第149話
思考や念だけで生き物が殺せるなら、と、その酒場にいる者は全員考えただろう。
体の内から湧き上がる殺意に、アルギンはまるで内臓から焼き焦がされているようだった。
自分を助けてくれて、引き取ってくれて、側に置いてくれた大切な人。
アルギンにとって大切な、そんな命を散らしたものは、その死を嘲笑っていた。
酒場の椅子が投げつけられる。
アルカネットは手当たり次第に、側にあるものをマゼンタに投げていた。その形相は凄まじく、文字通りの『親の仇を見る顔』。近場に武器になりそうなものがそれしかない。マゼンタはそれらを、まるで触手のように出した蔦でひとつひとつ弾き飛ばしていた。
弾き飛ばす先は、他の酒場の面々がいる方向。スカイを逃がすために、アクエリアは尚も堪えている顔で安全な場所に誘導する。ダーリャは手近なテーブルを引き倒し、盾のようにしながら様子を伺っていた。
ミュゼは太腿から折り畳み式の槍を出した。それを完全に伸ばし、使える状態にした所で
「ミュゼ」
横から、それをアルギンに攫われた。
「貸せ」
引っ手繰った後の遅すぎる貸借希望にミュゼが呆気にとられた顔をする。その表情は、蔦の一本がすぐ側に飛んできたことにより消えた。
音が軽いものではない。重量のあるもので床を引っ叩いた音がした。古い床は、蔦の殴打跡の形に割れた。これで殴られたら、骨だけでは済まないかも知れない。武器を失ったミュゼは、分が悪いとばかりにダーリャの側まで後退した。
「参りましたな」
ダーリャが側まで来たミュゼに声を掛ける。
「参ったも何も……、なんて言えばいいんだ、この有様。ダーリャこそ大丈夫か」
「私は大丈夫ですよ。……しかし、あの二人は危険ですね。頭に血が上っています」
「でも今止めるなんて出来ないぞ……。って、危な!!」
二人の頭上を半壊の椅子が飛んでいく。その椅子は後方にいるアクエリアとスカイの所まで飛んでいき。
「アクエリアさん!!」
スカイの体から生えた蔦が、再び弾き返して床に落ちた。マゼンタのそれより強さの足りない蔦だが、自分達を守るだけなら事足りるようで。
アクエリアはスカイを階段側の後方に誘導してから、マゼンタを見つめたまま棒立ちだった。幾らスカイが呼び掛けても、唇を引き結んだまま微動だにしない。
「アクエリアさん、どうしたんですか! 危ないですよ!!」
「……。」
「アクエリアさん!!」
その身を案じて半泣きで叫ぶスカイ。服を掴んで前後に揺らすが、アクエリアからの反応は無かった。取り縋って泣き出すスカイに、漸くアクエリアの手が頭に伸びてきた。
「俺が、何かを、する、必要は、今は、ありません」
「……アクエリアさん……?」
「ないん、です。そうでしょう、兄の仇を取るのは、あの二人でいい。俺の出る幕はない」
アクエリアの視線は、アルカネットとアルギンに注がれていた。
「あの二人が討ち漏らした時だけ、俺が殺す」
アクエリアは、全身の毛が逆立つような感覚を覚えていた。気を抜いてしまえば、二人を差し置いて自分がマゼンタを殺しに行ってしまいそうな。
スカイは、外見変化の魔法が解けかかっているアクエリアにそっと身を寄せた。髪の色も、肌の色も、元の色に戻りつつある。憎しみを堪えているようなアクエリアの吐息の音が、スカイの耳に届いた。
「っはははははは! 武器が無いと戦えない種族って損ですねぇ!!」
マゼンタは体から出る蔦の量を増やし、それらを数本の太い蔦に纏め、周囲を横薙ぎに払った。それだけで近場の椅子やテーブルが一気に箒で掃かれたように、一纏めにされて乱雑に酒場の隅に追いやられる。
アルギンは槍を手に、障害物が無くなったホール内を駆けた。細身の槍を振り上げ、マゼンタ目掛けて振り下ろす。
鈍い音がした。
しかしそれは、マゼンタ本体に当たった音ではない。触手のような蔦が、槍の打撃を受け止めていた。
「……ざーんねん」
ニタリと笑ったマゼンタの口から出るその声。次の瞬間には、アルギンの体は蔦の一撃を横腹に食らい吹き飛ばされていた。
「っあ、がっ……!!」
カウンターに叩きつけられるアルギン。その口から出た声は苦悶。痛みに思わず蹲った。先程食べた夕食が胃の腑から出かけるが、槍を握り締めて堪え、それは何とか未遂に終わった。
「アルギン!!」
「……うるさいなぁ、もう」
アルカネットの声に、溜息を吐いたマゼンタ。振り返りざまに振り抜かれた蔦を辛うじて避けたアルカネット。
避けた先で、窓硝子が大きな音を立てて割れた。窓枠も壊れ、カーテンも裂け、外から動揺した声が聞こえる。まだ、騎士の葬列は終わっていなかった。
樹木の根が床を這う音がする。マゼンタの視線の先にはアルギンがいた。まだ腹部を抑えている。
「こんなの、もう要らないですよね?」
アルギンの手から、蔦が槍を奪う。それを本来の折り畳む方向とは逆にへし折っていった。ミュゼがその光景に歯噛みする。その槍はミュゼの愛用品だ。
見るも無残に折られた槍を床に落としながら、マゼンタは今度は蔦でアルギンを拾い上げようとする。……それを見ていたアクエリアが小声で呪文を詠唱し始めた。声は低く、怒りを込めて。
「スカイ君」
その時、何やら硝子の擦れる音をさせながら階段から降りて来る人影にスカイとアクエリアが気付いた。アクエリアが詠唱を止める。
「下がっていて」
その声も怒りを湛えている。声の持ち主は、手に持っていた何かを―――マゼンタに向かって投げた。
「っ、?」
マゼンタがそれに気付くのは、自分の直ぐ側まで投げられてから。
反射的にそれを蔦で打ち返そうとするが、その『何か』は打ち返されるより先に、蔦の力に負けてその場で割れてしまった。
『何か』は硝子で出来た瓶だった。それも、店でよく使われているような酒瓶だ。中に何かしらの液体が入っていて、それがマゼンタの体中に降りかかる。
「………ユイルアルトさん」
マゼンタが、その瓶を投げつけて来た人物を視界に認めた。彼女は息荒く、またマゼンタを憎しみ籠る瞳で見ている。
「許さない」
ユイルアルトの口から出たのは、怨嗟の声だった。
「許さない。リシュー先生を、私の師を、貴女は奪った。アルギンを、私の恩人を、貴女は傷付けた。そんな二人の大事な人を、貴女が殺した」
「……で、その恨みが、この瓶って訳ですか? こんなチンケなものが? あははっ、随分安い恨み!! 気分は晴れましたか?」
投げられた瓶は、今は割れて床に転がっている。液体が掛かった事でマゼンタの不愉快さは増したが、それが彼女に出来る精一杯だと侮って鼻で笑った。ユイルアルトの瞳からは、涙が一筋流れている。
「……別に女子供まで手に掛けたい訳じゃ無いんですけどぉ。折角だから聞いておきますよ。このお酒、何なんです? なんか変なにおいするし、ただのお酒じゃないですね?」
「―――酒?」
割れた酒瓶の中身の臭いを嗅いで、マゼンタが眉を顰めてユイルアルトに問いかけた。あまりいい匂いとは言えないそれは、マゼンタが酒場で働いていた時には一度も嗅いだことのないものだった。薬草酒とも違う、鼻に残る香り。問い掛けるマゼンタを見て、次に笑うのはユイルアルトの番だった。
「……くっ、ふふ……。あはっ、ははははははははは!!!」
「……何がおかしいんです」
「酒瓶に入ってるからってお酒だなんて、誰が言いました? 美味しいならお代わりもあるんですよ、ご家族で如何ですか」
「え……、何、酒じゃ、ない? じゃあ、これ、なに……、え、なに……?」
笑いながら涙を流すユイルアルト。彼女の言葉に、マゼンタが動揺した。その姿を見ながら、ユイルアルトがもう一本酒瓶を取り出す。
「アクエリアさん!!」
ユイルアルトはその酒瓶を、今度はマゼンタの頭上に投げた。
「割って!!!」
それは打ち合わせなんて何もしていない、そんな状態でのユイルアルトの願いだった。それに応えるべく、アクエリアが酒瓶の方に向かって手を伸ばし、小さな早口で命令形の呪文行使。
破裂音が響いた。
酒瓶は、その中身をマゼンタに向かって降り注がせる。そのすぐ側のアルギンにも、少量掛かるくらいの見事な破裂だった。
「っ、きゃあああああああ!!?」
その中身を浴びたマゼンタは叫んだ。二本目を浴びたマゼンタの、枝や蔦になっている部分からぼろぼろと葉が落ちていく。それだけではなく、枝や蔦自体の変色も見られた。濃い緑が黄色になっていく。
「い、たい、痛い!! 痛い!!! これ何!!?」
「これが、私の『恨み』です」
ユイルアルトが、マゼンタに近寄る。痛みに悶絶するその根を踏んで、腰のベルトから何かを取り出す。それは、アルギンと共に崩落した二番街を見に行った時に下げていたのと同じもの。その中から小さな円筒形の薬瓶を出した。
「神の子に武器が無ければ勝てないのなら、貴女達をただの『植物』に引きずり落とす。路傍に生えている雑草を毟るみたいに、私は貴女を引き千切る。根すら逃がさない」
薬瓶の中身を、ユイルアルトはマゼンタの根に振りかけた。その液体は一滴残らず、尚も悶絶しているマゼンタの根に染み込んでいった。
まるで魔女のようだ。ユイルアルトはかつてそう烙印を捺されて故郷を逃げ出したのに、その不名誉な二つ名が似つかわしい行動と発言をしている。
種族としての恐怖を、ユイルアルトの言葉から感じ取ったマゼンタは涙目で転ぶように扉へ向かって逃げ出す。這うより走る方が早いと判断したのか、体はヒューマンと同じ形を取っていた。
「……っ、おぼ、覚えて、なさいっ……!! この屈辱、いつまでもこのままにしておくなんて思わないでっ……!!」
扉を開ける寸前に言った、マゼンタの言葉にユイルアルトは。
「そちらこそ覚えていなさい。人間を、エルフを、私達を甘く見た罪は重い。貴女は念入りに干して薬の材料にしてあげる」
空になった薬瓶を手に、叫ぶマゼンタにそう返した。
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