第160話

 酒場の面々が停滞している間に、街の空気はどんどん不穏になっていった。

 アルギンが休憩から目を覚ましても、あの時アクエリアが倒した奴らからの報復が来る様子がない。あの連中が殴り込みに来てもおかしくはないと思っていた。

 気づけば窓の外は夕暮れに染まりつつある。寝起きのアルギンがふと通りに視線をやると、せわしなく走っている人々の姿が目に入った。

 いつも見ていた夕方の気配ではない。何か嫌な予感が走ったアルギンは、まだ完全とは言えない体を引きずってベッドから起き上がる。夢を見た気はしないのだが、取り留めのないことが頭の中に居座っている感覚。お願いを聞いてくれた王女の姿は、まだ部屋の中にはなかった。

 酒場のホールに出た。あまりに静かなそこにいたのはアクエリアだった。一番隅、アルカネットが簡単に修理してくれた窓の側でぼんやりと外を見ている。この男が、心ここにあらずの顔をしているのは珍しくない。けれど、今日のその表情はなぜか心配させる。

 アクエリアがアルギンに気づいた。視線を向けたアクエリアだったが、何も言うことなく、ただ見ている。そんな彼にアルギンが近づき、並んで外を見る。その頃には、アクエリアの視線も再び窓の外に。


「何か変わったことでもあったか」


 アルギンが問いかける。しかし、アクエリアの返事はない。


「……アクエリア?」


 溜息を漏らす唇は、渋々開かれる。


「アルギン」

「どうした」

「貴女、再婚を考えたことってありますか」

「は?」


 予想外の質問だった。急に何を言うんだこの男は。そう思いかけて、アクエリアの表情が浮かないことに気づいた。今まで見てきたどの表情より、思いつめた顔。そんな顔で、なんて事を聞いてくるんだ、と。

 いつも通りの表情だったら、何馬鹿なこと聞くんだ馬鹿、と突っぱねられただろう。


「……ない、よ。考えられるわけないだろう。アタシは今でもあの人の事を……」


 ―――愛している。それまでは、声には出さなかった。

 そんな顔をされたら、真剣に答えるしかなかった。何があったのかは知らないが、同じ建物内に今尚想う昔の恋人の娘がいるとなれば、心が揺らぐのも無理はないことだろう。

 アクエリアは俯いた。俯いて、暫くして、溜息を吐いていた。


「俺って、何のためにここまで来たんでしょうね」


 苦悶の声。


「六年前にここに来たのが悪かった、とは、思いません。思わないけれど、その頃にはもうとっくに手遅れで。それどころか、最初から無駄だった、って。そう思うと、俺は何してたんだろう、って虚しくなってるんですよ。俺がいなくても、ミリアはずっと幸せだった。ミリアがいなくて苦しかったのは俺だけだった。他の女に目もくれないのが俺の愛の示し方だと思っていたけれど、ミリアは結婚して、子供も産んでいた」


 声には失望の色が見えた。


「一番愛した女は、相手が俺じゃなくても良かった。……ミュゼに言われた通りだ、俺の愛した彼女はもういない。俺の二十年って、何だったんでしょうね」


 二十年間の感情が溢れ出したように、目に見えて落ち込んでいる。そんなアクエリアに何も言うことが出来なかった。……何を言えばいいのか。

 アルギンの口から、もしかしたら、の可能性が出かけた。

 『もしかしたら、アールリト王女は、お前さんの子供かもしれない』

 ……言いかけて、やめた。言った所で、それが真実かわからない。王女は自分を国王の子供だと思っているだろう。この『もしかしたら』は、誰も幸せにしないと気づいて、何も言えなくなった。


「……それで、どうしてアタシの再婚の話に繋がる訳」


 慰める言葉を持たないアルギンは、先ほどの質問に質問を返した。するとアクエリアは少し唸るような声を出して、それから。


「あれだけ『彼』に執心していた貴女でも、何か理由があれば他の男に目が向いたりするのかな、と思っただけです」

「なんだよ、それ」

「信じたかったんですよ。何か理由があれば、誰であれ他の男と結婚もできるんだろう、と。……理由なく俺は捨てられたんだと、思いたくなかったんですよ」

「……そんなの、人によるだろ」

「それで、どうなんです? アルギン。貴女は、理由があったら他の男と結婚できますか?」


 その質問はアルギンの頭を悩ませるのに充分だった。考えて、暫くの後に思い至る。


「ウィリアとバルトに何かしらの身の危険が及んで、それを回避するのに結婚しか手段がないってんなら、するかな。結婚」


 アルギンにとって一番大事なのは、自分の子供二人で。アクエリアもその答えには納得したような顔をした。


「もう、アタシの血縁って、あの二人しかいないからな」

「何かしらの身の危険って何なんでしょうね。病気?」

「それならあるかもな。何かの病気で、薬がここになくって、材料取ってくる代わりに結婚しろ……とか言われたら、アタシだって考える」

「相手が暁さんでも?」

「感謝しながら結婚するかもな」

「またまたそんな心にもないことを」


 アクエリアが微笑んだ。


「でも、結局のところ、俺はミリアにとっての一番じゃなかったんですよね」


 そんな事を呟いて。


「女なんて、星の数ほどいるんだろ」


 アルギンが絞り出して考えた慰めには。


「それでも俺は、ミリアが良かった」


 これまでのアクエリアの二十年を象徴する言葉が返る。アルギンは、気持ちだけなら痛いほど分かる。分かるからといって、同調してやる気分にはさらさらならなかった。

 平手で、アクエリアの背中を一度だけ叩く。騎士時代に部下たちに気合を注入してやる時、よくやっていた。なかなかの打撃音がする。


「痛っ!!」

「やめてくれ、そんな辛気臭い話。アタシは聞きたくねぇぞ」

「この馬鹿力……」

「アタシはお前さんに出会えてよかったよ。お前さんがいなかったら、アタシ立ち直ってたか分からないからな」


 平手をかました方も痛かった。ひりつく手のひらを見ながら、以前の事を思い出す。大切な人を喪ってからの半年間は地獄のようだった。言葉にせずとも支えてくれた人はいて、そのおかげで今自分の足で立てているアルギン。

 アクエリアも不満そうな顔はしていたが、アルギンの心の内を察せない鈍い男でもなかった。


「傷心のアクエリアには何か酒でも奢ってやろうか? たまには日のあるうちから酔ってもいいだろ」

「貴女ですね、そう二言目には酒の話をするのを止めなさい。……確かに飲みたくはありますが、今飲んでいいものか―――」


 その時だった。

 出入り口の扉を何度も叩く音がする。急いでいるようなその音に、二人が顔を見合わせた。こんな時に誰だ、と、アクエリアが窓から扉側を覗く。


「……あ」


 漏れた小さな声。開けていい、の意味合いで一回頷いた。アルギンはこのノックの主が誰か気になるところではあったが、取り敢えず扉を開けばいい、そう思って閂を外した。


「マスターさん!!」


 閂を外しただけなのに、扉を開いて転がるように店内に入ってくる黒い影。おっと、と驚いた声を上げ、アルギンが数歩下がった。

 入ってきたのは、アルカネットの妹。フェヌグリークだった。まだ入ってきていない、外側にはミュゼもいる。


「兄が……兄が、アリィが怪我したって!!」

「はいはい落ち着けフェヌグリーク。……自警団から連絡来てな、仕事終わった瞬間飛び出した」


 血相を変えてアルギンに詰め寄るフェヌグリーク。それを窘めるように、ミュゼが説明しながら店内に入ってくる。扉は閉まり、再び掛かる閂。


「アルカネットが怪我したって、本当か」


 震えるフェヌグリークの代わりに、冷静に問いかけてくるミュゼ。その言葉に、アルギンが一回だけ頷いた。


「かいつまんで話すと、市民に斬りかかった騎士から庇う為に深手を負った」

「会え、ますか。兄に、アリィに、会えますか」

「……ちょっと聞いてくる。でも、期待すんな。かなり酷かったからな」

「扉越しでもいいんです! お願いします……!!」


 アルギンの背中にフェヌグリークが付いていく。「待ってろ」「待てません」の応酬が階段を上っている間にも続いている。

 一階に残されたのはアクエリアとミュゼ。二人は一瞬だけ視線を合わせたが、どちらともなく逸らした。


「……騎士から庇う為?」

「その瞬間は見ていませんが。放っておいたら死ぬ、というほどには大怪我でしたね」

「おいおい、マジかよ」


 目を合わせないまま、二人の会話は続く。マジか、と言ったミュゼの顔は驚いた様子もなく、声だけで判断すると冷静だ。アクエリアがちらりと視線を向けると、ミュゼは窓の外を見ながら無表情だった。


「心配ですか」

「少しはな。同じ飯を食った縁だ。私より強い男が、そうまで酷い怪我を負うなんて考えてなかったから」

「……市民がいたそうですからね。仮にも自警団なんです、そちらを優先してしまったのでしょう」

「そんなもんかね。自警団って、本当に大変そう」


 綺麗な横顔だ、と、思った。そこそこ見慣れたアルギンと似た横顔。しかし、アクエリアにはまるで違う顔に見える。結ばれて流れる金糸のような髪と、同じ色の長い睫毛は当たり前として、美人と言われるその顔の作りまで。

 アクエリアの瞳はそこで逸らされる。自分が傷ついているのを理解しているからだ。そのまま、感じてしまった美しさに流されて手を伸ばすわけにはいかない。そんな不誠実な自分を自分が許せない。


「死んだり、しないよな」

「……。どうでしょうね」


 スカイに返したような返答を、ミュゼにも。ミュゼもその言葉に、表情に暗い影を落とす。二人は、まだ目を合わせない。


「大丈夫だって、フェヌグリークには言ってやれよ」

「彼女には、ユイルアルトさんかジャスミンさんが伝えるでしょう。俺の言葉より、もっと確実な言葉を」


 二人は並んで外を見ていた。夕暮れに染まった街並みは不気味な色に感じられる。

 何かが変わる。二人は声に出さずとも、同じことを思っていた。


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