がない、そのくらいに考えていたと思う。けれど辛い思いをしていたのは解っていたから、手を握ったかもしれない。
その時のことはそんなに覚えていない。けれど様子の違った彼の様子は覚えている。
「アイツをあんな目に遭わせた奴の事は、忘れとけ」
掛けられた言葉に、目を剥いた。フェヌグリークは、その言葉の主であるアルギンの顔を見る。その顔は、心配しているような、申し訳なさそうなもの。
言われた言葉に噛みつくような顔をしながら両手を胸の前で握りしめた。結局、この人は泣き寝入りをしろと、そう言っているように聞こえて。
「そんな、こと、できるわけ」
「アタシが―――ぶん殴ってくる」
次いで聞こえた言葉に、耳を疑った。
「死なすのは嫌なんだろ、死なない程度にボコボコにしてくるよ。だから、それで我慢してくれ。荒事はアタシらの分野だ」
命を奪うのにも躊躇がないはずの集まり。ずっとそう思っていたし、実際そうだったはずだ。けれど、フェヌグリークの認識はその一言で決定的に変わってしまった。
この女は。
この酒場は。
フェヌグリークが疎んでいたはずの行為も、尊いと思っている感情も、両方を内包していた。きっと、この場所が持つ側面はそれだけではないだろうということも、今感じる。
「……」
冷静になれなかった自分を、恥じる。かつてこのマスターに啖呵を切った自分が情けなくなった。あの時はアルカネットが元気で生きているから、あんなことが言えただけで。実際大切な人が傷ついてしまって、こんなにも取り乱している。
フェヌグリークが口を噤んで俯いたのを、アルギンは心配そうな顔で見ていた。何か文句でも言いたいのか、はたまた言葉もないほど苛立っているのか。そんな心配は、次の瞬間どこかに吹き飛んでいく。
「アルギン!!」
下の階から名前を呼ぶ声。ふと耳を澄ますと、何か複数人がザワザワと話しているような声が聞こえた。名を呼ぶ声の主はアクエリアだろうが、その他の声の出所が分からない。
「……なんだ?」
アルギンに嫌な予感が走る。呼ばれるまま一階に向かおうとすると、フェヌグリークもその背中についてきた。
階段を下りるごとに、声が大きく聞こえる気がしている。アルギンの眉間に皺が寄り、勘弁してくれと小声で漏れた。
一階ではミュゼとアクエリアが扉に向かっていた。アルギンが降りてくる階段の音で気づいたらしく顔を向けてくる。
なんだ。何が起きた。そう問いかける事もなく、アルギンは開いているカーテンの向こうを見て気づいてしまった。
「……げ」
そこにいたのは、見知った顔ばかりだった。
酒場の常連達、こないだ世話になった冒険者ギルドの受付、八百屋、本屋、花屋、カフェ店長、それから、それから。見える範囲からざっと数えるだけでも二十人はいるんじゃないか。
それらが扉の向こうにいる。用向きは何だ。不安にアルギンの眉間に更に皺が寄る。
「アルギン!!」
声が掛かる。カーテン閉めといてくれよ、とアルギンが二人に歯噛みした。
「御用があるそうですよ、アルギン」
アクエリアは特に何も気にしない様子で、アルギンにそう言ってのけた。
「御用ってなんだよ」
「さて。それはお聞かせ願えませんでしたから」
白々しく嘯くアクエリアに舌打ちしてから、アルギンが閂に手を掛けた。
開く扉。そこから雪崩れ込むように入ってくる人々。ミュゼとアクエリアが数歩後ろに下がった。後ろをついてきたはずのフェヌグリークは、空気の異常さを感じ取って階段の側から離れなかった。
賢い子だ。アルギンは一度だけフェヌグリークの方を振り返り、少しだけ微笑んで見せる。
さて、どんな用事があってここまで集まったのか。アルギンは並んだ顔を見渡した。
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