第139話


「わ、かり、ません。急に、痛みが」


 息を浅くしながら、クプラが現状を報告する。ユイルアルトが腹部を触ると、ガチガチに張った腹がある。長期間座っていた事による疲労かも知れない。すぐさまその場で椅子を二つ繋げ、クプラを横たえる。

 ユイルアルトが自前の懐中時計を見た。緊迫する空気の中、クプラの呻きと痛みが治まった時間を確認し始める。脂汗を浮かべたクプラが、痛みの最中落ち着いた呼吸をしていたのは数分。痛みは、不規則な間隔を開けて続いているようだ。


「これはこれは……」


 ダーリャとフュンフが顔を見合わせる。カリオンは何が何だか解っていない。

 アルカネットとアクエリアが焦った顔をしている。二人には、ぼんやりと覚えがあった。

 アルギンがクプラの側に寄る。それから、強く握り締められた手を握った。


「クプラ、大丈夫? 痛い?」

「は、はい、でも、少ししたら、痛みが引いて……」

「ごめんね、無茶させた。今は動かなくていいから、少しお休み」


 はい、と小さく掠れた声がする。それからクプラは目を閉じた。

 何が起きたか解っているのは、カリオン以外の全員だ。フュンフは椅子から立ち上がると、それをクプラの側まで寄せた。椅子二つでは狭いクプラの休憩場所を、少しでも大きくしようとしての事だ。


「産み月、か? それにしては細いようだが」

「これまで三番街にいたそうだからよ、生活もそんな楽じゃなかったろう。栄養取れてないんだよ」

「産婆に心当たりは?」

「アタシの時の婆ちゃんにお願いできたら良かったけど、今城下がこうだろう。話、通せてないんだ」

「こちらの孤児院のシスターに話をつけよう。呼んでくるからそれまで待て」

「助かる」


 フュンフは理解が早かった。孤児院を管理している『月』隊長だからとも言える。そしてそれは先々代の隊長であるダーリャも。

 ジャスミンとユイルアルトはそれぞれ動き、ジャスミンはクプラの部屋から毛布を、ユイルアルトはキッチンから水を持って来た。アルカネットとアクエリアは、この状況が初めてでなくても戸惑うばかり。


「……アルギン、何かすることはありますか」


 アクエリアはそれでも、用事を聞いた。今はもう、城どうこうの話どころではなくなっている。フュンフは颯爽と酒場を出て行ってしまったから余計に。


「今は大丈夫だ。……まぁ、何もすることなかったら寝とけ。フュンフは行っちまったしな、面倒事はまた明日考えよう」

「……部屋にいる。何かあったら呼べ」


 アルカネットは一足先に部屋に戻った。力仕事で何か用を言いつけられるのは彼だ。それを解って、先に休息に向かった。

 アクエリアは残っている。しかし、その隣でスカイが不安そうな顔をしているのを見て、その背中を掌で庇いながら二人で部屋に向かった。

 残った人数の方が多かった。目を閉じたクプラとユイルアルト、ジャスミン、それからミュゼとアルギンとダーリャ、そしてカリオン。


「アルギンさん、これは一体」

「決まってんだろ」


 アルギンがクプラの腹を撫でる。横向きで目を閉じているクプラから、圧迫されているような呻きが聞こえ続けていた。


「もうすぐ出産なんだ、クプラ」

「出産……!? こ、こんな場所でですか!?」

「こんな場所とはなんだ馬鹿野郎」


 カリオンの本音が漏れ出た言葉に噛みつくアルギン。そんなアルギンを「まぁまぁ」と宥めるダーリャは、カリオンの腕を引いて酒場出入り口まで。

 外はもう深夜だった。寒い空気が身を切りそうになるが、カリオンは自前の外套があるので少しだけなら寒空の下でも耐えられる。外に出て、ダーリャの方に向き直るが、彼はカリオンを追い出そうとする意志を揺るがさない。


「カリオン、遠路はるばる申し訳ないが、今日は事情が事情故こうして見送る事を許していただきたい」

「それは構いませんが……、大丈夫なのですか。我々は未だ、この先の話が何も決まっていない」

「今はもう暫く、お待ちください」


 ダーリャがアルギンに視線を向ける。もうクプラしか見ていないその目、真剣な顔に思わず目を細める。

 カリオンは困ったように眉根を下げたままだ。


「彼女とて、様々な事を考えている」

「……ですが」

「心配なら、また明日来ると良いでしょう。貴方にも休息が必要な筈だ」

「休息などと、今そんな事を言っている状況では」

「貴方が、一番苦しい立場に立つ事になるのですよ」


 ダーリャの瞳が、カリオンのダークブルーの瞳を射抜いた。その言葉の重さに、カリオンが押し黙る。黙ったまま頭を下げて、酒場の柱に括っていた馬を出す。彼は蹄の音を立てながら去っていった。

 彼を見送った後、ダーリャは酒場の扉に閂を掛ける。フュンフが戻ってくるのはまだ先の話だ、その時になれば、彼はまた扉を叩いてくれるだろうと期待する。

 ダーリャがまた酒場の中を見た時、アルギンはまだクプラの手を握っていた。クプラは、規則的な寝息を立てている。


「クプラさんは、御眠りになったのですかな」

「……そのようです」


 密やかなアルギンの声。息をするたびに毛布を掛けられた腹部が、ほんの少しだけ動き続ける。医者の二人が横についているが、クプラに今の所、出産の兆候はそれ以上見られなかった。


「ここは、寒いでしょう」


 ダーリャはそんなクプラの側に寄り、彼女を横抱きに抱き上げた。安定した足元は、妊婦にしては軽いクプラを担いでも平気そうだ。


「どなたか、付いていて差し上げますか? もし皆さんが御眠りになられるなら、私が付いていようと思うのですが」

「では、私が」


 ダーリャの提案にはジャスミンが手を挙げた。それを受けてダーリャが笑顔になる。二人がクプラを連れて、部屋に戻っていった。

 そして残ったのはミュゼとユイルアルト、そしてアルギン。ミュゼは不機嫌そうだが、適当な椅子に座り直して黙っていた。


「ミュゼ、眠らないのですか?」

「……あの『月』隊長とやら、また来るんだろ? こんな状況で眠れるか」


 ナイーブな言い方をするミュゼだが、一階の番を自分がすると言っているようで、それに安心したユイルアルトは部屋に戻っていく。

 アルギンは、今持てるだけカップを持ってキッチンに引っ込んでいった。コーヒーを二人分淹れる為だ。

 お湯を沸かすために火をつける。湯が沸くまで、その場で準備しながら待っていた。カップは新しく二つ出す。使ったカップやポットは洗う。それだけ終わらせたら、湯が沸いた。適当なやり方でコーヒーを淹れる。それらを済ませたアルギンはカップを両手に一つずつ持ち、元いたホールまで戻った。


「ミュゼ、飲むか」


 ん、と短い返事が返る。差し出されたミュゼの手に、コーヒーの入ったカップを持たせる。アルギンは立ったまま、その場で熱いそれを飲み始めた。


「……アタシが起きてるから、お前さんは寝なよ」


 湯気立つカップから口を離して、ミュゼに声を掛ける。しかし彼女は無視するように、どこか遠い所を見ながらコーヒーを飲んでいる。

 二人は暫くの間、無言でコーヒーを味わっていた。それでも、沈黙は何故か不思議と嫌な感じはしない。


「……アルギンこそ寝なよ」


 それからまた暫くして、ミュゼの口が声を出すために開いた。その声はどこか眠たげで、アルギンは鼻で笑う。


「アタシが寝たらフュンフの対応できないだろ」

「……私にだって出来る。あんなオッサン、普通のシスターの振りしてたらやり過ごせる」

「やり過ごしてどうするよ。明日以降の約束とか取り付けられんのか」


 二人の声は同じくらい眠そうなものだったが、カップを空にして一回伸びをすれば、いつもの声に戻る。

 今まで約束らしい約束なんて、この酒場とあの騎士達になかった。それを解っているミュゼがアルギンの言葉を鼻で笑った。


「……約束、なんて、そんな生温いモンしてる段階じゃないだろ。もう切羽詰まってるってのに、『明日何時に集まる?』って子供みたいなこと言うってのか」

「そうじゃねぇよ。……そうじゃねぇけどよ」


 切羽詰まっている。改めてミュゼの口から出ると、不思議と現実味が感じられる。今カップを持っていなくて良かった。持っていれば、ミュゼの目から見ても解るくらいに震えてしまっているだろうから。

 けれど、ミュゼにはそれが伝わってしまっている。冷たいミュゼの視線が、アルギンの全身を滑っていく。


「……いっそ、逃げるかアルギン」


 その震えを解っていて、問い掛ける言葉は。


「どっか、遠くに。王家の手が届かないどこかに。皆連れて行って、どっかで暮らせばいい。はじめは生活苦しいかも知れないけど、ジャスミンとユイルアルトの二人がいたら金銭面はなんとか出来る。いっそ冒険者ギルドに身を置くのも良いかもな? こんな国に執着する理由なんて、お前さんには無ぇよ」


 甘い音だった。耳障りの良い言葉がミュゼの口から流れ出る。一瞬だけ、耳と脳が支配されたような感覚を覚えるアルギン。その甘さはうん、そうだね、と納得させられかけるほど。

 しかしミュゼの言葉には一つだけ間違いがある。執着する理由だ。あるのだ、アルギンには。


「……馬鹿言え」


 一言で否定されたミュゼの顔は、やれやれといった顔だ。この返答が来るのも、解っていた。


「アタシが生まれたのも育ったのも結婚したのも、子供がいるのもここだ。……アタシは何処にも行けない。あの人はこの地で眠ってるんだ」


 今でも恋しい、ただひとりのひと。

 ミュゼはその返答が来ることを知っていて、問い掛けた。もう話すことは何もない、という風にミュゼは席を立つ。


「何かあったら呼んでくれ」


 ミュゼはそう言って階段を昇っていく。軋む音は耳慣れたもの。しかし近々どうにかしなければいけないもの。……まだ、ここに住み続けるなら。

 アルギンはカップを手にした。この場に残っている全てのカップを集めて、キッチンの洗い場に持って行く。まだ、フュンフは戻らない。

 ミュゼから言われた言葉も、アルギンは本当は解っていた。子供達を連れて、ギルドメンバーの皆も連れて、此処ではない何処かへ行けたら、と、アルギンだって夢に見ていた。


 それが出来ないのは、今まで起きたすべてごと、この国を愛しているからで。



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